めぇでるコラム
さわやかお受験のススメ<保護者編>第6章(1)花祭りでしょうね 卯月
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「めぇでる教育研究所」発行
2017さわやかお受験のススメ<保護者編>
~紀元じぃの子育て春秋~
「情操教育歳時記 日本の年中行事と昔話」
豊かな心を培う賢い子どもの育て方
-第20号-
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第6章(1) 花祭りでしょうね 卯 月
物の本によると、卯月(うづき)のいわれは、旧暦の4月は今の5月頃にあた
り、「卯の花」が咲く時期で「卯の花月」の略だそうで、わかりやすいですね。
何事も訳ありですが、逆に異説ありで、「卯の花」が咲くから「卯月」ではな
く、「卯」に咲くから「卯の花」であるともいわれているそうです。
★★花祭り★★
4月といえば、私たちの年代では、花祭りですね。
しかし、今はどうでしょうか。仏教系の幼稚園や学校以外では、見られないの
ではありませんか。キリスト、釈迦、マホメット、孔子の四人は、「世界の四
大聖人」といわれていますが、花祭りは、そのお釈迦さまが生まれた日で、正
式には「潅仏会(かんぶつえ)」といいます。
お釈迦さまは、今から2500年程前の4月8日にインドで生まれました。お
父さまは王様でシュッドーダナさま、お母さまはお妃でマーヤさま。
ある夜のこと、お母さまは何でも白い象がお母さまのお腹に入った、不思議な
夢を見られたのです。国一番の物知り博士によると、これは赤ちゃんを授かっ
た夢だそうで、お父さまもお母さまも大変、お喜びになり、お里に帰って赤ち
ゃんを生むことになりました。
その途中、お母さまがルンビニー園という花園で休まれた時のことです。百花
繚乱、咲き乱れる花をご覧になっている時に、急にお腹が痛くなり、そばにあ
った菩提樹の木に倒れかかり、お母さまは元気な男の子をお産みになりました。
何と、赤ちゃんは、前と後、右と左に七歩ずつ歩いてとまり、その小さなかわ
いい右手で空を指差し、例の有名なことばを発せられたのです。
「天上天下 唯我独尊」
(世の中の人々は、この世に一人しかいない、かけがえのない宝物です)
小鳥たちはさえずり、どこからともなく美しい音色の調べが流れ、空からは甘
い香の雨が降り注ぎ、赤ちゃんの誕生をお祝いしたのです。赤ちゃんは、その
雨で体を洗ったのでした。雨が止むと、空には美しい虹がかかり、菩提樹の木
が、何と一斉に白い花を咲かせたといいますから、ただごとではありません。
この赤ちゃんが、お釈迦さまです。大きくなって、世の中の人々が幸せになる
ように長い間修行を重ね、悟りを開き、「人生の苦悩は、自我に執着する迷妄
から生じるのであり、無我の境地に立ち、安心立命せよ。そのために欲望を抑
え、心の平静を保ち、生けるものに対して慈悲を及ぼせ」と説いたのが、ご存
知の仏教です。
花祭りは、お釈迦さまの誕生日をお祝いするお祭りですが、今ではキリストの
誕生日であるクリスマスの方が盛大ではないでしょうか。同じアジア民族とし
て、ちょっと寂しい気がします。そうはいっても、仏壇のある家は、少ないの
ではないでしょうか。ご先祖様がいたから、今の自分があるのです。感謝の心、
忘れていませんか。
ちなみに、灌仏会と悟りを開いたことを祝う「成道会(じょうどうえ)12月
8日」、入滅の日とされる「涅槃会(ねはんえ)2月15日」を合わせて「三
大法会(ほうえ)」といいます。
ところで、法隆寺、五重塔の最下部の内陣には、奈良時代の初めに造られた、
仏典中の有名な場面がパノラマのように東西南北の4面に表現されていますが、
北面には、お釈迦さまの入滅を嘆く素晴らしい塑像があり、「聖徳太子の死に
対する号泣の声ではないか」と考えた哲学者、梅原猛氏は、「隠された十字架
法隆寺論」で、その独自の解釈を披露しています。それはさておき、号泣す
る塑像は、まるで生きているようで、息をのむほど圧倒されますが、その写真
を氏の著書「塔(上)」(集英社文庫 刊)のP220-221で見ることがで
きます。
お釈迦さまの「天上天下 唯我独尊」について、作家の五木寛之氏は、次のよ
うにおっしゃっています。
この言葉には、いろんな解釈があります。世間にはそれを、世の中で自分だけ
尊く、偉いんだ、と解釈する人も少なくありません。しかし、私はこれを自分
流に、次のように解釈しています。
「自分の価値は他人との比較によって決まるものではない」と。
この世の中で、自分の価値を決めるのは、あくまでも自分であって、他人に決
めてもらったり、他人との比較で決まるものではありません。自分は「生老病
死」を背負った世界でただ一人の人間だという自覚が必要です。
(「他 力」 五木寛之 著 講談社 刊 P71)
誰しも「ただ一人の存在」であり、誰しも「不透明な存在である自分」を励ま
しながら生きているからこそ、人を殺めることは、絶対に許されません。相手
は「誰でもよかった」その「誰」が自分自身であったならば、その恐ろしさに
思いいたらないのでしょうか。人を思いやる心を失うと、他人をねたましく思
い、不満を内に抱え込み、人間は限りなくばか者になるだけです。社会は、基
本的には自己責任で成り立っていることを、何としても、親は子どもに教え、
成人させたいものです。
「自分でまいた種は自分で刈り取れ」、これも明治生まれの親父の口癖でした。
★★お釈迦さまは、なぜ、甘茶が好きなのですか★★
花祭りには、桜の花などを飾った小さなお堂を作りますが、これを花御堂とい
います。 そのお堂の真ん中に、甘茶の入ったタライを置き、お生まれにな
ったばかりのお釈迦さまを表した仏さまを、お祀りします。右手は空を指し、
左手は地面を指している、あのお姿です。そして、お釈迦さまの体に柄杓(ひ
しゃく)で甘茶をかけ、無事、お生まれになられたことをお祝いしたのです。
なぜ、甘茶をかけるのでしょうか。
言い伝えによると、お生まれになった時に、空から甘い蜜のような雨が降って
きたからとか、龍香油を注いで産湯を使わせたなど、いろいろあるようです。
甘茶は、五香水、五色水とも呼ばれ、五種類の香水をもちいるそうです。
これが、そもそもの発端ですが、人間、欲深なもので、次第に、自分の都合に
合わせて願望祈願成就的なお祭りになってしまったのです。無病息災、家内安
全、商売繁盛、入学祈願、交通安全などなど、本当に厚かましく、いろいろな
お願い事をするのですから、お釈迦さまは、苦笑していらっしゃるでしょう。
「私の誕生日ではありませんか、祝ってもらうのは、私です」
そうおっしゃらずに、せっせと願い事を聞いておられるところが、偉いです。
でも、お祭りに参加するのは、ほとんどが子どもで、その願いも純真ですから、
お釈迦さまも真剣に聞かざるをえないでしょう。
余談になりますが、子どもの頃、硯に紅茶を入れて墨をすると、字がうまくな
るといわれ、何回も挑戦しましたが、私には効き目がありませんでした(笑)。
★★仏教童話★★
お釈迦さまといえば、何やら難しい経典などを思い浮かべがちですが、とても
いいお話がたくさん残されています。わが国でも、花岡大学先生が仏教童話と
して再現されています。
先生は「情操」について、次のようにお話されています。
「情操」とは何かといえば、それは「高尚な心の働きによって生ずる複雑な感
情のことだ」といわれているが、「高尚な心」とは「下品な心」の反対であり、
それゆえに分かりやすくいえば、それは「やさしい心」「温かい心」「思いや
りの心」「美しい心」ということであり、その「最も」やさしいもの、あたた
かきもの、美しきものは、「宗教」と次元を同じくするものだと私は考える。
(中略)
優れた本とは、第一に子どもに感動を与えるものであり、(中略)第二に、作品
の根底に「宗教性」を踏まえることが必要だが、それがむきむきに出てくると
説教となって文学性を消滅する。
(ほとけさまといっしょに 仏教児童文学目録 P2
小松 康裕 法楽寺くすの木文庫 編集 朱鷺書房 刊)
先生の作品は、宗教がむきむきに出てきませんから、抹香臭くなくて分かりや
すく、清らかに生きる人々の話からは、勇気と感動さえ与えてくれます。子ど
もの頃には、似たような話をお年寄りから聞き、「正直に生きないと地獄に落
ちるのだよ!」と脅かされていましたね(笑)。私達の年代は、こういったこ
とも情操を養う機会となっていたのではないでしょうか。多くの作品の中から、
一編だけ紹介しておきましょう。
金色の鹿
濁流に飲まれ、溺れ死にそうになっている狩人を、森の王さまである金色
の鹿が、身をていして助けます。その時、金色の鹿は、「私がこの山にいるこ
とを、誰にも話さないで下さい」と狩人と約束をします。
その国のお妃さまが、ある晩のこと、金色の鹿の夢を見、王さまに探し出して
欲しいとお願いします。そこで、王さまは狩人たちに「見かけた者はいないか、
案内すればほうびを使わすぞ」と呼びかけたところ、現れたのが、命を助けて
もらい、絶対に他言しないと約束したはずの、あの狩人でした。
王さまは、狩人の案内で家来を連れて山に入り、金色の鹿を見つけ出します。
「王さま、あれが金色の鹿です」
と指を指すと、狩人の手首がぽろりと落ちてしまったのです。驚いた狩人は、
約束を破って申し訳ないと泣いて謝ります。わけを聞いた王さまは、かんかん
に怒り、狩人を射殺そうとしました。すると、金色の鹿がこういったのです。
「その男は罰を受けていますから助けてやってください。どうしても許せない
なら、私を殺してください」
それを聞いた王さまは、胸を打たれました。今まで王さまは狩が好きで、生き
物を追いかけまわして喜んでいたからです。鹿の気高い心を前にして、恥ずか
しくて顔をあげられませんでした。鹿は、仏さまが姿を変え、私をまともな心
に引き戻すために現れたのかもしれない。
王さまは、弓と矢を地面に投げつけ、金色の鹿に、
「生き物の命をとる狩を止めることができました。あなた様も森へ帰って、い
つまでも幸せに暮らしてください」
といったのです。狩人も心から後悔すると、地面に落ちていた手先は、男の腕
に戻ってきたのでした。
(仏教童話 かもしかのこえ 花岡 大学 著 善本社 刊)
仏教童話「かもしかのこえ」他3巻には、この他に、欲の汚さをといた「仏さ
まの連れてきた少年」、乱暴者をいさめる「なきだした王さま」(いさめ方は、
観音様と孫悟空の話とそっくり)、売り飛ばそうと捕まえるとただの鳥になっ
てしまう「金色の鳥」、本人とまったく同じ人が現れ、どうやっても自分が本
物であることを証明できずに泣きを見るけちな男を描いた「えらい目にあった
けちん坊」など、「みんなも一緒に考えましょう」と話しかける形式で構成さ
れています。
また、花岡大学仏教童話には、幼子を取りっこし、本当の母親が引っ張って痛
がるわが子の手を離す「母親裁き」(「大岡政談」にもある話)など、たくさ
んの童話が収められています。いずれも、お釈迦さまの清らかに生きる姿勢を
表したもので、仏教を説くのではなく、幼子に、清らかな心とは何かを、やさ
しく話しかける作品になっています。
淑徳幼稚園は仏教系だけにお釈迦さまの教えに違和感はないとはいえ、進学教
室でこういった話をするたびに、この時期だからこそ、純真な子ども達の心に、
素直にしみこむものだと教えられました。幼児期の情操教育、こういった体験
からも培われるものではないでしょうか。図書館で見かけることがありました
ら、ぜひ、お子さんに読んであげてください。
仏教童話 かもしかのこえ 他全3巻 花岡大学 著 善本社 刊
花岡大学仏教童話 消えない燈 金の羽 花岡大学 著 ちくま文庫 刊
余談ですが、「Wの悲劇」「第三の女」「喪失」などで楽しませてくれた推理
作家の夏樹静子さんが、3月19日に冥界へ旅立たれました。「椅子がこわい
私の腰痛放浪記」(文春文庫 刊)の3年間にわたる悪戦苦闘、自殺まで考えた
ときもあったとか、痛みの原因は心身症。同じ痛みに悩む私は、「椅子がこわ
い」を実感しています。わからないことは図書館で調べた頃と違い、何でもパ
ソコンのお世話になってから、椅子が一段と怖くなりました。「楽をするな!」
との警告かもしれませんね(笑)。ご主人は、「海賊とよばれた男」、出光興産
の創業者、出光佐三氏の甥であることは、あまり知られていないようです。勝
手な思い込みで恥ずかしいのですが、私にとり宮尾登美子さんは母上、夏樹さ
んは1歳年上の姉さんといった有り難い存在でした。(合掌)
(次回は「さくら」ついてお話しましょう)