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2025さわやかお受験のススメ<保護者編>第7章(4)端午の節句です 皐月

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       「めぇでる教育研究所」発行
   2025さわやかお受験のススメ<保護者編>
   「情操教育歳時記 日本の年中行事と昔話」
     豊かな心を培う賢い子どもの育て方
           -第27号-
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第7章 端午の節句です(4) 
 
 
★★五月に読んであげたい本★★  
 
「桃太郎」や「金太郎」は、おなじみのむかし話ですからさて置き、こわい話を紹介しましょう。
 
 
◆めしを食わぬよめ◆   松谷 みよ子 著
 
むかし、ある村に、たいそうけちな男がいました。嫁に食わせる飯がもったいないから、飯を食わぬ嫁を探してくれというのです。
ある日のこと、十六、七の姉さまが訪ねてきて、ご飯を食べずに働くから嫁にしてくれという。暮らしてみると、ご飯を食べず、しかも働き者です。ところが、毎日、米もみそも減っています。不思議に思った男は、次の日、仕事に出かけたふりをして、戸のふし穴からのぞいてみたところ、髪をほどいた頭の中に、大きな口があり、飯にみそをつけ、にぎっては放りこみ、大がまの飯を全部、食べてしまったのです。
男は、夕方になると、知らぬふりをして家に帰り、別れ話をすると、にわかに髪をふりみだし、頭の口をパックリとあけて、恐ろしい山姥(やまんば)になったのです。逃げ出そうとする男をつまみあげ、ふろ桶の中へ放りこみ、桶に帯をかけて背負うと、山へむかって走りだしました。男は、何とか助かろうと、桶から顔を出してみると、頭の上に木の枝があったのでとびつき、木からすべりおり、山をかけおり、ふもとまで来たのですが、気づいた山姥が、追いかけてきます。男は、そばの草むらに逃げ込みました。そこには、菖蒲がたくさん生えていたのです。
「魔除けの菖蒲にはかなわない」と、山姥は悔しそうにいい、山へ帰って行ったのです。
菖蒲が魔除けの草として、五月の節句に飾られるようになったのは、この時からだといわれています。
   五月のはなし  ももたろう 松谷 みよ子/吉沢 和夫 監修
                    日本民話の会 編 国土社 刊
 
話によっては、蓬(よもぎ)も生えている草むらになっているものや、風呂桶ではなく背負いかごのもあります。面白いことに、「この日が、実は、5月5日であった」という話も残っています。
 
子どもは、こわい話を聞きたがりますが、本当は、こわがりなのです。話だけでは、頭に大口がある姿を想像できませんから聞いていますが、本の場合は絵がありますから、こわがります。
 
ある時、絵本を見せながら読んだところ、こわそうな顔をして聞いていました。
喜怒哀楽の情緒も分化されてくる時期ですから、こわいものには、本当にこわがり始めます。
この話でも、頭の口で食べるところでは、
「これからこわーくなるから、こわい人は……、耳を、ふさいで、いいのだよー」     
といかにもこわそうにいうと、耳をふさいで下を向くのは、男の子が多いですね。食い入るように話を聞いているのは、案外、女の子なのです。肝が座っているのですね、小さい頃から。
 
あまり恐怖感を与えるのも考えものですが、こういった刺激を与え、情緒を育んでいくことも、昔話の大切な役目ではないでしょうか。恐怖感も、きちんと結末で拭ってくれる配慮がしてあるからです。
 
 
 
探してみるものですね。この話を見つけたときは、本当にうれしくなりました。
鯉のぼりの制作者は、意外にも、お侍さんだったのです。
 
◆コイのぼりのはじまり◆(伝説 墨田区) 
 
江戸時代のことです。
端午の節句が近づいたある日、江戸の町を一人の侍が歩いていました。武家屋敷の庭には、祝いの旗や、のぼりが立てられ、道では、侍の子が、紙のかぶとをかぶり、しょうぶで作った刀を振り回していますが、町人の住む町の子ども達は、かぶとも、しょうぶの刀も差していないことに気づいたのです。
染め物屋の家からは、のぼりを立ててくれとせがむ子どもの声が聞こえました。
「あれは、お侍さんが立てるものだからできない」と話しますが、納得しないで、泣きじゃくっているではありませんか。
そこへ、お侍が入って来て、大きな紙4枚と太い筆を借り、1枚の紙に大きなコイを描き、別の紙には、反対向きのコイを描きあげました。2枚の絵を合わせると、1匹のコイになるのです。もう1匹描くから、節句の前日までに、黒と赤に染め上げてほしいといって店を出たのです。
約束の日に染め上げ、日に干していると、やってきた侍は、はさみと針を借り、向きの違うコイ同士を、袋縫いに縫い合わせると、黒と赤の2匹のコイになったのです。長いさおの先につけて、家の前に立てさせました。五月晴れの空を、風に吹かれる真ゴイと緋ゴイ。周りには、町人や武士の子ども達も集まり嬉しそうです。
お侍さんの名は赤荻柳和、武士というよりは俳句を作ることで知られた、心のやさしい人だったそうです。こうして、次の年の5月5日から、江戸の町にはコイのぼりが、武士の家にも町人の家にも、立てられるようなったのです。
これが、コイのぼりの始まりだそうです。
 
 県別ふるさとの民話18 東京都の民話 日本児童文学者協会編 偕成社刊 
 
 
 
 
       夏もちかづく  八十八夜
       野にも山にも  若葉がしげる
       あれに見えるは 茶摘みじゃないか
       あかねだすきに すげの笠
 
小学校唱歌「茶つみ」の歌です。最近ではあまり聞かれなくなりましたが、女の子が「せっせっせーのよいよいよい」といってから、この歌をうたいながら遊ぶ、手遊びがありました。
 
「八十八夜」「若葉」「茶摘み」「すげの笠」といいますと、かつては夏の近いことを実感したものです。しかし、今はどうでしょうか。こういった風物詩も、「テレビで拝見」で終わっているようです。もっともテレビさえ見ていないご家庭も増えているように感じます。
 
季節を感じる余裕がなくなってしまったのでしょうか、もったいないと思います。
自然が、四季折々の変化を告げてくれるのは、本当に有り難いことだからです。
 
この歌にある「八十八夜」は、暦の上で、立春の日(2月4日頃)から数えて八十八日目、5月2日頃のことで、茶摘みが始まる季節です。
新しい芽を摘んで作った新茶売りの話があります。
                   
◆お茶屋とふるい屋と古鉄屋(ふるがねや)◆(山梨県の話)
 
ある日、一人のお茶売りが、「新茶ぁ、おいしい新茶だよ!」と、売り歩いていく後から、「ふるいー、ふるいー」といってふるい屋が歩いていきます。
「ふるい」とは、粉や砂など細かなものを、網目を通して落としたり、選り分けする道具です。「新茶、ふるい」と売り声が並ぶと、新茶なのか古いのかわからず、誰も出てきません。
お茶屋さんは、新茶が売れないと怒りましたが、ふるい屋さんも、
「ここは天下の往来、文句があるなら、お前さんこそ、どこかへ行ってくれ」
とけんかを始めました。
そこへ、古鉄(ふるかね)屋さんが、通りかかり仲裁に入ったのです。古鉄屋さんは、いらなくなった金物を買い取る商売です。二人から訳を聞くと、これから三人で売り歩こうといい、順番は、
「お茶屋さん、ふるい屋さん、私だ」という。
言われて三人が売り声をあげると、
「新茶ぁ、ふるいー、古鉄ぇ(ふるかねぇ)!」
となり、今度はいい商いができたのでした。
    
  日づけのあるお話365日 
         五月のむかしの話  谷 真介 編・著 金の星社 刊
 
この話に出てくる「ふるい屋」「古鉄(ふるがね)屋」も、説明がないとわからない仕事ですね。かつて、こういった行商屋さんが、金魚、風鈴、豆腐、納豆、アイスキャンディーなどを売りに来たものです。その他に、鍋やかまなどにできた穴を修理する「いかけ屋」さん。道の片隅にござを敷き、その上に道具を並べ、小さなふいご(携帯用送風機)で火をおこし、焼けた鉄の棒で金属同士をくっつけてしまう「半田付け(はんだづけ)」をしていました。
 
落語にも「売り声」という噺があり、お茶屋さんに代わり「魚屋」さんで、いわしを売っていたと記憶しています。「いわし、ふるいー、ふるかねえ!」
 
 
 
どうしても紹介しておきたい話があるのですが、季節感が希薄なのです。棚ぼた式に出世する話、こういったうまい話は、あるところにはあるものです。観音さまのご利益なのですが、運命は、本当に、どなたが決めるのでしょう。この話は、「今昔物語」の巻16の第28話に出ている他、古本説話集、宇治拾遺物語、雑談集にも、「長谷寺観音の霊験譚」として残されています。思いがけない交換から利益を得ることを主題にした致富譚(ちふたん)の一つで、原作を読むのは、少々しんどいですが、子ども向けに翻訳された本は、おもしろく読めます。芥川龍之介の愛読書であることもわかります。
 
◆わらしべ長者◆   阿部 律子 著
 
むかし、あるところに、お父にもお母にも死なれ、独りぼっちの貧乏な若者がいました。
ある日、村の観音さまに祈っているうちに寝てしまったのですが、夢の中に観音さまが現われ、
「ここから東に行き、初めに手につかんだものを大切にすべし」
と、お告げがあったのです。
急いで戻ろうとしたとき、石につまずき転びましたが、起き上がると、片手にわらしべを握っていたのです。観音さまのお告げは、このことかもしれないとわらしべを懐にしまい、東の方に歩いて行くと、1匹のあぶが飛んできたので捕まえ、わらしべの先にくくりつけました。すると、牛車に乗っていた男の子が欲しいというのであげると、ただでもらってはと、みかんを3つくれたのです。
しばらくいくと、男が道端に倒れていて、水がほしいという。みかんを差し出すと、お礼に反物をくれたのでした。これも観音さまのお陰かもしれないと、なおも東へ向かって行くと都に出たのです。
すると、倒れた馬を囲んで、人々が騒いでいました。馬の持ち主が、若者に、急用があるので、馬をやるから好きなようにしてくれというので、ただでもらうわけにはと、反物をあげたのです。
若者は、馬を引きながら、さらに東の方へ行くと、大きな家から、旅支度をした主人が出てきて馬をくれ、もし、3年たってもわしがもどらなかったら、この家も畑も、お前にやると言い、返事も聞かずに行ってしまったのです。若者は、田畑を耕しながら、主人の帰りを待ったのですが、帰ってきませんでしたので、若者は、その屋敷に住み、やがて、わらしべ長者と呼ばれる大金持ちになったのです。
(わらしべ  米や麦など稲科植物の茎を乾燥させたもの。引用者注)
 
  日本むかしばなし 12
    ふしぎなゆめ 民話の研究会 編 田木 宗太 絵 ポプラ社 刊
     
このように、安物が高価な物と交換されていく話は、ヨーロッパにはあまり見られず、なぜか、インド、ベトナム、朝鮮、日本といったように東南アジアに分布しているようです。そういえば、インドの原始仏典「ジャータカ」には、ねずみ1匹から交換が始まり、豪商の婿さまに納まる出世物語が収められています。
「ジャータカ物語」や「パンチャタントラ物語」(世界で最も古い子ども向けの物語集)もお勧めしたいのですが、最近、図書館でも見かけなくなりました。
パソコンで検索すると、かなり出版されているようです。あらすじを紹介しているものもあり、内容を把握できますから、のぞいてみましょう。
 
   (次回は、「何もないのかな 水無月」についてお話しましょう)

 
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2025さわやかお受験のススメ<保護者編>第9章(4)七夕祭りでしょう 文月

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       「めぇでる教育研究所」発行
   2025さわやかお受験のススメ<保護者編>
   「情操教育歳時記 日本の年中行事と昔話」
     豊かな心を培う賢い子どもの育て方
           -第35号-
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第9章 (4) 七夕祭りでしょう   文 月
 
 
【七月に読んであげたい本】  
 
七夕とお盆です。どちらも、その縁起話があるので、紹介しましょう。
 
 ◆天女のよめさま◆   常光 徹 著
 
 むかし、ある村の若い猟師が、沼のほとりで昼寝から目を覚すと天女が三人、泳いでいました。若者は、木にかけてあったとび衣(羽衣)を一枚隠したのです。水浴びが終わると、天女はとび衣を着て、天へ舞い上がって行きましたが、隠された天女は天上に帰れません。若者は、泣いていても仕方がないと慰め、家に連れて帰ったのです。
 やがて、天女は若者の嫁になり、三人の子どもが生まれました。ある時、上の子が、むずかる下の子をあやす歌を聞き、その歌詞をヒントにとび衣を見つけ、子どもを連れて、天上へ帰ったのです。家に帰った若者は、「会いたければ、一番鶏が鳴く前に、わらじ百足分を肥やしにし、夕顔の種を植えてください」との置き手紙を読み、わらじを作ったのですが、あと一足で夜が明けたので、わらじを埋め、夕顔の種を植え、眠ってしまいました。目覚めた若者が見たのは、空に伸びた、夕顔のつるでした。これで、嫁や子どもに会えると、犬を抱えて登ったのですが、もう少しの所で、つるは止まっていました。若者は、犬を天上に放り上げ、しっぽにつかまり、天の庭に跳ね上り、家族と再会できたのです。
 ところが、天上のじいさまは、若者を快く思わず、「四町歩の畑を一日で耕せ!」などと難癖をつけるのです。その度に、嫁さまの助けで解決しますが、最後は、うまくいきませんでした。うりの収穫が終わると、じいさまは、縦に切れ(本当は横に切る)というので切ると、積んであるうりが、音をたてて裂け、水があふれ出して大水となり、若者をのみこみ、流れていくのです。嫁さまは、毎月、七日に会いましょうと呼びましたが、若者は、七月七日と聞いてしまい、それ以来、年に一度、七月七日に、二人は会うことになったのです。
 うりからあふれ出た大水が、夏の夜空に見える天の川になったのでした。 
   七月のおはなし 「かっぱのおくりもの」
     松谷 みよ子/吉沢 和夫監修 日本民話の会・編 国土社 刊
  
同じような話に、鈴木三重吉の「星の女」があります。馬車や蜘蛛(くも)の王様が出てくるので、「羽衣伝説」は日本の他にあるのかなと、不思議に思ったことを思い出します。
鈴木三重吉には、立ち往生したソリで過ごす少年の素晴らしい知恵を描いた「少年駅伝夫」、肉屋と野良犬の心温まる生活を描いた「やどなし犬」など、子どもたちに読んでもらいたい作品が残されています。
 
この話から、「ジャックと豆の木」を思い出しませんか。何回もいいますが、人間、どこに住んでいても考えることは同じなのです。そう思うと、何やらうれしくなります。本当は、心のやさしい生きものなのです、人間は。
 
ところで、「ジャックと豆の木」に出てくるのは「鬼」でしょうか、それとも「大男」でしょうか。
 
 ◆お盆のはじまり◆
 
七月十五日は、祖先や亡くなった人たちの霊をなぐさめるお盆の日です。お盆の縁起を伝える話が残されています。
 
 お釈迦さまに、目蓮上人という神通力にたけたお弟子がいて、修行中に息を引きとり、あの世へ旅立ちました。死んだお母さんに会いたいと思い、三途の川を渡り、閻魔大王のいる関所に着き、母に会わせてくれるよう、願い出たのです。大王は、上人を、湯が煮えたぎる大きな釜の所へ連れていきました。釜の中では、釜茹の刑を受ける人達がうめき、叫び声を上げていたのです。上人が、母の名前を呼んでいると、釜の中から一匹のカメがはい上がり、「私がお前の母だ」というのです。その訳を尋ねると、お前が可愛くて、賢いことを自慢し、お前さえ長生きすればよいと罪深いことばかり考えていたからだというのです。上人は、お母さんを助ける方法はないかと尋ねると、毎日、石に一字ずつお経を書き、それからお経を読んでと言いかけたとき、番人の鬼がきて、カメを湯の中へ投げ込んでしまい、二度と姿を見せません。そこで上人は、大王にお礼を言うと、不思議なことに、再びこの世に戻ってきたのです。               
 次の日、上人は神通力で、八千人もの羅漢(悟りに達した仏教の修行者)を集め、一つ一つの石に、一字ずつお経を書き、お母さんのために、盛大な供養を行ったのです。すると、紫雲たなびく天上遥かから、「お前のおかげで極楽浄土へ行けるようになったよ」というお母さんの声が聞こえてきたのでした。
上人は、その後、毎年、七月十五日になると、お灯明をあげ、祭壇に新鮮な野菜を備え、お母さんや祖先の供養をしたそうです。
 これが、お盆の始まりだそうです。
  日づけのあるお話 365日 七月のむかし話 
                   谷真介編・著 金の星社 刊
 
この話を聞くたびに、「子煩悩」という言葉を思い出します。この言葉から、子どもをかわいがる親のイメージを持ちがちですが、本当はそうではありません。煩悩とは、「心身にまといつき心をかき乱す、一切の妄念・欲望」(岩波国語辞典)のことです。「子煩悩」は、「子は煩悩のもと」と考えるべきなのです。すると、目蓮上人のお母さんが、なぜ地獄へ落ちたかわかります。
 
「お前のことが可愛くて、可愛くてね。お前が賢いことを人に自慢ばかりしていたのじゃ。他の人は早く死んで、おまえだけ長生きしてくれればいいと、罪深いことばかり考えていたからだよ」
 
少子化時代に過保護な育児をしていると、「子煩悩地獄」に落ちます。被害者は、お子さん自身であることに、気づいてほしいものです。
 
また、「子ゆえの闇」という言葉があります。
    
「人の親の心は闇にあらねども 子を思ふ道にまどひぬるかな」 藤原 兼輔 
 
親の心は普段は正しいが、子どものことを思うときだけは、迷いが生じてしまう、という意味の歌である。ここから「子ゆえの闇」という言い方が生まれた。
どんなに理性的な人でも、ことわが子が置かれた環境や将来の話になると思慮分別をなくしてしまう……子を持つ親なら、そういう気持ちはよく理解できるはずである。早い話が親ばかだが……。
 (知らない日本語 教養が試される341語  谷沢永一 著 幻冬社刊 P57)
 
「早い話が親ばかだが……。」わかっていますが、つける薬はないということですね。
 
 
 
次に紹介する話は、「ナヌ?」となるはずです。そうです、芥川龍之介の世界です。こういった作品に出会うと、「やってくれるではないですか」とうれしくなりますね。
 
 
 ◆にんじんのしっぽ◆   水谷章三 著
 
 むかし、けちなばあさんが、じいさんと隣同士に住んでいました。じいさんが風邪を引き、薬にんじんを分けてくれと頼むと、一本あげるのを惜しみ、細いにんじんを半分に折り、曲がったしっぽのところを、あげたのです。じいさんの風邪は治りました。その後しばらくして、ばあさんは死にましたが、行き先は地獄です。
 釜に投げこまれ、首だけ出して苦しみ、もがいていた時、天の神さまが、雲に乗り通りかかったので、助けてくれと大騒ぎをしたのです。その声が神さまの耳に届き、何か方法はないかと、使いの者を閻魔大王のもとへ走らせたのでした。困ったのは、大王です。ばあさんは、何も善いことをしていないからです。閻魔台帳を見ていると、やっと見つかったのは、隣のじいさんに、薬にんじんをあげたことでした。大王は鬼に言いつけ、薬にんじんのしっぽを、使いの者に渡しました。
 神さまは、「お前が人助けをした、にんじんのしっぽだ。これにつかまって上がれ」と釜の上に降ろしたのです。それにつかまったばあさんを、神さまが引き上げはじめました。釜から二本の足が出ると、右足に一人、左足に一人、亡者が飛びついたのです。すると、四本の足に一人ずつ飛びつき、八本の足となり、十六人、三十二人と亡者が飛びつきます。ばあさんは、かなり上まで来たと思い下を見ると、足の下に亡者がつながっているではありませんか。にんじんが切れてしまうと、ばあさんが足をこねまわしたからたまりません。取りついていた亡者どもは、地獄の釜に落ちてしまいました。ばあさん一人になり、天国に上れると思ったのですが、あと一息のところで、しっぽは切れ、ばあさんも地獄に戻ってしまったのです。そして、「人のこと、降り落とさねばよかったってか、どうかな」と、つぶやいたのでした。                    
 九月のはなし   きのこばけもの 松谷みよ子/吉沢和生・監修
                    日本民話の会・編 国土社 刊     
 
芥川龍之介の「蜘蛛の糸」と違うのは、ばあさんの最後の一言でしょう。お釈迦さまが、カン陀多(カンダタ)の無慈悲な心を哀れんだのに対して、このばあさんの一声は、「人のこと、降り落とさねばよかったのではないのかだって、どうかな。そんなことはわからないよ」と、ばあさん本人に言わせているところがいいですね。後悔しないで開き直っています。昔話は、その時代に生きた庶民の息吹を感じることができます。この話も意味深長ではないでしょうか。
人生を達観している気がします。。
 
 
最後に、うなぎに関した面白い話があるのですが、インターネットで検索しても見つかりません。寺村輝夫氏の「とんち話・むかし話シリーズ」の「わらいばなし編」(あかね書房 刊)ではないかと思います。題もうろ覚えで間違っているかもしれませんが、こういった話です。
 
 
 ◆においの値段◆
 
 うなぎ屋さんの店の前に、舌を出すのもいやな、けちべえさんが住んでいました。昼時になると、けちべえさんは、お茶碗にご飯をいっぱいつめ、家の窓をあけ、うなぎの焼ける匂いをかぎながら、美味そうにご飯を食べるのでした。
うなぎ屋さんはこれがしゃくで、何とかお金を取れないものかと考えていたのです。
 ある日のこと、請求書を持って、けちべえさんの家に行ったのでした。
 「けちべえさん、あなたは、毎日、お昼になると、うなぎの匂いをかいで、ご飯を食べていますが、うなぎはただではありません。匂い代を払ってくれませんか」
 「ああ、いいですよ。毎日、ご馳走になっていますから」
といって、けちべえさんは、奥にいって、何と財布を持って出てきたではありませんか。
 「いくらですかな?」
 驚いたのはうなぎ屋さんです。 けちべえさんが、お金を払ってくれるなど、信じられなかったからです。
 「1月分ですから、ちょうど○○です」  
 「おや、安いものですな。じゃ、払いますよ」
といって、お金を床に投げ出したのでした。チャリン、チャリンと音を立てたのを聞いたけちべえさんは、
 「私は、匂いだけをかぎましたから、お前さんにもお金の音だけで払ってあげましょう」
といって、お金を拾い、さっさと奥に入ってしまったのでした。
 
 
落語にも同じ話があったと記憶しています。これは、とんち話ですから、子ども達の方が知っているかもしれません。
 
  (次回は「終戦記念日、このことです」についてお話しましょう)
 
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2025さわやかお受験のススメ<保護者編>第9章(3)七夕祭りでしょう 文月

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       「めぇでる教育研究所」発行
   2025さわやかお受験のススメ<保護者編>
   「情操教育歳時記 日本の年中行事と昔話」
     豊かな心を培う賢い子どもの育て方
           -第34号-
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  第9章(3)  七夕祭りでしょう   文 月
 
 
★★お盆って何の日、ご冗談を★★
 
人間は死ぬと仏様になり、その仏様をお迎えする行事をお盆だと思っていましたが、少し違うようでした。「盆と正月が一緒に来たような忙しさ」といいますが、これは1年を半期ずつに分けた前期の始まりが正月で、後期の始まりがお盆だから、こういう使い方をするのです。
 
 正月に、日頃お世話になった人々のところへ感謝と新たな年を迎えるにあたっての抱負を胸に、年始まわりするのと同じように、盆には健在な親、仲人、師などの親方筋を訪問し、心のこもった贈り物をする、盆礼という習慣があった。(中略)盆は満月の日、7月15日である。それが仏教の説く盂蘭盆会(うらぼんえ)と一致し、仏教国家として次第に民衆の間に浸透し、(中略)盆は7月15日の中元に吸収され、「盆と正月」は「盆暮」と姿を変えたのである。
 (年中行事を「科学」する 永田 久 著 日本経済新聞社 刊 P149)
 
日本に伝えられた盂蘭盆会は、推古天皇14年(606年)に初めて催され、聖武天皇天平5年 (733年)より、年中行事になったそうです。「盆と正月」が「盆暮」と言葉を変えたのは、1年を半期ずつに分けた前期の終わりを盆、後期の終わりを暮というようになったからです。それで盆は中元を、暮は歳末を意味するようになり、盆にはお中元を、暮にはお歳暮を、お世話になっている人に感謝の気持ちをこめて、贈り物をするようになったのです。
 
また、お正月に「お年玉」があるのと同様、お盆にも「お盆玉」があるのをご存じでしたか。江戸時代、山形県の風習がはじまりとか。
文具メーカーから盆玉のポチ袋が発売されたり、日本郵便からも「お盆玉袋」が発売されたりもしていたようです。
 
 
 
★★お盆の風物詩★★
 
お盆には、7月15日を中心に祖先の霊を迎えて送る行事、精霊祭(しょうりょうまつり)があります。 
13日に迎え火をたきますが、これは仏様が、おがら(あさの皮をはぎ取った茎のこと)を折って、たいた煙に乗り、盆灯篭(ぼんどうろう)の明かりを頼りに家に帰ってくるからだそうです。おがらの足をつけたきゅうりの馬となすの牛を内向きに並べて飾るのは、仏様は、馬に乗り、荷物を牛に背負わせて帰ってくるといわれているからです。迷子にならないように、きちんとお迎えをする意味でしょう。私のように、そそっかしい仏様もいるはずですから。                         
 
仏様を祭る棚を盆棚(精霊棚)といって、そこに真菰(まこも)を敷き、ほおずき、ききょう、おみなえし、はぎ、山ゆりなどの秋の花を飾ります。こうして久しぶりに帰ってきた仏様は、真菰にお座りになり、それを家族みんなで慰めるということでしょう。お供えは、畑でとれたものや、仏様が生きていたときに好きだった食べ物も供えます。私でしたら「越乃寒梅」(幻の銘酒といわれていた新潟の酒)を1合だけ、お願いしたいものです。
 
そして、懐かしい自分の家で過ごした仏様は、7月16日には、お帰りになります。これが送り火で、きゅうりの馬となすの牛は、今度は外向きに並べて、送り出すことになりますが、これも間違いなく彼岸の方へ帰ってもらうためでしょう。
 
広島の灯篭流しのように、送り火を小さな船に乗せて、お供え物と一緒に、川へ流すこともあります。また、地方によっては、美しく飾られた精霊船に、仏様に供えたものを乗せて、灯火をつけ、経文や屋号を書いたのぼりを立てるところもあります。      
 
送り火で有名なのが、京都の「大文字焼き」で、8月16日に行われていますが、これは8月15日を旧盆として祭る風習が、残っているからです。7月の京都は、まだ梅雨明け前です。しとしと降る梅雨空に、大文字焼きは映りがよくありません。やはり、しっかりと暑い8月だからこそ、風情があります。何やら風鈴の涼しげな音と、蚊取り線香の匂い漂ってくる、そんな感じがしませんか。
 
まだ、あります。盆踊りです。
 
これも、仏様を迎え、慰め、そして来年も間違いなく来てくださいと、送るために捧げられたもので、中央のやぐらのまわりを輪になり、鉦(しょう)と太鼓と笛に合わせて踊ったのです。今では、地域のコミュニケーションの場となり、夏に欠かせないイベントの1つになっていますね。親子で「ドラえもん音頭」に合わせて踊られてはいかがでしょうか。
 
「やっとさー!」の掛け声も楽しい徳島の阿波踊りは、ものすごい迫力で、夏の風物詩に欠かせません。東京の山の手、高円寺の阿波踊り、今ではすっかり定着して名物になっていますが、何だかおかしな気がしないでもありません。
しかし、下町の浅草では、ブラジル生まれのサンバ大会をやっていますから、おかしくないのでしょう。本場のブラジルから応援にきている女性軍団の踊り、リオのカーニバルのものすごさを想像させてくれます。
 
 
 
★★お神輿と山車の違い★★
 
浅草といえば「三社祭」、浅草寺の境内は、神輿(みこし)を担ぐ人で、ごった返します。威勢よく担ぐ神輿は、上下左右に激しくゆれ、よくぞ怪我人が出ないものだと心配になるほど殺気だち、恐いほどです。
 
この神輿のいわれですが、時代劇でよく見かけるように、昔、身分の高い人は、輿(こし)といわれた台に乗り出かけていました。神輿は、つまり、「神の輿」であって、神様の乗り物なのです。そして、お乗りになっている神様は、激しくゆさぶられるのが大好きで、激しければ激しいほどご機嫌になるといわれ、そのために、元気よく担ぐのだそうです。
 
山車は、祇園祭などでお馴染みですが、四月の桜の時に紹介しましたように、神様は、冬になると山に帰り、春になると下りてくると信じられていました。
 
 お祭りには、神様が必要ですから、来ていただくために、お迎えするための乗り物が必要だったわけです。そのため、祭りには移動式の山が作られたのです。これさえあれば、祭りに神さまを招くことができると考えられていました。その後、形が変わり「山車(だし)」になっても、山の字が残ったのです。
 (心を育てる 子ども歳時記12か月 監修 橋本裕之 講談社 刊 P66)
 
ところで、神様にも悪い神様がいたそうです。
夏祭りの神様は悪い神様で、病気や飢饉などを起こさないように、神輿を激しく揺さぶり、ご機嫌を取って、山に帰ってもらい、災いを未然に防ぐ、昔の人の知恵だったのです。日本の三大祭といえば、東京の神田祭、大阪の天神祭、コンチキチンコンチキチンのお囃子でおなじみの京都の祇園祭ですが、祇園祭の主役である牛頭(ごず)大王は、地獄にいるという牛頭人身の獄卒で、有名な悪い神様だそうです。
 
 
 
★★なぜ、土用の丑の日に、うなぎを食べるのですか★★
 
「土用」というのは、何も夏だけではありません。
 
「節分」と一緒で年に4回あります。前にもお話したと思いますが、立春、立夏、立秋、立冬はそれぞれの季節の始まりです。そして、それぞれの前の18日間を「土用」といい、その最初の日を「土用の入り」といいます。土用は、四季、それぞれにあるのですが、なぜか夏の土用だけが有名です。しかし、なぜ「丑の日」というのでしょうか。それは、それぞれの日にちには、正月で取り上げた「十二支」の動物の名前がついているからです。それで、夏の土用の内にやってくる丑の日のことを「土用の丑の日」といいます。
 
ご存知のように、この日は夏ばてしないように、良質のたんぱく質、脂肪、ビタミン、カルシュウム、鉄、亜鉛、DHA、ミネラル類などを含む、栄養のバランスのすぐれたうなぎを食べる習慣がありますが、何とその歴史は古く、何しろ「万葉集」の大伴家持の歌に、「夏バテに効果がある」と詠われています。
 
奈良時代から、この日は、うなぎにとって、まさに受難の日であったわけです。
しかし、なぜ「土用の丑の日」に、うなぎなのでしょうか。丑の日ですから、ステーキとか焼肉という感じがしますが、江戸時代ですから、まだ、牛肉は無理でしょう。
 
事の起こりは、江戸時代の学者、平賀源内が、うなぎ屋の宣伝をしたのが始まりといわれ、そのコピーは、「土用の丑の日はうなぎの日」だったそうです。
 
源内は、起電気であるエレキテルを完成させたことで知られていますが、その他、本草学者(薬用に重点をおいて、植物や自然物を研究した中国古来の学問)、劇作家、発明家、科学者、陶芸家、画家、工学者として一流でしたから驚きです。非常に多才な方で、まさに江戸のレオナルド・ダ・ヴィンチ的な存在であったわけです。
 
ところで、江戸時代は4本足の獣を食べなかったのですが、「うさぎは、ぴょん、ぴょん飛ぶから、あれは鳥だ!」といって食べていたのです。ですから、うさぎは1羽、2羽と数え、それが今も残っているのですが、子どもたちには、よく理解できない数え方になっています。哺乳類を食べることを禁じていた仏教の影響でしょうが、とんだところで、子どもたちを悩ませているようです。
 
この数詞ですが、日本語は難しいですね。1本、2本、3本、1匹、2匹、3匹とふえるに従い読み方が違い、4本、4匹以下が、また違いますし、花にしても、1本、1輪、1束、1鉢、1株などと分けて使っていますから、外国の方には、魔法のように思えるようです。それだけ、物に関する感性が、繊細だということですね。 
                               
最後に蛇足ですが、天然うなぎの旬は、産卵前の秋から冬にかけての時期で、「秋の下りうなぎ」といわれているそうです。そういえば、下り鰹(戻り鰹)も脂がのり美味しいですね。
 
  (次回は「7月に読んであげたい本」についてお話しましょう)
 
【本メールマガジンは、「私家版 情操教育歳時記 日本の年中行事と昔話情操豊かな子どもを育てるには 上・下 藤本 紀元 著」をもとに編集、制作したものです】
 
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2025さわやかお受験のススメ<保護者編>第9章(2)七夕祭りでしょう 文月

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       「めぇでる教育研究所」発行
   2025さわやかお受験のススメ<保護者編>
   「情操教育歳時記 日本の年中行事と昔話」
     豊かな心を培う賢い子どもの育て方
           -第33号-
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第9章(2)  七夕祭りでしょう   文 月
 
 
 ★★なぜ、仙台の七夕は、8月なのですか★★
 
七夕といえば、子ども達には待ちかねているのは夏祭りではないでしょうか。
以前のように祭りを存分に楽しめる日が一日でも早く戻ることを祈ってやみません。
 
それはともかくとして、仙台の七夕は、8月に行われています。竿燈とねぶたを合わせて、東北の三大夏祭りですから、華やかです。何しろ街中が、七夕の飾りで埋まっている感じがします。しかし、素朴な疑問ですが、何だかおかしくありませんか。七夕は、五節句の一つ「七夕」(しちせき)ですから、七月七日と、七が二つ重なるところに意味があるのではなかったでしょうか。 
 
  七夕を「たなばた」と読むのはなぜだろう。「たな」は棚で、「はた」は機である。7月7日の夜、遠来のまれびと・神を迎えるために水上に棚作りして、聖なる乙女が機を織る行事があり、その乙女を棚機女(たなばたつめ)、または乙棚機(おとたなばた)といった。「七月七日の夕べの行事」であったために「たなばた」に「七夕」の字を当てたのである。萬葉集には七夕は織女と書かれているが、新古今和歌集では七夕となっている。
  「七夕」の字は平安時代に当てられたものであることがわかる。
 (年中行事を「科学」する 永田 久 著 日本経済新聞社 刊 P121-122)
 
永田先生のご指摘では、仙台の七夕は「八夕」になります、何と読むのでしょうか。冗談はさておき、これも訳ありなのです。
 
年中行事は、日本で最後に使われた太陰太陽暦である天保暦で行われています。
現在、使われている暦は、明治6年から採用された太陽暦、グレゴリオ暦です。
この天保暦とグレゴリオ暦との日付の差が、最小21日から最大50日あって、平均すると35日、グレゴリオ暦の方が進んでいます。
 
ですから、天保暦による旧7月7日は、現在の8月12日前後になるわけです。
そうすると、七夕は真夏の行事になります。ところが、天保暦によると、暦の上では7月から秋、立秋です。七夕が過ぎると、秋風の吹く処暑です。
 
太陰太陽暦では、暦の上の月日と季節感と食い違いを起こすので、暦の月日とは別に、農作業に必要な季節の標準を示したのが、二十四節気だったことを思い出してください。仙台の七夕は、旧七夕に近い8月7日に行われ、盛夏の行事になっていますが、天保暦に従った「ひと月遅れの七夕」で、旧七夕ということではありません。
 
  たとえば8月12日に旧七夕だとして、8月12日に七夕の行事を行うのは、どうもしっくり来ない。七夕は七月七日という「七」に意味があるのであって、8月7日ならば一ヶ月延ばして行うという感覚が働いて、何となく旧暦という言葉のなかに埋め込んでしまえばわからぬながら納得しようというものであろう。(中略)平均35日進んでいる現行暦を30日戻すことになるから、季節感としての行事は5日進んでいると考えればよいわけである。
  (年中行事を「科学」する 永田 久 著 日本経済新聞社 刊 P134)
  
しかし、正月と盆の帰省ラッシュ、故郷にあるご先祖のお墓参り、何となく旧盆という感覚がありませんか。東北の三大祭りとして親しまれている行事ですから、それで不都合はないのでしょう。
子ども達も、夏休みです。大人も休みをとって、お子さんと一緒にリフレッシュする、もう夏の風物詩になっています。
 
ところで、この七夕のときに、雲一つない空を見上げて、天の川に感激した記憶が、ほとんどありません。日本列島は、梅雨の真最中です。天保暦を使っていた時代の人々は、大気汚染もなく、電気もありませんから、それこそ夜は、漆黒の闇です。澄み切った夜空に浮かぶ天の川をはさんだ2つの星を、見ていたのでしょう。
現代では、プラネタリウムで、完璧に再現された人工の天の川を見ることができますが、どちらに夢があるかは聞かずもがな、ですね。
 
 
 
★★そうめんと冷麦はどこが違うの★★
 
夏の風物詩の流しそうめん、何と、そうめんの1本1本が、機をおる織糸で、流れる様子は天の川を表しているそうです。江戸時代の「日本歳時記」には、七夕に索麺(そうめん)を食べる習慣があり、その由来は、中国の伝説によると記されています。何事も、訳ありなのですね。年越しそばのところで触れましたが、そばと薬味のねぎは、因果関係がありました。淡泊な口触りのそうめんには、生姜(しょうが)や茗荷(みょうが)の芳香が涼を誘い、食欲がますような気がします。      
 
この茗荷には、おもしろい話が残っています。
 
  お釈迦様の弟子に周梨般特(しゅりはんどく)という掃除をしながら悟りを開いたお坊さんがいました。聡明でしたが、物覚えが悪くて、朝聞いたことも夜になると忘れてしまう有様でした。その上、自分の名前も覚えられず、名前を背中に荷(にな)い、人に名前を聞かれると背中を指差し教えるほどでした。
  彼の死後、墓から名前のわからない草が生えてきました。周梨槃特のお墓から生えてきたので、いつとはなしにその草を「茗荷」(名を荷う)と呼ぶようになりました。
  茗荷を食べると、物忘れがひどく馬鹿になると言われるのも周梨槃特の逸話からきたものです。
    (https://yakushiji.or.jp/column/20211018/ から要約)
 
「名前を荷う」から「茗荷」とは、しゃれた名前を付けたものですね。物忘れが激しくなることはありません、俗説です。この俗説を利用して、泊まっている金持ちから預かったお金を忘れさせようと、茗荷をたくさん食べさせるのですが、その効果がまったくなく、逆に宿泊料を貰うのを忘れてしまったという、落語のような昔話があります。
 
そういえば、東京メトロ丸ノ内線に「茗荷谷駅」がありますが、江戸時代には、たくさんの茗荷畑があったそうです。
 
ところで、そうめんといえば冷麦を連想しますが、どこが違うのでしょうか。
太さの違いと思っていましたら、そんな単純なことではありませんでした。困ったときの広辞苑によると、「冷麦は、細打ちにしたうどんを茹でて冷水でひやし、汁を付けて食べるもの」「素麺は、小麦粉に食塩水を加えてこね、これに植物油を塗り細く引き伸ばし、日光にさらして乾した食品。茹でまたは煮込んで食する」と製法の違いがありますが、うどんの仲間なのですね。うどんの乾麺には、そうめんと同じように植物油が塗られています。            
 
でも、太さにこだわりますが、「なぜ、素麺は細いのかを正したい!」などと意気込むほどのことではないでしょうが、JAS(日本農林規格)には、きちんと、その違いがでているのには驚きました。
「切り口の直径が1.3ミリメートルより太いものが冷麦、それ未満の物が素麺」となっています。切り口は、そうめんは丸く、冷麦は角っぽく見えます。ちなみに1.7ミリメートル以上はうどんだそうです。
 
もう一つの疑問、冷麦には、なぜ、色のついた麺が入っているのでしょうか。
 
実は、食感だけではなく、見た目にも涼しさ、さわやかさを感じて食べて頂くために、数本ずつ色麺を入れているそうです。
 
 
 
★★七夕は、お盆の始まりの日です★★
 
七夕というと、何やら願い事をし、豪華な飾りものを楽しむ観光イベントという感じになっているようですが、本来は、7月は、正月と同じで、ご先祖様が帰ってくるお盆の月なのです。
 
7月7日を「七日盆」といって、お盆の始まりの日です。
 
  七夕は盆の行事の一環として、先祖の霊を祭る前の禊(みそぎ)の行事であった。人里離れた水辺の機屋に神の嫁となる乙女が神を祭って一夜を過ごし、翌日に七夕送りをして、穢れを神に託して持ち去ってもらうための祓えの行事であった。盆に先立つ、物忌みのための祓えであった。
  (年中行事を「科学」する 永田 久 著 日本経済新聞社 刊 P122)
 
それと同時に、七夕は、畑作物の収穫祭のイベントでもあったのです。何といっても日本は、自然まかせの農耕民族で、いたる所に神さまがいます。収穫祭は、神さまへの感謝のお祭りでした。
 
まだ、麦を中心としてあわ、ひえ、芋、豆が主食の時代ですから、麦の実りを祝って、きゅうり、なす、みょうがなどの成熟を神さまに感謝したのです。この時に人々は、神さまの乗り物として、きゅうりで作った馬、なすで作った牛をお供えしました。それがお盆の行事の盆飾りとして、ご先祖さまの乗るきゅうりの馬と、なすの牛に引き継がれているのです。
                       
先程の引用に「みそぎ(禊)」と「はらえ(祓え)」が出てきましたが、「みそぎ」とは、「身滌(禊)」の略されたものといわれ、身に罪や穢(けが)れがあるときや、神さまにお祈りするときに、川や海で身を洗い清め取り除くことで、「はらえ」は、神さまに祈って罪や穢れ、災いなどを除き去ることで、神社で行われ「おはらい」です。本質的には同じことで、「みそぎはらえ」ともいわれているようです。
 
ところで、「お払い箱にする」という言葉がありますが、そのいわれはこれで、伊勢神宮が全国の信者に配っていた厄除けのお札を入れた箱を「御祓箱」といって、毎年、お札を新しく替えることから、「祓い」と「払い」をかけ、古いものを捨てることを「お払い箱にする」といったそうです。何事も訳ありなのですね。
 
 
(次回は「お盆って何の日ですか、ご冗談を」などについてお話しましょう)
 
 
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2025さわやかお受験のススメ<保護者編>第9章(1)七夕祭りでしょう 文月

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       「めぇでる教育研究所」発行
   2025さわやかお受験のススメ<保護者編>
   「情操教育歳時記 日本の年中行事と昔話」
     豊かな心を培う賢い子どもの育て方
           -第32号-
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 第9章(1)  七夕祭りでしょう   文 月
 
 
物の本によると、文月(ふみづき)のいわれは、七夕の短冊に、字がうまくなるようにと書いてお願いをすることから文月になった、といわれているようですが、七夕は、日本で始まったものではなく、中国から伝わってきた行事ですから、これはおかしいとして、稲の「穂含月(ほふみづき)」「含月」からとする説もあるそうです。
 
 
 
★★何といっても七夕祭り★★
 
7月といえば、何といっても七夕祭りでしょう。
 
   たなばたさま
     作詞 林 柳波   作曲 下総 皖一
  
     一、笹の葉さらさら       二、五色の短冊
       軒端にゆれる          私が書いた
       お星さまきらきら        お星さまきらきら
       金銀砂子            空から見てる
 
何とものどかで、暑さも吹き飛び、夜空が浮かんできますね。
しかし、今はどうでしょうか。都会では、天の川も、逢瀬を楽しむ彦星も織姫星も、よく見えません。
 
明かりのせいでしょう。プラネタリウムで見ると、あまりに鮮やかすぎて、イメージが壊れそうですね。七夕は、古来、多くの人々に夢を与え続けた祭りの一つです。万葉集の中にも、星祭りとして七夕を詠んだ歌が残されています。
かの、紀貫之も一首、『新古今和歌集』に詠んでいます。
 
    七夕は 今や別るる 天の川 川霧立ちて 千鳥鳴くなり
 
「川霧立ちて 千鳥鳴くなり」、千鳥が鳴くのを、別れを惜しむ織姫の忍び泣きと詠ったものでしょう。しかし、紀貫之が生きていた時代の田園風景を再現するのは無理でしょうが、残された和歌の世界で味わえるのは、やはり素晴らしいことで、大切な文化遺産です。
 
「幾星霜」とはいささか大げさですが、年月を刻んで受け継がれてきた文化は、遺伝子として心の中に組み込まれているようで、日本人には和歌や俳句を作ることもその一つではないでしょうか。
 
小学生になると、特に教えなくても、「五七五」の俳句を作るのですから。
 
さて、その七夕ですが、ご家庭で、短冊に願いごとを書いて、笹に飾り、お祝いをしているでしょうか。
 
30号で紹介しました「季節のことば36選」でも、七夕祭りは選ばれていませんでしたし、幼稚園や保育園、小学校での夏のイベントになってしまったようです。それはさておき、七夕祭りの事の起こりは、中国の星の伝説でおなじみの「織姫と彦星」の話です。   
 
 
★★七夕のルーツ★★
 
中国の歳時記に、こういう話が残されているそうです。
 
 天の川の東に織女が住んでいた。天帝の子である。いつも機織りをして、鮮やかな天衣を織りなした。天帝が独身であるのをかわいそうに思って、天の川の西に住んでいる彦星と結婚することを許した。しかし結婚した後は、機織りをしないので、天帝は怒って二人を別れさせ、天の川の西と東に帰らせた。ただ7月7日の夜だけ、川を渡って逢うことを許したのである。日本で最もよく知られた七夕の星の物語である。おりひめとひこぼしが愛し合っていながら一年に一度しか会えないという物語が日本人の共感を呼んで、万葉集の時代から「星祭」として、七夕にさまざまな思いを馳せたのである。
 
(年中行事を「科学」する 永田 久 著 日本経済新聞社 刊 P134-124)
 
 
天衣は、“あまごろも”、羽衣(はごろも)のことで、日本でもおなじみの天女の証(あかし)です。
「天衣無縫」という四字熟語がありますが、これは、「物事に技巧などの形跡がなく自然なさまをいい、天人・天女の衣には縫い目がまったくないことから、文章や詩歌がわざとらしくなく、自然に作られていて巧みなこと。また、人柄に飾り気がなく、純真で無邪気なさまをいう」(goo辞書より)意味に用いられていますが、語源は「天衣」なんですね。ちなみに英語では、“To be natural and flawless”「自然で完璧」(「故事ことわざ辞典」より)だそうで、類似語は、今でもよく使われている「天真爛漫」です。
 
ところで、七夕の2つの星、彦星と織姫星は、どんな星でしょうか。
彦星、牽牛星は、鷲座の1等星アルタイルのことで、地球から17光年の彼方にあり、太陽の約10倍の明るさがあります。1光年は、9兆4605億キロで、その17倍です。本当にはるか、はるか、かなたです。アルタイル星の両側にある2つの星を牛に見立てて「牽牛」と名付けたのです。
 
面白いことに、あの清少納言も「枕草子」に書いています。 
  
   星はすばる。ひこぼし。ゆふづつ。よばいぼし、すこしおかし。
   おだになからましかば、まいて」                 
        (第二百三十九段 角川文庫 下巻 角川書店 刊) 
                                    
「すばる」は、牡牛座にある星団プレアデスの和名、「ひこぼし」は、牽牛です。「ゆふづつ」は、日没後、すぐに西の空に輝く、宵の明星、金星で、「よばいぼし」は、流れ星のことです。「尾がなければよいのですが」ということでしょうが、尾は流れ星が大気圏に突入して、燃えつきる現象です。さすがの才媛も、まだ、ご存知なかったことでしょうね。    
 
織姫、織女星は、琴座の1等星ベガのことで、地球から25光年離れ、明るさも太陽の40倍以上もある北天第一の星ですが、もう想像外の明るさと距離です。ベガと天の川をはさんだアルタイル星が、天の川の中にある白鳥座のデネブ星とで作るのが、夏の大三角形です。小学校時代に、理科で習ったと思いますが、覚えていますでしょうか。
 
この2つの星が、7月7日に際立って、美しく輝きます。それを見た昔の人が、天の川にさえぎられているために、1年に1回しか会えない、恋人の話に仕立てたのでしょう。作者は、何ともロマンチストではありませんか。中国生まれの伝説らしく、スケールが大きいですね。
 
ところで、天の川は、中国や日本の専売特許ではありません。昔から世界中の人々の注目を集めていました。
  
  エジプトでは天のナイル川、インドでは天のガンジス川、中国では銀色の川で銀河と呼びます。ところが、ヨーロッパでは川ではなく道にたとえられ「乳の道(ミルキーウェイ)」と呼ばれています。これはギリシャ神話で、力持ちのヘラクルスが赤ちゃんのとき、お母さんのおっぱいを力強く吸ったため、こぼれてできたといわれているからです。
  (心を育てる子ども歳時記12か月 監修 橋本裕之 講談社 刊 P65)
 
 
 
★★なぜ、短冊にお願いごとを書くのでしょう★★
 
こういうことらしいのです。
中国には「乞巧奠」(きこうでん)といって、星祭りの他に、七夕には、大変、重要な行事があり、こう書いてあるそうです。
 
  「7月7日は牽牛と織女が相会する夜だ。夫人たちは7本の針に5色の糸を通し、庭にむしろをしいて机を出し、酒、肴、果物、菓子を並べて織物が上手になることを祈った」 
  (年中行事を「科学」する 永田 久 著 日本経済新聞社 刊 P132)
 
これが、そもそもの始まりらしいのです。
牽牛は、牛飼いで畑仕事をし、織女は、機織りです。そこで、男の人は畑仕事が、女の人は機織りや縫い物が上手にできますようにと、お祈りをするようになったのでしょう。それが、時とともに、織物の切れ端を短冊のように切って、笹の葉につけ、歌にあるように「軒端」に出すようになり、それが、今のように布から紙に変わり、笹竹は長い竹となり、お願いごとも、裁縫や字が上手になることよりも、ピアノが上手く弾けるようになど、願望成就希望達成型に変身したようです。
 
ところで、なぜ、笹竹なのでしょうか。
 
  笹竹は、日本独自の祭り方で、竹は1日に1メートル伸びるといわれるほど成長が早く、人々は、その秘められたすばらしいエネルギーに願いを托し、天に届くようにと気持ちをこめたのです。
      (絵本百科 ぎょうじのゆらい 講談社 刊 P21)
 
祈るだけではなく、強烈なエネルギーまで取り込んでいるんですね、恐れ入りました。
 
梅雨に入ります。気温、湿度ともに高くなりますので、体調にはくれぐれも気をつけてください。
 
 
(次回は「なぜ、仙台の七夕は、8月なのですか」他についてお話ししましょう)
 

 
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2025さわやかお受験のススメ<保護者編>第八章(4)何にもないのかな【六月に読んであげたい本】

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       「めぇでる教育研究所」発行
   2025さわやかお受験のススメ<保護者編>
   「情操教育歳時記 日本の年中行事と昔話」
     豊かな心を培う賢い子どもの育て方
           -第31号-
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第八章 (4) 何にもないのかな
【六月に読んであげたい本】
 
 
梅雨というと、三題噺(お客さんから3つの題を出させ即座に一席の落語とするもの)ではありませんが、「あじさい、かたつむり、かえる」です。しかし、最近、かたつむりやかえるはどこに行きましたかね、あまり見かけなくなりました。
 
かえると雨、これにも、おかしな因果関係があるようです。おもしろい話があります。これから紹介するお話の中の「かえるの親子」、人間の親子関係にもいえそうです。
 
過保護な保護者に育てられたわがままな子が、少子化に加え核家族化も進む中、増えているようです。一人っ子では、何が過保護なのかわからないのかもしれません。しかし、やがて子どもは、一人で生きていかなければならない、“頼れるのは自分だけ”の生活が待っていることを、親は忘れてはならないでしょう。
 
自己中心的で、他人との関わりがうまくできない若者が増えているようです。
 
最近の脳科学者の話では、自己抑制力の臨界期は3歳まで、協調性や社会性の臨界期は12歳までといわれているようです。臨界期とは、その時期を過ぎると、ある行動の学習が身につかなくなる限界の時期をいい、モンテッソーリのもっとも盛んに活動し成長する時期、「敏感期」と同じであると考えればわかりやすいと思います。言葉の敏感期を過ぎると、真偽は定かではないそうですが、インドの狼少女のように、人は言葉を話せなくなります。
 
誤解を恐れずにいえば、3歳は自立の始まる時期、幼稚園は自律心を養い、社会性や協調性といった集団生活への適応力の基礎を築く時期、6年間の小学校生活は、それらをきちんと身につける大切な時期です。
 
幼児期から小学校時代に、人としての配線図は、組み立ててしまわれるわけですね。「三つ子の魂、百まで」「鉄は熱い内に打て」、先人の教えには、無駄がありません。「鉄は熱い内に打て」は、英語の“Strike while the irons hot”を訳したことわざだそうです。(「故事ことわざ辞典」より)
 
 ※マリア・モンテッソーリ
    イタリア、ローマの精神病院で働いていた女医。知的障害児へ感覚教育を実施し、知的水準を上げる効果を見せ、1907年に貧困層の健常児を対象にした保育施設「子どもの家」で独特の教育法を完成させた。モンテッソーリ教育の行われる施設を「子どもの家」と呼ぶようになった。(ウィキペディア フリー百科事典より)
 
 
 
 ◆あまがえる不孝◆   八百板 洋子 著
 
  むかし、かえるの親子がいました。母さんがえるは、子どもをかわいがったのですが、子がえるは、親のいうことを聞きません。母さんがえるが、右に行こうというと左に行くし、山に登ろうというと川にもぐり、暑い日というと寒い日と逆らうのです。             
  ある日のこと、母さんがえるは、重い病気にかかりました。助からないとあきらめた母さんがえるは、墓だけは、日のよく当たる、山の上に作ってほしいと思ったのですが、何事にも逆らう子がえるのことです。山に埋めてほしいといえば、川のそばに埋めるに違いありません。
  考えた母がえるは、
  「私が死んだら、川のそばに埋めるのだよ」
 といって、息をひきとったのでした。母さんがいなくなると、子がえるは、逆らってばかりいたことを後悔し、反省して、川のそばにお墓を作ったのです。
  雨が降れば川の水も増え、お墓は流されそうになります。心配な子がえるは、雨が降るたびに、お墓が流れないようにと、今でも鳴いているのだそうです。
   六月の話  あまがえる不孝 松谷 みよ子/吉沢 和夫 監修
                     日本民話の会・編 国土社 刊 
 
親不孝な動物話の典型ですが、中国や朝鮮にも同じ話があることから、大陸から半島を経て伝わったものと考えられます。「日本は文化の吹き溜まり」とも言われていますが、自国流にアレンジし、生活の中に取り込んでしまう知恵を、我がご先祖は、身につけていたようです。 
 
    青蛙 おのれもペンキ ぬりたてか  芥川龍之介
 
こういった情景に出会うのは、もう、無理かもしれませんね。
 
霧雨が似合うあじさい、咲いているうちに色が変わることから「あじさいの七変化」といわれ、花言葉では「移り気」「浮気」などと芳しくありません。一方で「辛抱強い愛情」「あなたは美しいが冷淡だ」などといったものもありますが、後の方が似合う気配が漂っているような気がします。
 
漢字では「紫陽花」と書きますが、これは唐の詩人白居易が、別の花(この花の名前はわかりません)に名づけたものを、平安時代の学者、源順がこの漢字を当てはめたことから、誤って広まったといわれているそうです。
 (ニッポン放送 https://news.1242.com/article/291621 より)
 
ところで、今、かえるの合唱を、聞く機会はあるでしょうか。とにかく、ものすごい鳴声です。しかし、この鳴声が、何やら豊作の雄叫びのように聞こえるものです。雨がしっかり降って、田植えが終わらないことには、かえるの合唱は聞こえませんから。ぜひ、かえるの合唱を聞かせてあげてください。
 
その田植えについてですが、おかしな話があります。
 
 
 ◆田うえねこ◆   水谷 章三 著
 
 むかし、ある家に、年を取り寝てばかりいる猫がいました。
 田植えの時期になり、おかみさんは、
 「お前さんはいいね。猫の手も借りたい忙しいときに、寝ていられるのだから」というと、猫は大きなあくびをして起き上がり、どこかへ行ってしまったのです。
 その日は、田植えのおしまいの日で、大勢の人が手伝いに来ていました。
 おかみさんもわき目もふらずに田植えをしていましたが、見知らぬ娘さんがいて、仕事ぶりが、手際よく鮮やかなのです。それに負けてなるものかと若い衆も張り切ったので、夕方にならぬ内に終わったのでした。
 娘さんにお礼をいおうとしましたが、見当たりません。探していたところ、その娘さんが背中を見せて、歩き去っていくではありませんか。追いかけていくと、おかみさんの家のところで姿を消し、探したのですが、見つかりません。ところが、今朝、拭いたはずの縁側に、猫の足跡のような泥の跡がついていたのです。足跡をたどっていくと、家の隅っこの所で、猫が泥だらけの足をなめていました。
 「お前のことを、うらやましいといったものだから、娘になって田植えを手伝ってくれたのだろうか。猫は、年をとると化けるというけれど」と、おかみさんは、猫の顔をのぞきこみました。すると、猫は足をなめるのを止めて、前足でおかみさんのひざをグイと押さえて立ち上がり、背伸びをし、そのままどこかへ行ってしまい、二度と姿を見せることはありませんでした。
   六月の話 田うえねこ 松谷みよ子/吉沢和夫 監修 
     日本民話の会・編 国土社 刊 
                  
「猫の手も借りたい」忙しいときに、猫が手を貸すのがおかしいですね。この話も全国に、いろいろな形で語り継がれています。お地蔵さまが、見知らぬ若者に姿をかえて手伝う「田植え地蔵」などは、よく知られているようです。猫の足が泥だらけだったように、お地蔵さまの足が汚れていたのでわかる仕掛けは、同じです。 
 
今度は、恐い話です。
 
 
 ◆かにの恩返し◆   根岸 真理子 著
 
 むかし、ある村に、庄屋どんと娘が住んでいました。娘は、かにが子を生む頃になると、庭の小川で米をとぎ、その汁を流してあげたのです。かには、嬉しそうに飲んでいました。
 ある年のこと、日照りが続き、田植えができません。
 庄屋どんは、雨さえ降らせてくれたら、娘を嫁にやろうというと、それを蛇が聞いていたのです。
 やがて、雨が降り出し、田植えができると、村の人たちは喜びました。
 その時、庄屋どんの足元で、
 「約束を破れば、大雨を降らせ田畑を流すぞ」
 といい残し、蛇は姿を消したのでした。しかし、嫁にやるわけにはいかず、庄屋どんは庭に頑丈なお堂を建て、娘を入れることにしたのです。
 
 嫁入りの日が来ました。
 娘は、白い着物を着て、お堂に入り、中から鍵をかけました。そこへ、若侍が現われ、お堂に戸口がないのを知り、怒り、姿を大蛇に変え、お堂を七巻きに巻きしめたのです。すると嵐になり、蛇は、雨風の力を借りて、お堂を根こそぎつぶそうと、揺さ振り始めました。
 その時、娘の耳に、タプタプと寄せる水音に交じって、サワサワ、サワサワと小さな音が聞こえてきたのです。音は、次第に数を増して、お堂のまわりを取り囲みました。すると、ドォン、ダァンと何やらのたうつ音がして、サワサワ、ドォン、ダァン、と、二つの音は、低く響き続けました。
 
 やがて音が止み、ひび割れたお堂の透き間から、朝日が射し込んできたのです。
 庄屋どんに、手を引かれて外に出た娘は、老いた松の木のような大蛇が、お堂の周りを取り巻き、転がっているのを見たのです。そして、めくれ上がったうろこの下には、娘にお米のとぎ汁をもらっていたかに達が、一匹、一匹、はさみつき、そのまま死んでいたのでした。
   六月の話   かにの恩返し 松谷 みよ子/吉沢 和夫 監修
                    日本民話の会・編 国土社 刊 
 
 
 
この他に、蛇をやっつけるのにひょうたんと針を使ったものや、蛇に変わって、猿やかっぱの場合もあります。これもお馴染みの民話でしょう。
かにの恩返し説話は、古くから語りつがれ「日本霊異記」や「今昔物語」に記録されています。京都の山城の町にある蟹満寺というお寺にもこの話とそっくりの「蟹満寺縁起」が残されています。
 
それにしても、悪役の蛇は、哀れです。
もとはといえば、約束を破った庄屋どんが、その責めを受けるべきです。
子ども達にこの話をした時に、「悪いのは庄屋さん!」と、不満そうにいった女の子達が何人もいました。子ども達は、「事の善し悪し」を考え、自分なりに判断し、それを言葉で表現できる年齢に差し掛かっています。こういったことからも、「話の読み聞かせ」は、ご両親の大切な仕事であることがわかりますね。
 
また、「安珍清姫」の話も、大きくなったら妻にしようと戯れにいったことを信じた清姫が、だまされたことを知り、道成寺に逃れ、釣り鐘に隠れた安珍を、蛇に変身した清姫が七巻にして殺しますが、これも悪いのは、戯言(ざれごと)をいった安珍です。
「か弱き女性をだますと、あとが恐いよ!」
と、その執念深さを、蛇が演じているだけに、一層、説得力がありますね。  
 
仏教には殺生、妄語、偸盗、邪淫、飲酒を戒めた五戒がありますが、庄屋は、動物の妻にするのは邪淫戒になり、嘘をついたので妄語戒と二つの戒めを破り、安珍は嘘をついたので妄語戒を犯したにことになりますから、それぞれ厳罰を受けるのですが、庄屋は助かるのは、子どもが聞く昔話だからでしょうが、子どもたちはしっかりと怒っていますね。(偉い!)
 
もう一つ紹介しましょう。
きつねが人を化かす話も、むかし話にはたくさんありますが、新美南吉の「ごんぎつね」の悲しい結末と違い、ほのぼのとなる話があります。
 
                          
 ◆きつねのかんちがい◆
 
 むかし、あるところに、惣五郎という若者がいました。
 ある年の田植どきのことです。惣五郎さんは三反御作(広さ30アール)もあるたんぼを、一日で田植えをし、家へ帰る途中、畑の中にある井戸水を飲もうと、つるべ(水を汲み上げる桶)を上げると、その中に、溺れ死んだ子ぎつねが、入っていたのでした。惣五郎さんは、かわいそうに思い、畑の隅に穴を掘って埋めてあげました。
      
 ところが、夜中に大勢の人が声を合わせて、
 「お田を引いたで惣五郎! 三反御作みんな引いただ!」
 と、怒ったような声で歌い、二、三回繰り返すと静かになったのです。惣五郎さんは、不思議に思ったのですが、そのまま眠ってしまいました。
 
 翌朝、たんぼへ行くと、田植えをしたばかりの‘三反御作’の苗が全部、引き抜かれていたのです。きつねの仕業かなと思った惣五郎さんは、子ぎつねを埋めた所へ行ってみると、穴は、掘り返されていました。きつねは、勘違いをしたなと思った惣五郎さんは、きつねの棲んでいそうな竹薮や、林の中を歩きながら、
 「死んでいた子ぎつねを拾い、お墓を作ったんだ。誤解しないでくれ!」
 と、大声で叫んだのです。
   
 すると夜中に、
 「お田引いて すまなんだ! 三反御作 また植えたあ!」
 と、二度ほど繰り返し歌い、静かになったのです。
 あくる朝、戸をあけると大きな鏡餅が一枚置いてあり、三反御作の苗も、植え直してありました。
 惣五郎さんは、きつねに気持ちが通じたことがわかり、とても嬉しかったのでした。                           
   新訂・子どもに聞かせる 日本の民話   大川 悦生 著 
                          実業之日本社 刊 
      
坪田譲治の、子どものために命をなくした「きつねとぶどう」や、新美南吉の人間と子ぎつねの心あたたまるやりとりを描いた「手袋を買いに」なども、ぜひ読んであげたい童話です。
 
また、小川未明の、信仰とは何かを考えさせられる「頭を下げなかった少年」(最後の一言が鮮やかです)や、献身的な子育ての後に子猫の幸せのために姿を消す親猫を描いた「どこかに生きながら」も、見た目の美しさより、実用を重んじて作った茶わんを褒める「殿様と茶わん」、神様からの授かりものといって可愛がっていた娘を売り飛ばし、報復を受ける老夫婦を描いた「赤いろうそくと人魚」などの童話は、大人が読むべきで、心が洗われます。
 
お母さん方にお勧めしたいのは、「小川未明童話集 赤いろうそくと人魚 新潮文庫」です。
 
ここで日本語の表現の多彩さを少々。
春雨、五月雨(さみだれ)、夕立、俄雨(にわかあめ)、驟雨(しゅうう 夕立の漢語的表現)、秋雨、時雨(しぐれ 秋から冬にかけて降る通り雨)氷雨、雨雪(みぞれのこと)、四季折々の雨、やはり、日本人の感性は繊細ですね。
 
雨で忘れられない童謡があります。昔は、蛇の目の傘をさしていました。中心部と周辺を黒、紺、赤色に塗り、中を白くして蛇の目の形を表した傘で、竹骨に紙を貼り、油をひいた粗末なものでした。
    
    あめふり
        北原白秋 作詞  中山晋平 作曲
     あめあめ ふれふれ かあさんが
     じゃのめで おむかい うれしいな
     ピッチ ピッチ チャップ チャップ ランランラン
 
     かけましょ かばんを かあさんの
     あとから ゆこゆこ かねがなる
     ピッチ ピッチ チャップ チャップ ランランラン
     
     あらあら あのこは ずぶぬれだ
     やなぎの ねかたで ないている
     ピッチ ピッチ チャップ チャップ ランランラン
     
     かあさん  ぼくのを かしましょか
     きみきみ このかさ さしたまえ
     ピッチ ピッチ チャップ チャップ ランランラン
     
     ぼくなら いいんだ かあさんの
     おおきな じゃのめに はいってく
     ピッチ ピッチ チャップ チャップ ランランラン
         (引用者注 ねかた「根方」 木の根もと)
     
2行目の「おむかい」は、原詩は歴史的仮名遣いの「オムカヒ」になっており、「おむかい」と読みます。昔の日本語は、書き方と読み方が違うからですが、東京方面の古い方言で、「おむかえ」がなまって「おむかい」になったそうです。発表された大正14年頃、白秋は小田原に住んでいたので、この言葉を使ったのですが、「改訂版 しょうがくせいおんがく」(昭和33年発行)から「おむかえ」に変えて掲載。このときから「おむかえ」と歌い始めたそうです。
(「Yahoo!知恵袋」より要約)
     
繰り返しますが、童謡は情操の発達と深いかかわりを持つ、思い出のしみこむ「成長の記録」ではないでしょうか。お子さんが一緒に歌える童謡、ありますか。
 
    (次回は「七夕祭りでしょう」についてお話しましょう)    

 
 
【本メールマガジンは、「私家版 情操教育歳時記 日本の年中行事と昔話情操豊かな子どもを育てるには 上・下 藤本 紀元 著」をもとに編集、制作したものです】
 
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