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さわやかお受験のススメ<保護者編>第9章(3)七夕祭りでしょう 文月

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         「めぇでる教育研究所」発行
     2021さわやかお受験のススメ<保護者編>
         ~紀元じぃの子育て春秋~
     「情操教育歳時記 日本の年中行事と昔話」
       豊かな心を培う賢い子どもの育て方
           -第34号
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第9章(3)  七夕祭りでしょう   文 月

★★お盆って何の日、ご冗談を★★
人間は死ぬと仏様になり、その仏様をお迎えする行事をお盆だと思っていまし
たが、少し違うようでした。「盆と正月が一緒に来たような忙しさ」といいま
すが、これは1年を半期ずつに分けた前期の始まりが正月で、後期の始まりが
お盆だから、こういう使い方をするのです。
 
 正月に、日頃お世話になった人々のところへ感謝と新たな年を迎えるにあた
 っての抱負を胸に、年始まわりするのと同じように、盆には健在な親、仲人、
 師などの親方筋を訪問し、心のこもった贈り物をする、盆礼という習慣があ
 った。(中略)盆は満月の日、7月15日である。それが仏教の説く盂蘭盆会
 (うらぼんえ)と一致し、仏教国家として次第に民衆の間に浸透し、(中略)
 盆は7月15日の中元に吸収され、「盆と正月」は「盆暮」と姿を変えたので
 ある。
 (年中行事を「科学」する 永田 久 著 日本経済新聞社 刊 P149)
 
日本に伝えられた盂蘭盆会は、推古天皇14年 (606)に初めて催され、聖武天
皇天平5年 (733)より、年中行事になったそうです。「盆と正月」が「盆暮」
と言葉を変えたのは、1年を半期ずつに分けた前期の終わりを盆、後期の終わ
りを暮というようになったからです。それで盆は中元を、暮は歳末を意味する
ようになり、盆にはお中元を、暮にはお歳暮を、お世話になっている人に感謝
の気持ちをこめて、贈り物をするようになったのです。
「お年玉」と同様、「お盆玉」があるんですね。故、渡部昇一先生は山形の出
身で、ある随筆に「発祥の地は山形、江戸時代からある」と読んだ記憶があり
ます。今年も孫にやろうと思っていますが、家内からは「甘いんだから!」と
からかわれています(笑)。
 
 
 
★★お盆の風物詩★★
 
お盆には、7月15日を中心に祖先の霊を迎えて送る行事、精霊祭(しょうり
ょうまつり)があります。 
13日に迎え火をたきますが、これは仏様が、おがら(あさの皮をはぎ取った
茎のこと)を折って、たいた煙に乗り、盆灯篭(ぼんどうろう)の明かりを頼り
に家に帰ってくるからだそうです。おがらの足をつけたきゅうりの馬となすの
牛を内向きに並べて飾るのは、仏様は、馬に乗り、荷物を牛に背負わせて帰っ
てくるといわれているからです。迷子にならないように、きちんとお迎えをす
る意味でしょう。私のように、そそっかしい仏様もいるはずですから。                         
 
仏様を祭る棚を盆棚(精霊棚)といって、そこに真菰(まこも)を敷き、ほお
ずき、ききょう、おみなえし、はぎ、山ゆりなどの秋の花を飾ります。こうし
て久しぶりに帰ってきた仏様は、真菰にお座りになり、それを家族みんなで慰
めるということでしょう。お供えは、畑でとれたものや、仏様が生きていたと
きに好きだった食べ物も供えます。私でしたら「越乃寒梅」(幻の銘酒といわ
れた新潟の酒)を1合だけ、お願いしたいものです。
 
そして、懐かしい自分の家で過ごした仏様は、7月16日には、お帰りになり
ます。これが送り火で、きゅうりの馬となすの牛は、今度は外向きに並べて、
送り出すことになりますが、これも間違いなく彼岸の方へ帰ってもらうためで
しょう。
 
広島の灯篭流しのように、送り火を小さな船に乗せて、お供え物と一緒に、川
へ流すこともあります。また、地方によっては、美しく飾られた精霊船に、仏
様に供えたものを乗せて、灯火をつけ、経文や屋号を書いたのぼりを立てると
ころもあります。      
 
送り火で有名なのが、京都の「大文字焼き」で、8月16日に行われています
が、これは8月15日を旧盆として祭る風習が、残っているからです。7月の
京都は、まだ梅雨明け前です。しとしと降る梅雨空に、大文字焼きは映りがよ
くありません。やはり、しっかりと暑い8月だからこそ、風情があります。何
やら風鈴の涼しげな音と、蚊取り線香の匂い漂ってくる、そんな感じがしませ
んか。
 
ところで、澤田ふじ子さんの「公事宿事件書留帳シリーズ」は22巻になりま
したが、その3巻目に、なぜ、大文字焼きは、大文字、左大文字、妙、法、舟
形、鳥居からなっているか、その理由について、わかりやすい話が載っていま
したので紹介しましょう。                   
 
  大文字と左大文字は、大乗仏教と小乗仏教をかたどり、妙と法は法華経信
  仰に基づくもの、船形は七福神が船に乗って表されることから七福神、ま
  たは異国から到来した雑信仰を意味し、鳥居は申すまでもなく神道をかた
  どったと考えたらいかがでござろう。足利将軍義政公の頃、わが国は応仁
  の乱によって多くの人命が失われ申した。京は死の町となった中から復興
  をとげました。それぞれ違った信仰を持つ人々が集い、合議の末、かよう
  な行事を興したのではないかと、私は考えております。
  (公事宿事件書留帳 三 拷問蔵 澤田ふじ子 著 幻冬舎 刊 P300)
 
平岩弓枝さんは江戸の「御宿かわせみ」(34巻 新シリーズ“7巻”)で、
澤田さんは京都の公事宿「鯉宿」で、悪を懲らす時代小説(22巻)を書かれ
ていますが、内容はいずれも、現代社会の悪行を暴いたものです。「罪を犯し
た厚顔無恥な為政者は、さらし者にすべきだ」という澤田さんの憤りは、庶民
の怒りであり、読み始めるとやめられなくなる事件書留帳です。茶道、立花、
陶器、謡曲、日本画、作庭など、京都文化に興味のある方必読の作品が、たく
さん出版されています。蛇足ながら、11巻から始まった文芸評論家、縄田一
男氏の解説が何とも素晴らしく、毎回楽しみにしていたのですが、22巻でシ
リーズは終了。娘さんの澤田瞳子さんが後を継ぐそうですが、残念ですね。し
かし、「狐鷹の天(上下) 徳間文庫 刊」を読み、十分に期待できそうでホ
ッとしました。期待しています!
 
本題に戻りまして、まだ、あります。盆踊りです。
これも、仏様を迎え、慰め、そして来年も間違いなく来てくださいと、送るた
めに捧げられたもので、中央のやぐらのまわりを輪になり、鉦(しょう)と太
鼓と笛に合わせて踊ったのです。今では、地域のコミュニケーションの場とな
り、夏に欠かせないイベントの1つになっていますが、親子で「ドラえもん音
頭」に合わせて踊られてはいかがでしょうか。
 
余談になりますが、男子だけの立教小学校の入学試験に踊りを取り入れていま
す。照れ屋で、はにかみ屋で、小心で、用心深い男の子を躍らせるのは難しい
ことですが、お父さんが一緒に踊ってあげれば踊ります。盆踊りは絶好のチャ
ンス、受験を考えているお父さん、頑張ってください!
 
「やっとさー!」の掛け声も楽しい徳島の阿波踊りは、ものすごい迫力で、夏
の風物詩に欠かせません。東京の山の手、高円寺の阿波踊り、今ではすっかり
定着して名物になっていますが、何だかおかしな気がしないでもありません。
しかし、下町の浅草では、ブラジル生まれのサンバ大会をやっていますから、
おかしくないのでしょう。このサンバですが、みなさん上手です。「タンタン
ターン、タタンタターン♪」のリズムを完全にこなし、お見事の一言です。そ
れも、かなりの年配の方が、きちんとリズムをこなしています。しかも、実に
楽しそうです。年配の方は、頭に手拍子、アクセントのある民謡でなければ、
踊れないと思っていましたが、認識を改めなくては怒られますね。本場のブラ
ジルから応援にきている女性軍団の踊り、リオのカーニバルのものすごさを想
像させてくれます。今年は新型コロナウイルス感染症のため延期の予定、高円
寺の阿波踊りは中止が決まりました。この日のために練習に励んできた皆さん、
残念!
 
ところで、雷門から見つめる風神と雷神、仲見世を約300メートル行ったと
ころにある宝蔵門にどっしりと構えた仁王の目には、どのように映っているで
しょうか。仁王のお守りする御本尊は、宝蔵門の手前の浅草寺幼稚園の側にあ
る「浅草寺縁起」の絵で見ただけですが、小さな、小さな、何とも美しい観音
様だからです。
この観音様は、信仰上の理由から普段、人には見せない秘仏ですが、長い間、
「実際に見た人はいないのではないか」といった話を小林秀雄と松本清張の対
談で読んだものと思っていました。ところが、今読んでいる故、梅原猛氏の影
響を受け、日本の神道と仏教の関係を調べようと、五木寛之氏の「百寺巡礼」
(全10巻 講談社 刊)を読み直していたところ、何と5巻目の「関東・信
州編」の「41番 浅草寺」に、この観音様の話が出ているではありませんか。
明治に入り廃仏毀釈の機運が高まった明治2年、役人が天皇の命令、勅命によ
り厨子を強引に開けさせたそうです。
 
 すると、予想に反して、そこには確かにご本尊が祀られていたのでおそれい
 った役人は、大切にせよと命じて、あわてて立ち去ったそうだ。これは松本
 清張と樋口清之の共著「東京の旅」に書かれた一節だが、この話には続きが
 ある。その時、手早い役人のひとりが、秘かに本尊をスケッチしてしまった
 のである。このスケッチは昭和に入ってから遺族の手で寺に返され、今は浅
 草寺が所蔵しているらしい。そのスケッチを見た人の話、というのが記され
 ていた。焼けた跡がうかがえる高さ20センチほどの観音像で、両手が失わ
 れていた。しかし、その意匠から、奈良時代頃の像であることは違いないと
 いう。
 (百寺巡礼 第5巻 関東・信州編 P20 五木寛之 著 講談社 刊)
 
五木氏も「秘仏が実在した記事を読み、ホッとしたような、がっかりしたよう
な、妙な気持ちだった」と書かれていますが、両手足が失われていたと知り、
おいたわしい気持ちに落ち込み、浅草寺幼稚園のすぐそばにある「浅草寺縁起」
の絵で見たお姿を思い浮かべ、世の中、知らずに済めば、それに越したことは
ないものがあることを体験してしまいました。10月の神無月に紹介しますが、
自説の誤りに気づき出雲大社に出かけ、大国主命(おおくにぬしのみこと)に
詫びた梅原猛氏の謙虚な姿勢には頭が下がりました。スケールは大違いで恥ず
かしいのですが、私も真似て「小林秀雄と松本清張」ではなく、「松本清張と
樋口清之」の間違いであったことをお詫びいたします。何しろ、10年近く、
自慢げに嘘を書いていたのですから。(反省)
 
ところで、浅草寺には2つの大きな提灯があり、浅草のシンボルとして親しま
れています。入口の雷門には、「雷門」と書かれた提灯があり、高さ3.9メ
ートル、直径3.3メートル、重さ約700キロもあるもので、1865年に
火災で焼失したものを、1960年に松下電器創業者の故松下幸之助の寄贈で
95年ぶりに再現されたものです。現在の提灯は6代目で、約10年ごとに新
調されているそうです。
宝蔵門には「小舟町」と書かれ提灯があり、約4メートル、重さ260キロで、
今から300年ほど前に、日本橋の小舟町魚問屋の信徒が、江戸っ子の心意気
を示そうと、日本一大きな提灯を寄進したことから始まり、浅草寺の伝統とし
て受け継がれています。
 
ちなみに、浅草寺は正式には金龍山浅草寺といい、都内最古の寺院で、年間約
3千万人の参詣者が訪れます。民間信仰の中心地としてにぎわい、最近は、外
国人の姿も多くなっているようです。
 
余談になりますが、浅草寺のおみくじ、裏側は英語で書いてありますね。これ
だけ多くの外人観光客が訪ねてくるのですから、浅草寺だけではないでしょう
が、知りませんでした。引いたおみくじは、ラッキーにも大吉で、“BEST 
FOUTUNE”と書いてありました。
 
少し脱線します。
観音様は、あのお顔といい、なまめかしいお姿といい、仏様に性別があると申
し上げるのも不謹慎なことですが、恥ずかしながら女性の仏様だと思っていた
のです。バカですね、笑ってください。
以前にも紹介しましたが、千葉県市川市にある国府台女子学院に安置されてい
る慈母観音様を拝見する機会に恵まれたとき、そのお姿が何とも素晴らしく、
後期高齢者の私は、はしなくも、しばらく見とれてしまいました(笑)。
 
  本学院の「慈母観音」は女子校に飾られるということで、ご尊顔も一見笑
  みを浮かべた女性のようで、おからだも柔らかく表現されているが、芳崖
  の「悲母観音」のお顔に顎鬚が描かれているように、観音様は基本的には
  男性(正確には性別を超越した存在)である。本学院の慈母観音像も胸元
  のあらわな装束をお召しだが、これもこの理由だからである。誤解無きよ
  うに。(笑)
  学院長 平田 史朗 (「国府台女子学院 広報 第157号」より)
    筆者注 顎鬚(あごひげ)
        芳崖 狩野芳崖のことで、幕末から明治期に活躍した日本画
           家で近代日本画の父。
 
慈母観音の作者、横江嘉純は、重要文化財に指定されている芳崖の「悲母観音」
を手本にしたそうですが、片手に水瓶(みずがめ)を提げ童子を慈しむお姿は、
女子校にぴったりの雰囲気をかもし出していました。氏は、アガベの像(東京
駅前)、愛の像(青山学院大学間島記念館)、祈りの像(広島平和記念公園)
などの作品で著名な彫刻家です。女子校の、しかも中高の校舎の正面玄関から
入った右側にある図書室の前に安置されていますから、残念ながら、いつでも、
気軽に、ご尊顔を拝することはできません(笑)。ところが、新装なった学園
の講堂、寿光殿は、中高の校舎内にあり、説明会はここで行われていますから、
参加するとお会いできることになったのです。「彦星と織姫と同じではないで
すか!」と不謹慎にもつぶやき、希望を抱き、毎年、ご対面してきましたが、
昨年は腰痛のため、機会を逃してしまいました。(残念)今年は、WEBで参
加する予定ですが、お姿を拝見できるでしょうか。
 
 
 
★★お神輿と山車の違い★★
 
浅草といえば「三社祭」、浅草寺の境内は、神輿(みこし)を担ぐ人で、ごっ
た返します。威勢よく担ぐ神輿は、上下左右に激しくゆれ、よくぞ怪我人が出
ないものだと心配になるほど殺気だち、恐いほどです。
この神輿のいわれですが、時代劇でよく見かけるように、昔、身分の高い人は、
輿(こし)といわれた台に乗り出かけていました。神輿は、つまり、「神の輿」
であって、神様の乗り物なのです。そして、お乗りになっている神様は、激し
くゆさぶられるのが大好きで、激しければ激しいほどご機嫌になるといわれ、
そのために、元気よく担ぐのだそうです。
山車は、祇園祭などでお馴染みですが、四月の桜の時に紹介しましたように、
神様は、冬になると山に帰り、春になると下りてくると信じられていました。
 
 お祭りには、神様が必要ですから、来ていただくために、お迎えするための
 乗り物が必要だったわけです。そのため、祭りには移動式の山が作られたの
 です。これさえあれば、祭りに神さまを招くことができると考えられていま
 した。その後、形が変わり「山車(だし)」になっても、山の字が残ったの
 です。
 (心を育てる 子ども歳時記12か月 監修 橋本裕之 講談社 刊 P66)
 
ところで、神様にも悪い神様がいたそうです。
夏祭りの神様は悪い神様で、病気や飢饉などを起こさないように、神輿を激し
く揺さぶり、ご機嫌を取って、山に帰ってもらい、災いを未然に防ぐ、昔の人
の知恵だったのです。日本の三大祭といえば、東京の神田祭、大阪の天神祭、
コンチキチンコンチキチンのお囃子でおなじみの京都の祇園祭ですが、祇園祭
の主役である牛頭(ごず)大王は、地獄にいるという牛頭人身の獄卒で、有名
な悪い神様だそうです。
 
 
 
★★なぜ、土用の丑の日に、うなぎを食べるのですか★★
 
「土用」というのは、何も夏だけではありません。「節分」と一緒で年に4回
あります。前にもお話ししましたが、立春、立夏、立秋、立冬は、それぞれの
季節の始まりです。そして、それぞれの前の18日間を「土用」といい、その
最初の日を「土用の入り」といいます。土用は、四季、それぞれにあるのです
が、なぜか夏の土用だけが有名です。しかし、なぜ「丑の日」というのでしょ
うか。それは、それぞれの日にちには、正月で取り上げた「十二支」の動物の
名前がついているからです。それで、夏の土用の内にやってくる丑の日のこと
を「土用の丑の日」といいます。
 
ご存知のように、この日は夏ばてしないように、良質のたんぱく質、脂肪、ビ
タミン、カルシュウム、鉄、亜鉛、DHA、ミネラル類などを含む、栄養のバ
ランスのすぐれたうなぎを食べる習慣がありますが、何とその歴史は古く、何
しろ「万葉集」の大伴家持の歌に、「夏バテに効果がある」と詠われています。
読んでいると、思わず食べたくなる池波正太郎氏の食べ物に関するエッセーに、
こういった話があります。
 
  かの万葉集に、
  …石麻呂にわれ物申す夏痩せによしといふものぞ鰻(むなぎ)捕り食(め)
  せ…
  という一首がある。大伴家持の歌だ。そのころから、すでに、うなぎの豊
  かな滋養が知られていたことになる。この歌でうなぎのことをムナギとい
  っているのは、うなぎの胸のあたりの淡黄色からついた名で、それが転じ
  てうなぎとよばれるようになったのだそうな。
 
奈良時代から、この日は、うなぎにとって、まさに受難の日であったわけです。
しかし、なぜ「土用の丑の日」に、うなぎなのでしょうか。丑の日ですから、
ステーキとか焼肉という感じがしますが、江戸時代ですから、まだ、牛肉は無
理でしょう。事の起こりは、江戸時代の学者、平賀源内が、うなぎ屋の宣伝を
したのが始まりといわれ、そのコピーは、「土用の丑の日はうなぎの日」だっ
たそうです。源内は、起電気であるエレキテルを完成させたことで知られてい
ますが、その他、本草学者(薬用に重点をおいて、植物や自然物を研究した中
国古来の学問)、劇作家、発明家、科学者、陶芸家、画家、工学者として一流
でしたから驚きです。非常に多才な方で、まさに江戸のレオナルド・ダ・ヴィ
ンチ的な存在であったわけです。源内のパトロンが、時の老中、田沼意次です。
 
私事で何ですが、池波正太郎氏の愛読者の一人で、「鬼平犯科帳」「剣客商売」
「仕掛人梅安」 など、何回読み返しても飽きません。この「剣客商売」の主
人公、秋山小兵衛の息、大治郎のお嫁さんが、田沼意次の実の娘、佐々木三冬
です。正妻の子でなかったために、佐々木家の養女となって登場しますが、女
剣士、妻、母親と変貌していく中で、物語に欠くことのできない重要な役目を
果たしています。意次は世評とは逆に、まつりごとに忙殺される政治家として
描かれています。秋山小兵衛は、藤田まことの当たり役で、明治座で見たこと
があり、歌がうまいのにはびっくりしましたが、冥界に旅立ち、二度と見るこ
とができなくなりました。
NHK大河ドラマ「真田丸」好評でしたが、氏にも「真田太平記」(新潮文庫12
巻)があり、言うまでもありませんが、傑作です。
 
ところで、江戸時代は4本足の獣を食べなかったのですが、「うさぎは、ぴょ
ん、ぴょん飛ぶから、あれは鳥だ!」といって食べていたのです。ですから、
うさぎは1羽、2羽と数え、それが今も残っているのですが、子どもたちには、
よく理解できない数え方になっています。哺乳類を食べることを禁じていた仏
教の影響でしょうが、とんだところで、子どもたちを悩ませているようです。
この数詞ですが、日本語は難しいですね。1本、2本、3本、1匹、2匹、3
匹とふえるに従い読み方が違い、4本、4匹以下が、また違いますし、花にし
ても、1本、1輪、1束、1鉢、1株などと分けて使っていますから、外国の
方には、魔法のように思えるようです。それだけ、物に関する感性が、繊細だ
ということですね。 
                               
7月は、紀貫之の三十一文字で始まりましたから、最後は、俵万智さんの作品
から一首。
 
  「この味がいいね」と君がいったから七月六日はサラダ記念日
 
7月6日は七夕の前日、この日だからいいのですね。バレンタインデーやクリ
スマスイブでは、サラダ記念日は訴える力に欠けます。「わたくし流」ですか
ら正しい解釈かどうかわかりません。五七五七七に、こだわってみました。
 
   この味が いいねと君が いったから 
                七月六日は サラダ記念日
 
ところで、長い間、同じような感覚として、歌人で国文学の巨匠、土岐善麿 
(1885ー1980)作の「あなたは勝つものと……」を紹介していたのですが、とんで
もない誤解をしていたことを思い知らされました。「終戦の日を迎えて」と題
したコラムに、終戦後に詠んだ歌との解説があったのです。
 
  あなたは勝つものとおもってゐましたかと老いたる妻のさびしげにいふ
 
  「短歌研究 昭和21年3月号に掲載された「会話」という連作の冒頭の
  歌で、次に、「子らみ たり召されて征(ゆ)きしたたかひを敗れよとし
  も祈るべかりしか」という歌が続いていることはあまり知られていない。
  戦争に負けることは、味方の犠牲が大きいということだから、戦争に行っ
  ている3人の子どもが死ぬことにつながる。親として子の死につながる敗
  戦を願うわけにはいかない、というわけである。
  (コラム[紙つぶて] 筒井清忠 帝京大教授
          東京新聞夕刊 平成25年8月15日)
       
「老いたる妻のさびしげにいふ」理由が、敗戦だけではないことがわかり、
「万智さん以上に新鮮な感覚ですね、などとほざいては、どやされかねません。
読み流してください」などと、したり顔で紹介していたことが恥ずかしくなり
ました。(懺悔)
 
今年の土用の丑の日は、7月21日(土)と8月2日の2回ありますが、我が
家の食卓にも、久しぶりに姿を見せるのではないかと期待していますが、……
高そうですね(笑)。
蛇足ですが、天然うなぎの旬は、産卵前の秋から冬にかけての時期で、「秋の
下りうなぎ」といわれているそうです。そういえば、下り鰹(戻り鰹)も脂がの
り美味しいですね。
 
  (次回は「7月に読んであげたい本」についてお話しましょう)

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さわやかお受験のススメ<保護者編>第13章 七五三でしょうな(3)

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         「めぇでる教育研究所」発行
     2021さわやかお受験のススメ<保護者編>
         ~紀元じぃの子育て春秋~
     「情操教育歳時記 日本の年中行事と昔話」
       豊かな心を培う賢い子どもの育て方
           -最終回
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第13章 七五三でしょうな(3)  
  【11月に読んであげたい本(2) 終わりにあたり】
 
                   
白血病と闘い、無事復帰した池江璃花子さん。「泳ぎたい一心で頑張った」と
か。
そのアスリート根性には感動しました。闘病者にどれだけの勇気と希望を与え
たことか、その努力が素晴らしいですね。しかし、0秒04の差、悔しかった
でしょうが、それをバネに、オリンピックを目指して頑張ってください。応援
しています!
 
 
本題に入りまして、学生時代に映画で見た記憶があります。迫真の姥捨ての世
界を描いた深沢七郎の「楢山節考」を、木下惠介がメガホンを取ったもので、
捨てられるおばあさん、おりん役を田中絹代、背負っていく息子は高橋貞二と
いっても50数年ほど前の話ですから、若い皆さん方には、何のことやらわか
らないかもしれませんが、歌舞伎を見ているような導入部が印象に残った、怖
い映画でした。映画は恐かったのですが、ここでは、殿様を諌める話になって
います。
 
 
 
 ◆うばすて山◆   吉村 輝夫 著
 
むかし、ある所に、年を取ったおっかあと息子が暮らしていました。その頃、
年寄は60歳になると山へ捨て、守らないと殺される掟があったのです。おっ
かあが60歳になったとき、山の奥までおぶって行ったのですが、捨てること
は出来ず、山を下り、家の裏に穴を掘って、隠したのです。          
ある時、殿様が村の者に、「灰で縄を作ってこい」といってきました。灰は燃
えかすですから、縄などなえません。みんなが困っているのでおっかあに相談
すると、「わらで縄をきつく縛って、塩水につけてから燃やしてごらん」とい
うので、やってみると出来たのです。
すると今度は、「きれいに磨いた丸い棒を出して、どっちが根っこか調べてこ
い」というのです。太さも堅さも同じですからわかりません。また、おっかあ
に相談すると、「水に入れて、先の沈んだ方が根っこだ」と教わり解決します。
今度は、「玉に糸を通してこい」という。見ると、玉に糸の通る穴があいてい
ますが、曲がっているので、糸など通るわけがありません。そこで、おっかあ
に聞くと、「小さな蟻を捕まえて糸の先に縛り、穴の口に蜜を塗り、塗ってい
ない方の穴へ蟻を入れると、蟻は蜜の匂いに誘われ穴の中を進むはずだから、
糸を通せる」というのでした。やってみると、糸は通ったのです。
喜んだ殿様は、「こういった知恵は、どうして生まれたのか」と尋ねます。そ
こで、「60を過ぎたおっかあに教えてもらい、年寄は、何でもよく知ってい
るものです」と、震えながら告白したのです。決まりを破っていますから死刑
です。しかし、殿様は感心し、掟を改めたのでした。息子は褒美をもらって家
に帰り、穴蔵からおっかあを出し、仲良く暮らしたのです。
  寺村 輝夫のむかし話
   日本むかしばなし 4 寺村 輝夫・文/ヒサ クニヒコ・絵
                           あかね書房 刊     
 
 
これと、そっくりな話が、チベットにあります。「賢い大臣」です。中国の唐
の時代の話で、皇帝の1人娘をめぐり、7つの国の王子さまが結婚を争うので
すが、その知恵比べとして皇帝から出された問題が、この話に出てくる殿様の
難題と同じでした。灰で縄をなう代わりに、五百頭の親馬と子馬を放ち、それ
ぞれ親子に分ける課題になっています。チベットの人は、馬の扱いになれてい
るからでしょう。その親子の分け方ですが、チベットの賢い大臣は、親馬にお
いしい牧草をたっぷりと与え、それから子馬を放します。すると親馬は、子馬
にむかっていななきます。その声を聞いて、子馬は母馬のところへ、一頭も間
違わずに行くのです。後の二題は同じで、見事に解決し、お姫様はチベットへ
嫁ぐ話です。
 
何度も言いますけれど、こういう話に出会うと嬉しくなります。遠くチベット
から陸を旅し、海を渡り、何百年も時を費やし、日本に伝わってくるのですか
ら、これは大変なことです。このように、昔話が長く語り継がれるのは、時代
が変わっても、共感する心に変わりがないからでしょう。
 
この話の馬の親子の様子が目に浮かぶ童謡、「おうま」があります。
(1)おうまのおやこは なかよしこよし
    いつでもいっしょにポックポックリあるく
(2)おうまのかあさん やさしいかあさん
    こうまをみながらポックリポックリあるく
 
最近、知ったのですが、この歌の作曲者、松島彝(つね)は、国府台女子学院
の校歌の作曲者で、暁星学園、東洋英和女学院は、北原白秋、山田耕筰の大御
所コンビ、日出学園は、西条八十、山田耕筰、聖徳大学附属小学校は、サトウ
ハチローの作詞と、私学の校歌も、有名人の手がけたものがあり、うかつにも
見逃していました(苦笑)。
 
ところで、年寄が増える高齢化社会です。
老後こそ人様に迷惑をかけないで生きたいものです。核家族化が進み、老後の
世話を誰が見てくれるのかと、老人受難の時代と嘆いても、若者からみれば、
これだけ多くなった年寄りの面倒をみるのですから、若者受難の時代だと言わ
ざるを得ないでしょう。頼りは親子の絆ですが、これは小さい時に決まるよう
な気がします。過剰な愛情からは、強い絆は生まれないのではないでしょうか。
アルツハイマーになったら、頼りは連れ合いです。何だか寂しい話ですが、現
代版「姥捨て山」、あちこちで聞かれます。年を取ってからの生き方にこそ、
充実感を持ちたいものだと思います。体の健康も大事ですが、心の健康も大切
です。生きがいは、自分で作るものです。歳月で培われた知恵があるではない
ですかなどと、いきがることもありませんが(笑)。子どもの成長だけを生きが
いにするのは、子どもにとっても迷惑な話です。ましてや、「老後の面倒を子
どもに」と願うのは、年寄りのエゴではないかと考えます。「幼子に自立心を
養え」などと偉そうなことを言ってきましたが、年寄りこそ健康である限り、
自立心を強く持つべきではないでしょうか。ただし、若い皆様方には、「孝行
のしたい時分に親はなし」とならないようにお願いしておきましょう。
 
それはさておき、秋も深まってきました。紅葉狩りも、日本の風物詩に欠かせ
ない絶景の一つでしょう。♪秋の夕日に照る山もみじ♪ 童謡「もみじ」の世
界ですが、もみじという木があるわけではなく、カエデ科の木、ナラ、クヌギ
など赤や黄色に色づく落葉樹をもみじといい、「紅葉狩り」は「梨狩り」「き
のこ狩り」「潮干狩り」などと違い、木の枝や葉を取るのではなく、色づいた
木の葉を見て楽しむものです。枝を折る不心得者もいますが、やめてほしいで
すね。
 
♪ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 見つけた♪
私の住む川越市の郊外には、こういった秋の気配を楽しめる自然が残っていま
す。一幅の絵になるような、郊外でよく見かける素朴な晩秋の景色です。柿が
たわわに実り、桜の落ち葉からは、ほのかな香りが漂う、そんな雑木林を散歩
できる幸せを、月並みな表現で恥ずかしい限りですが、噛みしめています。毎
年、近くを流れる不老川に鴨の親子がやってきましたが、ここ数年、姿を見せ
ません。今年はどうでしょうか。どういう仕組みになっているのか不思議です
ね。ある年の春のことでしたが、鴨の親子に石を投げている子どもたちがいて
叱りつけましたが、何と女の子でした。愕然としましたね。家庭での教育をし
っかりとやらねばいけないと思うのは、年寄りの愚痴であればいいのですが。
 
ところで、雑木林を散歩していたときのことですが、ポトンと何か落ちてくる
音がしたので探してみると、かなり大きな丸いどんぐりでした。風が吹くたび
に、ポトン、ポトンと落ちて来るのでびっくりしましたね。その時に思い出し
たのは、「どんぐりころころ」の歌でした。私は、「どんぐりころころ どん
ぐり子」だと思っていたのですが、進学教室の歌姫こと、まいちゃんが、「先
生違うよ。♪どんぐりころころ どんぶりこ♪ですよ」と言って歌ってくれた
ことでした。「音を立てて水に落ちるさま」なんですね。だから「お池にはま
ってさあ大変」となるわけです。(赤面) 向田邦子さんもある随筆で、野口雨
情の「赤い靴」の歌詞、「異人さんに連れられて」を「いい爺さんに連れられ
て」、土井晩翠の「荒城の月」の「めぐる盃」を「ねむるさかづき」と覚えて
いたと読んだことがありますが、誤って覚えてしまうことは結構あるようです
ね(笑)。
 
枯葉といえば、私たちの世代では、イブ・モンタン、ジュリエット・グレコの
歌ったシャンソン「枯葉」と、マイルス・デイビスの名演奏を忘れることはで
きません。シャンソンもモダンジャズも、どこかへ消えてしまったようでさみ
しい限りですが、夜中、ひそかにレコード盤へ針を下ろし聴いているファンも
いるのではないでしょうか。私もその一人です。モンタン、グレコの心にしみ
る歌声、デイビスのミュートをきかせたトランペットの音色と小粋なソロ(即
興演奏)も、静かな秋の夜が似合います。月を肴に人肌のかん酒で過ごすひと
時、晩秋は、人生をゆっくりと考えさせる自然の恵みかもしれません。
やはり、日本の四季は、素晴らしいですね。(感謝)
 
 
 【最終回にあたり】
 
思い返せば、幼児教育ほど難しく、奥の深いものはないと痛感させられること
ばかりでした。むずかる子どもたちを、巧みにあやしてしまうお母さん方や保
育園、幼稚園、幼児教室の先生方を見るにつけ、「これはかなわない」と何度
も弱気になったものでしたが、その度に心の支えとなったのは、この言葉でし
た。
 
 心に火を点ける
  凡庸な教師はただしゃべる。
  少しましな教師は理解させようと説明する。
  優れた教師は自らやってみせる。
  本当に優れた教師は生徒の心に火を点ける。 
    ウィリアム・アーサー・ワード (19世紀のイギリスの教育学者)
 
おこがましくも、教師の代わりに「親」を、生徒の代わりに「子ども」と置き
換えると、「本当に優れた親は子どもの心に火を点ける」となりますが、親を
40数年やって、「まさにその通りだな」とうなずかざるを得ません。私の好
きな響きのいい言葉に置き換えると、「わが子の心に火をともす」となります
が、これこそ育児の究極の目的、ご両親の仕事ではないでしょうか。
 
本メールマガジンの情報の基礎となっている「年中行事を『科学』する」(産
経新聞社 刊)の「まえがき」で永田久先生は、「年中行事は民族を象徴する。
年中行事を知ることは民族の歩みを知ることである」と述べています。将来に
目を向けることも大切ですが、私たちの祖先が、どのように歩んできたかを、
日常生活を通して知ることも、意義があると思います。なぜなら、年中行事や
むかし話には、幼い子どもたちが、楽しく生きるために心の糧となるヒントが、
たくさん詰まっているからです。
 
思惑通りになったかどうかわかりませんが、お子さんの小さな心に、ささやか
な灯火を点火できればと願い挑戦してみました。若い皆様の育児の参考になれ
ば幸いです。最後まで拙文をお読みいただきまして有難うございました。
 
お子さんの健やかな成長を、心からお祈りすると共に、素敵なお父さん、お母
さんになっていただきたく、一遍の詩を紹介しましょう。ここ数年、雙葉小学
校の説明会で配布されているものです。「この詩のプリントと入学試験は関係
ありません」と校長先生はおっしゃっていましたが、私には、とても難しいこ
とでしたが……(苦笑)。
 
         ★親の祈り★
   神さま
   もっと よい私にしてください。
   子どものいうことを よく聞いてやり
   心の疑問に 親切に答え
   子どもを よく理解する私にしてください。
   理由なく 子どもの心を傷つけることのないように
   お助けください。
   子どもの失敗を 笑ったり 怒ったりせず
   子どもの小さい間違いには目を閉じて
   よいところを心から褒めてやり
   伸ばしてやることができますように。
   大人の判断や習慣で
   子どもを しばることのないように
   子どもが自分で判断し
   自分で正しく行動していけるよう
   導く智恵をお与えください。
   感情的に叱るのではなく
   正しく注意してやれますように。
   道理にかなった希望は、できるかぎりかなえてやり
   彼らのためにならないことは
   やめさせることができますように。 
   どうぞ 意地悪な気持ちを取り去ってください。
   不平を言わないように助けてください。
   こちらが間違ったときには
   きちんとあやまる勇気を与えてください。
   いつも穏やかな広い心を お与えください。
   子どもといっしょに成長させてください。
   子どもが心から私を尊敬し慕うことができるよう
   子どもの愛と信頼にふさわしいものとしてください。
   子どもも私も 神さまによって生かされ
   愛されることを知り
   他の人々の祝福となることができますように。
 
       
      令和2年10月吉日
 
         めぇでる教育研究所 所長 藤本 紀元

さわやかお受験のススメ<保護者編>第13章 七五三でしょうな 霜月(2)

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         「めぇでる教育研究所」発行
     2021さわやかお受験のススメ<保護者編>
         ~紀元じぃの子育て春秋~
     「情操教育歳時記 日本の年中行事と昔話」
       豊かな心を培う賢い子どもの育て方
           -第48号
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第13章 七五三ですね 霜月(2)
 
 
10月1日(木)の十五夜の満月をご覧になった方、10月29日(木)の十
三夜も見ておきたいものです。「両方見ないと縁起が悪い」と言われていたそ
うですが、これは江戸時代の遊里、吉原の客寄せのキャッチフレーズで、「両
日ともいらっしゃい!」が狙いだったとか。考えたものですね(笑)。
「箱根、仙石原のすすきが色づき始めました」とネットに出ていましたが、絶
景です。お子さんに、満月とすすき、日本の秋の風物詩を肌で感じさせたいも
のです。
 
 
 ★★むかし話と伝説の違い★★
 
孫引きで気が引けるのですが、「昔話と伝説」について、わかりやすい解説が
ありますので、紹介しましょう。
 
昔話と伝説には区分がある。
「昔、昔、あるところにお爺さんとお婆さんがいました」と始まるのは昔話の
ほうである。いつ、どこで、だれが……を特定していない。いつでも、どこで
も、だれでもかまわない。
そこへ行くと伝説のほうは、
「伊吹山と浅井岳は古くから高さを競い合っていたが、あるとき浅井岳が一夜
にして背を高くした。伊吹山の神タダミヒコはおおいに怒って浅井岳の神アサ
イヒメの首を斬った。首は琵琶湖に落ちて島となり、これが竹生島である」と
いったぐあいに、まことしやかである。いつ、どこで、だれが、といった事情
がそれなりにはっきりとしている。とりわけ土地との結びつきが深い。どこで
起きたことなのか具体的に記されている。
柳田國男 (1875-1962)の言葉を借りれば、
「伝説と昔話とはどう違うか。それに答えるならば、昔話は動物のごとく、伝
説は植物のようなものであります。昔話は方々をとび歩くから、どこに行って
も同じ姿を見かけることができますが、伝説はある一つの土地に根を生やして
いて、そうして常に成長してゆくのであります。雀や頬白(ほおじろ)はみな
同じ顔をしていますが、梅や椿は一本一本に枝ぶりが変わっているので見覚え
があります」(「日本の伝説」はしがき)
とあって、このたとえ話はわかりやすい。
伝説は土地との関わりにおいていろいろな枝葉をつけ、人々の願望を反映して
成長していく。昔話はどこにでも移っていく。同じような話があちこちにある。
多少姿がちがっても「同じものだな」と見当がつく。                       
(集英社文庫 「ものがたり風土記」P23  阿刀田 高 著 集英社 刊)   
                         
「さすが、柳田國男先生」などとおこがましい限りですが、「昔話は動物のご
とく、伝説は植物のようなものであります」の一言ですね。桜の名所を訪ねる
のも訳ありなのです。雀やほおじろ、どこにでも顔を出しているので、素直に
納得しています。
 
 
 
【十一月に読んであげたい本 (1)】
 
七五三は、親が子どもの健やかな成長を祈る日です。しかし、かけ過ぎる愛情
は、子どもの成長を妨げがちです。七五三は、親の子どもに対する愛情チェッ
クの節目ではないかと思います。子を思う親の素朴な愛情を描いた昔話は、心
があたたまります。
 
蛇というと、嫌われものの代名詞のようで、昔話でも悪役が多いのですが、こ
の話は違います。もともと蛇は、水の霊、水の神さまのお使いと信じられてい
ました。この話は、自然の恐ろしさと、お母さんの子を思う姿を伝えた話です
が、嫌われがちな蛇だからこそ、説得力があります。親子の愛情、特に母親の
見返りを求めない無償のほほ笑み的な子を思う心は、理屈を越えた素晴らしい
ものです。
 
しかし、今では、この親子の絆が壊れかけているような気がしてなりません。
ほとんどの場合、親に責任ありと考えます。「あなたのために、お母さんは…
…!」という言葉は、子どもにとって釈然としないものがあるのではないでし
ょうか。育児は、皆さんのご両親がそうであったように無償です。エゴ丸出し
のうとましい母性愛は、子ども達にも迷惑で、やがて嫌われるものではないで
しょうか。気持ちはわかるのですが……。        
 
 愛には、報われることを目標とするエロス的愛と、与えるだけで全くお返し
を期待しないアガペー的愛があることは言われているが、親でありながら、エ
ロス的愛しか持たぬものがけっこう多いのである。
 (完本 戒老録 自らの救いのために P86 曽野綾子 著 祥伝社 刊)
 
「アガペーとエロス」、学生時代にキリスト教倫理学で習った記憶があります
が、この年になってお目にかかるとは思いませんでした(笑)。
曽野さんは聖心女子大学出身の才媛で、キリスト教倫理に基づく数々の小説や
歯に衣を着せぬ評論で知られていますが、アフリカなどでのボランティア活動
を知れば、さもありなんと納得せざるを得ません。近著の「人間にとって成熟
とは何か」(幻冬舎 刊)は、50代に出会いたかった本の一冊で、悔しい限り
です。(残念) 
現在、聖心女子学院には昭和46年に廃止したため幼稚園はありませんが、入
園した曽野さんは何かの随筆に、「私の時は、名前と年を聞かれただけでした」
と書かれていました。今、幼稚園があれば、とてもじゃありませんが、「名前
と年齢」だけでは済まないでしょう。学院は4・4・4制に移行し、中学受験
はなくなりました。
 
 
 
 ◆へびのよめさま◆   丸山 邦子 著
 
 むかし、あるところに、一人のお百姓さんが住んでいました。
 ある時、子どもたちがいじめていた蛇を助けてあげると、その晩、美しい女
性が、一晩泊めてほしいと訪ねてきました。次の日、お百姓さんが仕事を終え
て帰ってくると、その美しい女性が食事の支度をしていたのです。そうこうし
ている内に夫婦になり、子どもができ、お産の時は見てはいけないと言われま
したが、心配のあまりのぞいたのです。すると、部屋の中には大きな蛇がいて、
とぐろの上に赤ん坊を乗せ、なめていたのです。
 やがて、赤ん坊を抱いて出て来て、
「私は、助けてもらった蛇で恩返しに嫁になりましたが、姿を見られては、と
どまることは出来ません」と言い、赤ん坊が泣いたら、しゃぶらせてほしいと
美しい玉を渡すと、沼に姿を消したのです。赤ん坊は、玉をしゃぶり、健やか
に育ちました。
 ところが、話を聞いた殿様は玉が欲しくなり、家来に言いつけて、取り上げ
てしまったのです。腹を空かせた赤ん坊は、泣きやみません。途方に暮れたお
百姓さんは、沼の淵で、ことの次第を話しました。すると、大きな蛇が、口に
玉をくわえて現れたのです。一つの目から血が流れ、もう一つの目は、ふさが
っていました。美しい玉は、蛇の片目だったのです。取られたのなら仕方ない
と、もう片方の目玉をくれたのでした。
 しかし、この玉も殿様に奪われてしまうのです。
 お百姓さんが、このことを告げると、蛇は怒り、
 「子どもを連れて山へ逃げてください!」
と言ったので、お百姓さんは、子どもを背負って駆け出しました。頂上に着い
たとき、沼の水が盛り上がり、城に向かって流れ出したのです。恐ろしい力で
向かってくる水の力に、城は、ひとたまりもありません。みんな流されたその
後は、湖になってしまったのでした。 
 九月のはなし きのこのばけもの  松谷 みよ子/吉沢 和夫 監修
                    日本民話の会・編 国土社 刊 
 
日常生活を快適に過ごすために、やってはいけないことを定め、それを破ると
破局を招く発想は、先に紹介しました「古事記」の上巻に、豊玉姫(トヨタマ
ヒメ)の出産をのぞいたことで離別する神話があります。姫の正体はふかでし
たが、その他にも、機を織る仕事場をのぞいてしまった「鶴の恩返し」や、魚や
貝が恩返しをする話などでよく知られています。「見ないでください」といわれ
ると見たくなるのは、「怖いもの見たさ」と同様、人間の悪しき性(さが)のよ
うですね。
 
これとよく似た話があります。
両目を失った蛇から、「私は盲目となってしまい、わが子の姿を見ることがで
きなくなりました。三井寺の鐘を毎日撞(つ)いて、子どもの無事を知らせて
ください。年の暮れには、1年過ぎたことがわかるように、多くの鐘を撞いて
ください。お返しに人々に幸運を授けましょう」という滋賀県の伝説「三井寺
の晩鐘」です。以来、三井寺では、除夜の鐘に際し、多くの燈明を献じ、目玉
餅を供え、108に限らず、できるだけ多くの人に、できるだけ多く鐘を撞い
てもらう特別の儀式が行われています。(www.shiga-miidera.or.jpより)
       
余談になりますが、晩鐘というとジャン=フランソワ・ミレーの馬鈴薯畑で働
く農夫が、教会から流れる夕方のアンジェラスの鐘に合わせて祈りを捧げる名
画「晩鐘」があり、小学校6年生の頃、図工の先生が画集を持ってきては絵の
解説をしてくれたことを思い出します。「落ち穂拾い」「羊飼いの少女」と共
に忘れられない作品となりましたが、先生から「馬鈴薯はジャガ芋」、「アン
ジェラスはラテン語でエンジェル」と教わり、言葉の響きが新鮮で今でも覚え
ています。おそらく、自分で解説書を読んだだけでは、このような印象を受け
なかったのではないかと思います。そういったことからも音読は、非常に大切
ではないかと考え、小学生の子ども達に薦めています。井沢元彦氏の「言霊
(ことだま)の国・解体新書」(小学館文庫 刊)ではありませんが、言葉にも
生命があるような気がしますね。万葉集をはじめ古今集などの歌集が今でも読
まれているのも、言霊が脈々と生き続けいる証(あかし)ではないでしょうか。
 
ところで、最近、落語を聞く機会がほとんどなくなりましたが、「寿限無(じゅ
げむ)」という噺があります。子どもがけんかをして、寿限無にぶたれた子が、
こぶを寿限無の親に見せるのですが、名前があまりにも長いために、文句をい
っているうちに、こぶがへこんでしまった噺です。名前の長さは、この話に出
てくる名前の五倍ほどあり、それをきちんと覚えている噺家さんは、すごい記
憶力だなと、子ども心にも感心させられたものです。
YouTubeで若き日の故立川談志師匠の「寿限無」を聞くことができます。
気持ちはわかるのですが、親の愛情が行き過ぎると、妙な具合になる話です。
名前は、一生の付き合いですから、あまりこったものでは、本人が大変です。
そういえば、「悪魔」という名前を、役所で受け付けなかった話がありましたね。
 
 
 
 ◆長い名まえ◆   浜田 廣介 著
 
むかし、ある村外れに、「やぶん中」と呼ばれる家がありましたが、どうしたわ
けか、子どもが無事に育たず、3、4歳になると、あの世に行ってしまうので
す。ある年に、男の子が生まれ、心配したおじいさんは、長生きできるように、
長い名前をつけることにし、和尚さんにお願いしたのです。
つけた名前は、「一丁ぎりの丁ぎりの、丁丁ぎりの丁ぎりの、あの山こえて谷こ
えて、ちゃんばちゃく助、なんみょう長助」でした。これで、長生きできると、
おじいさんは安心して帰るのです。
ある日のこと、長助は川へ菖蒲をとりにいき、丸太の橋を渡ったときに、足を
滑らせ落ちてしまったのでした。友達は、おじいさんに知らせました。
「やぶん中のおじちゃん、大変だぁ。おじいちゃんちの、一丁ぎりの丁ぎりの、
丁丁ぎりの丁ぎりの、あの山こえて谷こえて、ちゃんばちゃく助、なんみょう
長助ちゃんが、落っこちたぁ、落っこちちゃったぁ、川ん中へ!」
声を聞いて、出てきたおじいちゃんは、
「おおい、子どもしゅう。一丁ぎりの丁ぎりの、丁丁ぎりの丁ぎりの、あの山こ
えて谷こえて、ちゃんばちゃく助、なんみょう長助が、どうしたって。どうし
たぁ?」
「川ん中へ落っこちたぁ!」
「そいつは、たいへん」
おじいさんは飛び出していき、近所の人も駆けつけ、間一髪のところで助かっ
たのでした。
    世界民話の旅 9
        日本の民話 浜田 廣介 著  さ・え・ら書房 刊
 
「長い名前で助かった」と思いたいのが人情ですね。原作では、井戸に落ちて
死んでしまうことになっているそうです。再話で命を救ったのは、作者、浜田
廣介の愛情ではないでしょうか。
 
私事でなんですが、名前を「紀元」(きげん)といいます。誕生日は昭和15
年2月11日で、今でいう「建国記念の日」でした。二月にお話しましたが、
当時は「紀元節」といい、日本の誕生した日を、日本書紀に記されている神武
天皇が即位されたといわれる年(西暦紀元前660年)を皇紀元年として、明
治5年(1872)に定めた祝日だったのです。しかも、昭和15年(194
0)は、皇紀二千六百年にあたり、時あたかも太平洋戦争の前の年でもあり、
戦意高揚のためか、皇室礼賛のためかわかりませんが、「紀元二千六百年、あ
あ一億の胸がなる!」と歌を歌い、提灯行列をし、全国的にお祝いをしたそう
です。「紀元二千六百年の二月十一日生まれで名前は紀元」ですから、畏れ多
い名前であったわけで、戦争に勝っていたら、名前負けをした非国民といわれ
たかもしれません。しかし、命名されても、名前負けをしない立派なものもあ
ります。世界自然遺産に登録され、椋鳩十の「片耳の大鹿」の舞台である屋久
島の杉の巨木、推定樹齢三千年の「紀元杉」です。いつの日か訪ね、同名のよ
しみとしてご対面したいものです。ちなみに同島の縄文杉の推定樹齢は七千二
百年で、世界最古の植物といわれていますが、あくまでも推定で、本当のこと
はわからないようです。
 
ところで、世界の名機と言われたゼロ式艦上戦闘機「ゼロ戦」は紀元2600
年に開発され、年号の末尾のゼロを使い命名したそうで、宮崎駿監督最後の作
品「風立ちぬ」が上映されましたから、若い皆さん方にもおなじみになったの
ではないでしょうか。
ゼロ戦と聞くと特別攻撃隊、「特攻」のことを思い出します。私は国のために
命を捧げた純真な心には畏敬の念を抱いています。しかし、あまりにも人命を
無視した唾棄すべき史上最低の作戦であるため、涙なくして読めませんから読
みたくないのですが、250万部も売れていると聞き、百田尚樹氏の「永遠の
ゼロ」を読み、これは若い人達に読んでもらいたいと思いました。小説にも絶
対に謝らない日本の為政者、職業軍人の幹部、高級官僚、マスコミに怒りをぶ
ちまけていますが、読み終わり感じたことは、「少しも変わっていないな」と
いうことでした。先の大戦で300万人(戦場で230万人、原爆や空爆で7
0万人)の命を失ったにもかかわらず、何もやってこなかった自分を棚に上げ
て何ですが、むなしくなりましたね。(合掌)
 
最後になりますが、今は秋祭りの最中ではないでしょうか。
ここ川越市は、10月17(土)、18日(日)は「川越まつり」。大江戸天
下祭りを今に伝える歴史ある祭りで、十数台の山車(だし)が、蔵造りの街に
姿を表し、にぎやかなお囃子と愉快な踊りが見所です。出会った山車同士が、
互いに向き合い、独自の囃子と踊りを競う「曳(ひ)っかわせ」は、祭りの醍
醐味で、一見の価値があります。パソコンで「川越まつり」を検索すると、そ
の様子を見ることができます。ユネスコ無形文化遺産に登録され、今年も一層
の盛り上がりを見せるのではと期待されていましたが、新型コロナウイルス拡
散防止のため、残念ながら中止となってしまいました。(コロナの奴め!)
 
ところで、昨年、吉野彰教授がノーベル化学賞を受賞しましたが、今年はどう
でしょうか。メルマガが配信された頃にはわかるようです。以前、お話しまし
たが、母国語、日本語で自然科学など殆どの分野を学べるのは、奇跡に近いこ
とです。それを支えているのが、漢字仮名交り文です。日本語をしっかりと学
ぶことが、いかに大切であるか、きちんと子ども達に教えたいものです。他の
アジアの国の人々は、英語などで書かれた本を読むことになり、外国語をマス
ターしなければ、専門書は読めないことになっているようです。
 
 (次回は、「11月に読んであげたい本(2)と最終回にあたり」
                      についてお話ししましょう)

さわやかお受験のススメ<保護者編>第13章 七五三でしょうな 霜月(1)

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         「めぇでる教育研究所」発行
     2021さわやかお受験のススメ<保護者編>
         ~紀元じぃの子育て春秋~
     「情操教育歳時記 日本の年中行事と昔話」
       豊かな心を培う賢い子どもの育て方
           -第47号
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第13章  七五三でしょうな 霜 月(1)
            
物の本によると、霜月(しもつき)のいわれは、文字通り「霜が降る月」とい
う意味です。
その他に、「凋(しぼ)む月」や「末つ月」がなまった説もあるそうですが、
あまりいわれていないようですね。
 
 
 ★★なぜ、11月15日なのですか★★ 
 
11月といえば七五三でしょう。11月15日は、七五三のお祝いです。三歳
になった男の子と女の子、五歳になった男の子、七歳になった女の子が、新し
い着物をきてお宮へお参りし、神様に子どもの健康と成長をお祈りして、普段、
ご無沙汰の限りをつくしている氏神さまへ、ご報告に出かけるわけです。氏神
さまとは、その土地に生まれたものを守る神様で、鎮守の神、産土(うぶすな)
の神のことです。これも、当然ながら、訳ありです。
     
 七五三は、もともとは徳川幕府の三代将軍家光の四男徳松(後の五代将軍綱
吉)の身体が虚弱体質だったので、五歳の祝いを慶安3年(1650)11月
15日に執(と)り行ったのがはじめといわれている。
 (年中行事を「科学」する 永田 久 著 日本経済新聞社 刊 P200)
 
その理由ですが、昔の暦には、いろいろと暦注があり、それぞれの「吉凶」が
記されていますが、その暦注の中に「きしく」があります。「きしく」は、
「鬼宿日(きしゅくにち)」のことで、鬼の宿る日と書きますから、何やら大
凶のような感じがしますが、江戸時代の初期に使われていた暦、唐から入って
きた「宣命暦」(せんみょうれき)によると、「よろずよし、ただし婚礼には
忌むべし」の日になるのです。宣命暦は、インドの宿曜経(すくようきょう 
人々の吉凶を知る方法を説く経典)に基づいて作られており、本家のインドで
も、鬼宿を尊んでいます。お釈迦様が生まれた紀元前463年4月8日は、鬼
宿でした。
インドでは、鬼宿を最善の日としているのもうなずけますね。
 
そして、日本は、何といっても農耕民族です。古くより田の神さまは、春には
山から下りて田畑を守り、秋には山に帰るものと信じられていましたし、その
ために人々は、春には稲が順調に育つようにと祈り、秋には豊かな実りを感謝
するしきたりがありました。11月15日は霜月の祭りで、収穫を終えた稲や
穀物と酒を供え、神さまのお恵みに感謝をする日だったのです。人々も、一年
間の労働から開放された喜びの日です。後の五代将軍の五歳のお祝いが11月
15日に行われた理由は、ここにあったわけです。権力の頂点に君臨する将軍
ですから、そのご威光とお祭りの日が重なった鬼宿日こそ、祝日に最もふさわ
しい日だったのです。こうして、11月15日が、七五三の日と決められたの
でした。
 
 
 
 ★★七五三の本来の意味★★
 
今の七五三は、美しく着飾って神社へお参りし、千歳飴をもらい記念写真を撮
って、食事をして帰る、一見、楽しそうですが、子どもにとっては何とも不自
由な日、という感じもしないわけではありません。
      
女の子に聞いてみると、着物をきて、お化粧するのは嫌いではないのですが、
この日だけは例外らしいのです。帯を何本も巻かれ苦しい思いをして、のどが
渇いてジュースを飲むにも、わき目もふらずに飲むことに集中し、ソフト・ク
リームなどとんでもない話で、もう、クタクタになるそうです。女の子の着物
は大変高価ですが、奮発してお金をかけますから、汚すと大変です。親中心の
お祝いでは、こうなりがちですね。
 
しかし、本来の七五三の目的は、素朴で厳粛な祝いだったのです。
昔の赤ちゃんは、ほとんどが頭をつるつるにそっていました。三歳になって、
初めて髪の毛を伸ばし、「もう赤ちゃんではありません」というお祝いをしま
した。これを髪置(かみおき)といいます。
男の子は、五歳になると初めて袴をはくお祝いをしました。これを袴着(はか
まぎ)といいます。          
七歳の女の子は、それまでの、ひものついた着物から、ひものついていない新
しい着物に代えて、初めて帯を結ぶお祝いをしました。これを帯解(おびとき)
といいます。
この三つのお祝いを一つにまとめたのが、七五三の行事でした。 
 
昔の人たちは、子どもは神さまの子どもで、七歳になったとき、初めて人間の
子どもになると思っていました。ですから、こういうお祝いをして、早く人間
の子どもになることを
神さまにお願いしたのです。「これで一人前の子どもになった!」と祝うのが、
本来の七五三の意味なのです。        
ですから、昔は、七歳までは、社会の一員として認められていませんでしたし、
罪を犯してもとがめられず、また、喪に服することもなかったのです。一人前
としての生存権を認められるのは、七歳からでした。今の義務教育が七歳にな
る年から始まるのも、やはり、訳ありなのです。          
 
また、七五三は、それぞれ子どもの成長過程の節目にもあたります。
三歳は、親の手を借りずに自分でできるようにする自立の始まるときです。
五歳は、集団生活への適応力を身につける自律の始まるときです。
七歳は、学校教育が始まり、独り立ちの始まるときです。
 
七五三、やはり奇数がめでたい数ですから、こうなるのでしょうが、こうして
見ると、その歳々に意味のあることがわかります。成長に伴い、自分でしなく
てはならないことが増えるのですから、親が過保護にならないための戒めでも
あったのです。しかし、今は子離れのできないお母さんが、増えていると思え
てなりません。
4月の「花祭りですね」でも触れましたが、私は子どもの成長過程をこう考え
ています。                         
一歳は、五感を通して受ける刺激に反応して成長する条件反射の時期。
二歳は、ご両親のお手本を見ながら学習する模倣の時期。
そして三歳は、自分の力で生きていくための自立の時期だということです。                
ですから、やっていることをみて、口をはさみむようでは過干渉であり、手を
貸したくなるようでは過保護だと思います。三歳過ぎても、何かにつけて口を
はさみ、手を貸していると、いやな言葉ですが超過干渉であり超過保護です。                 
                                        
五歳を過ぎれば、一人前の人間になる修行の始まるときです。何でもお子さん
自身にやらせるべきで、試行錯誤を積み重ねながら、自立心は育まれるもので、
ここでも「失敗は成功のもと」です。いつまでもお母さんが口を出し、「早く
しなさい!」「何をグズグズしているの!」などといわれ続けていると、自分
でやろうとする意欲など育ちません。子ども達がいちばん嫌いな言葉は、「早
くしなさい!」です。できないから早くできないのであって、どれだけ無理な
注文をしているか、真剣に考えてください。そして、しなやかな気持ちで、お
子さんと接するお母さんになってあげましょう。お母さん方が得意とする料理、
なぜ、レシピを見ないで素早く、上手に、美味しく作れるのでしょうか。試行
錯誤を積み重ねた結果ではありませんか。
 
七歳は、独り立ちして育っていくことを願う前祝いです。きれいに着飾るのも
お祝いですから結構ですが、それだけではなく、親が精神的に子離れをする最
後の時期だと思います。
お母さんの自立を見守る温かい眼差しは、子どもの自立心を培い、そこから自
律心も育まれます。先にもお話ししましたが、義務教育が始まる時であること
も、成長の理に適って
いるわけです。
 
 
 
 ★★千歳飴★★
 
七五三といえば千歳飴。記念写真を見ると、千歳飴と印刷された袋を持ってい
ますね。
「千歳」とは千年のことですから、長寿への願いがこめられているわけです。
袋には、縁起物のシンボル松竹梅や、長寿の代表であるつるやかめ、それに翁
や婆の絵をあしらった、これ以上はない、めでたいデザインが用意され、その
中に、これでもかと紅白のあめの棒が入っています。めでた尽くめの千歳飴は、
江戸の宝永時代のころ、観音様で有名な浅草寺のある浅草で、豊臣家の残党の
一人であった平野陣九郎重政が、甚右衛門と名を改め、あめ屋となって始めた
ものといわれているそうです。千歳飴は長く伸びるので、子どもがぐんぐん大
きくなって、いつまでも長生きできるようにと食べたのでした。
同じ飴で、今でも覚えているのは金太郎飴です。不思議でしたね、どこを切っ
ても、同じ顔の金太郎さんが出てくるのですから。でも、現代っ子は、食べて
いるのでしょうか。
 
 
 
 ★★人の一生の祝い★★
 
お宮参り、七五三、成人式、還暦などは、今でもお祝いされていますから、耳
新しい言葉ではないでしょう。しかし、三日祝、卒寿となると、「……?」と
なるかも知れません。
いずれも、人が生まれてから年をとり、老いて亡くなるまで、その年齢に応じ
た、さまざまな通過儀礼といわれているお祝いがあります。昔は、今のように
医学が進歩していませんでしたから、病魔から命を守るために行った儀式でも
あったのです。本来、祝いの対象となる年齢は、生まれた年を1歳とする数え
年でしたが、今日では、生まれた年は0歳で翌年の誕生日の前日終了で1歳と
する満年齢で行われています。さて、皆さんは、どのくらいご存知でしょうか。
 
[三日祝] 
湯始めを行い、三日衣裳という袖のある産着を着けさせる日で、お母さんは産
後ですし、お父さんは新米のパパですから、ここはおばあちゃんの独壇場です。
                        
[お七夜] 
生後7日目、名前を付ける命名式を行う日で、昔は神棚に名前を飾り、家の神
様に報告したものです。 
 
[お宮参り] 
地方によって異なりますが、男子は生後31日か30日、女子は32日か31
日に産土神(うぶすながみ)にお参りをします。そんな昔のことではありませ
んから、覚えているでしょう。産土とは、その人が生まれた土地のことで、産
土神とは、その人の生まれた土地を守る神さまで、鎮守(ちんじゅ)の神、氏
神ともいいます。この頃のお母さん、輝いていますし、お父さんもファイト満
々です。
 
[お食い初め](おくいぞめ)
生後100日目または120日目に初めてご飯を食べさせる内祝ですが、まだ、
ご飯は無理ですから、実際は食べさせる真似をするだけです。離乳食を経て自
分の手で食事のできるようになるまで、本当に大変な時期でした。
 
[初節句]
生まれて初めての節句、女の子のひな祭り、桃の節句と男の子の端午の節句で
す。初孫であれば、おじいちゃん、おばあちゃんの存在を有り難く思い、感謝
する日です。
 
[七五三]
省略しますが、この間に入園、入学の内祝いがあります。「幼児にはシックス
ポケットあり」といわれていますが、お父さん、お母さん、ご両親の祖父母を
入れると6つのポケットがあり、幼児にとって強力なスポンサーとなるという
意味です。七五三も両祖父母の楽しみな祝になっているようです。
                          
[十三参り]
4月13日に初めての厄年の13歳の子どもが、福徳と知恵と健康を授けてい
ただく  ために虚空菩薩様にお参りする日です。13歳は、精神的にも肉体
的にも、子どもから大人へ成長する途中の不安定な過渡期で、最初の厄年にあ
たるところから、厄除けする意味もあります。中学生がこの時期にあたるわけ
です。
 
[成人式]
今は20歳に祝いますが、本来は、男子は15歳、女子は13歳が一般的でし
た。奈良時代に起きた元服から始まった儀式で、ヨーロッパやアメリカにはな
いそうです。20歳になっても自由と権利だけを主張し、義務を無視している
自己中の子どもに育てるのは、親の責任不履行の結果ではないでしょうか。心
したいものです。
 注 元服とは、奈良時代以降の男子の成人を示す儀礼、頭に冠を付ける意味。
   女子は裳着(もぎ)といって、平安時代以降、女子の成人を示す儀礼、
初めて裳をきせるもの。裳とは、表着(うわぎ)や袿(うちき)の上に、
腰部から下の後方だけをまとった服。       (「ウィキペディア 
フリー百科事典」より)
 
[厄年]
厄年とは、「人の一生の内、何かの災いにあいやすい年齢をいい、医学の発達
した現代においても、何事においても慎まなければならない年」で、男子42
歳、女子33歳が大厄です。本人に災いがなく周りに起こる場合もあり、心意
現象として片付けるわけにいかない、不思議な現象といえます。
                       
[還暦]
60歳、生まれた年の干支に返ることから「還暦」と呼ばれています。昔は、
赤い帽子をかぶり、ちゃんちゃんこを着て祝ったものですが、最近はどうでし
ょうか。「ちゃんちゃんこ」とは、子どもの着る袖のない羽織のことです。
 
[古稀]
70歳のお祝いです。古稀の由来は、「国破山河在 城春草木深…」でおなじ
みの唐代随一の詩人、朴甫の『曲江詩』の中にある「人生七十古来稀」の句で、
この前文に「酒債は尋常行く処に有り」、「酒代のつけは私が行くところ常に
ある。70年生きるのは稀であるから、今のうちに酒をたくさん飲んで楽しん
でおこう」という意味だそうです。私は、これを言い訳にしてお酒を美味しく
頂いています、傘寿を過ぎましたが(笑)。
     (注「稀」は当用漢字にはなく「希」と書く場合が多い)
 
[喜寿]
77歳、「喜」の草書体が、七を三つ書き七十七と読めるところから、喜寿の
祝いとなりました。以降の命名と由来は、文字から起きたものです。
 
[傘寿]
80歳、「傘」の略字が、八と十から成り立っていることから。
 
[米寿]
88歳、6月にも紹介しましたが「米」の字を分解すると「八十八」になるこ
とから、米寿の祝いとなりました。
 
[卒寿]
90歳、「卒」の略字体が「卆」で、九十と読めるから。
 
[白寿]
99歳、「百」から上の一字を取ると白になるからで、百の下は99ですから、
白寿とはしゃれています。
 
[茶寿]
108歳、茶という字を分解すると、十、十、八十八となり、足すと108に
なることと、古来「八」は、末広がりで縁起のよい数であることから、108
歳の祝に。
 
また、年齢に関する異称には、次のものがあります。
弱冠をのぞき、出典は「子曰(しいわく)」で始まる孔子の「論語」です。高校
時代に漢文で習いましたが、それっきりで縁のなかった言葉でした(笑)。
 
 [志学]15歳のこと。論語(為政)吾十有五而志於学 十有五にして学に
     志すから。
  [弱冠]20歳のこと。古代中国で20歳を「弱」といい、元服の冠をかぶる
     ことから。
 [而立](じりつ)30歳のことで、論語(為政)三十而立から。学問が備わ
     って自分の立場ができあがる年。
 [不惑]40歳のことで、論語(為政)四十而不惑から。
     人生の方向が定まって迷わなくなる年。
 [知命]50歳のことで、論語(為政)五十而知天命から。
     天から与えられた使命を知る年。
 [耳順](じじゅん)60歳のことで、論語(為政)六十而耳順から。
     修業を積んで他人の言葉を素直に受け入れられるようになる年。
 
それぞれの通過儀礼は、人生の節目と考えられますし、それなりに意味があり、
昔から伝えられてきた英知であり、哲学ではないでしょうか。お子さんだけで
はなく、ご両親のお祝いは、感謝をこめて行いましょう。そして、「育児」し
ながら、自らを育てる「育自」を心がけ、「わが人生を楽しむ、賢いお父さん、
お母さんになってほしい」と思います。ご両親の生きがいは、お子さんだけに
託するものではありません。なぜ、七五三のお祝いをするのか、もう一度、考
えてみましょう。
 
ところで、日光の東照宮にある「三猿」の彫刻は、猿を通して人間の一生を8
面で表したもので、その2番目には「幼年期の3匹の猿」がありますが、こう
いった教えであるとは知りませんでした。
 
 いわゆる「見ざる、言わざる、聞かざる」の教えは、物心のつく幼年期には、
悪いことを見たり、言ったり、聞くことをしないで、良いものだけを受け入れ、
素直なままに成長させよという教えが暗示されている。
      (「三猿の教え」東照宮ホームページより)
 
「三猿」でクリックすると教訓を読むことができます。「聞くは一時の恥、聞
かぬは一生の恥」ともいいますが、英語では簡単に“Ask much,know much”
(「故事ことわざ辞典」より)だそうで、子どもにしっかりと教えたい教訓の
一つではないでしょうか。
 
ホバリングしている赤トンボ、不思議ですね。コスモスが咲きだし、間もなく
川越名物の芋掘り観光も始まります。「秋近し」、実感しています。
 
(次回は、「11月に読んであげたい本(1)」についてお話ししましょう)

さわやかお受験のススメ<保護者編>第12章  神無月、風流です(3)

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         「めぇでる教育研究所」発行
     2021さわやかお受験のススメ<保護者編>
         ~紀元じぃの子育て春秋~
     「情操教育歳時記 日本の年中行事と昔話」
       豊かな心を培う賢い子どもの育て方
           -第46号
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第12章 日本の神さまでしょう  神無月(3)
       
【十月に読んであげたい本】
 
神無月ですから、この話がいいでしょう。舞台は諏訪湖、といえば一大音響
とともに湖面にできる氷の山脈「御神渡り(おみわたり)の現象が思い浮か
ぶのではないでしょうか。寒さで亀裂の生じた氷の隙間から噴き上げた水が
凍り、裂けた方向を見て吉凶を占う「御神渡り拝観式」は、約600年の歴史
をもつ伝統行事だそうで、昔の人は、本当に驚かれたことだと思います。そ
の諏訪湖に棲む龍神様の話です。
 
 
◆神在(かみあり)祭りと諏訪の竜神◆  谷 真介 著
 
毎年、旧暦の1月にあたる11月には、全国の神様が出雲の国(島根県)に
集まるため、留守になる地方が多く神無月といわれ、反対に全国の神様が集
まる出雲は神在月といいます。神様の集まる場所は出雲大社で、八百万の神
様が集まります。この集いを「神在祭り」といい、出雲の人々は11月19
日から1週間、静かに過ごすことになっていました。ところが、出席しなく
てもいい神様がいます。信濃の国(長野県)の諏訪湖にいる竜神様もその一
人で、こんな訳があったのです。
ある年のこと、竜神様だけが姿を見せません。待ちくたびれた神様達から文
句が出始めると、「夜明けまえからここにいるぞ!」と声がしたので見上げ
ると、天井の梁に身体の太い竜が巻きついていました。「降りてこられよ」
というと、「私の体は長く、尻尾は湖畔の松にかかっていて、この社に入る
まいが下りて行こう」と言ったのですが、下りてこられては神様の居場所が
なくなるし、尾が国にあるならば全体が来るまでに相談は終わるので、「こ
れからは国にいてほしい。決められたことは、こちらから知らせるから」と
いうことになり、竜神様は大喜びして帰ったそうです。神在祭りが始まる夜
には、近くの浜に海蛇が押し寄せてきました。これは神様たちの使者である
竜蛇様といわれ、頭に「あり」という神様の紋がついていたそうです。
 (日づけのあるお話三百六十五日  11月のむかし話 谷 真介 編著 
  金星社 刊)
 
 
出雲大社の神様は、日本にいた神様、大国主命(おおくにぬしのみこと 大
黒様)で、伊勢神宮の神様は、高天原から天孫降臨された天照大神です。大
国主命は、後から来られた天照大神に国を譲り、その代わりに壮大な神社を
出雲に建立してもらったそうです。大黒様が社から出られないように、しめ
縄は逆向きに飾り、柏手は4拍手(普通は2拍手、4回は死を意味する)、
正面ではなく、右の御座所に左向きに祀られて、参拝者とは正面を向いてい
ないことなどから、怨霊として祟られないように封じ込めた説もあります。
 
 平安時代に源為憲の書いた「口遊“くちずさみ”」に、日本の三大建築を
意味する言葉が出ています。“雲太(うんた)、和二(わに)、京三(きょ
うさん)というのですが、(中略)実際はそうだったかは別にして、そう信
じられていたことが重要だと思います。雲太は出雲太郎の略で出雲大社、和
二は大和次郎で大和、すなわち奈良にある東大寺の大仏殿、京三は京三郎で
京都御所の大極殿です。つまり日本で一番大きいのは出雲大社、次が大仏殿、
三番目が京都御所の大極殿というわけです。
 (神道から見たこの国の心 樋口清之 井沢元彦 共著 P109
                           徳間書房 刊)
 
当時の大仏殿の高さは15丈で、出雲大社は現在の社の2倍の16丈(48
m)あったそうで、古代出雲史博物館に復元された模型が展示されています
が、48mの社まで伸びている階段を見た時は魂消(たまげ)ましたね。高所
恐怖症の私には登れません。
 
井沢元彦氏の「卑弥呼伝」(集英社 刊)には、殺人事件を絡めて、卑弥呼
が殺された原因は日食にあったことや、邪馬台国の位置、政治体制から伊勢
神宮と出雲大社の関係がわかりやすく解き明かされています。天照大神が男
神(おがみ)であるとの推理は江戸時代からあるそうで、哲学者、梅原猛氏の
推論を紹介している話には驚かされました。江戸時代は儒教が盛んで、男尊
女卑が浸透していましたから女神では気に入らず、天皇より将軍が威張って
いたので、こういう発想も自由にできたのでしょう。戦前のように、天皇が
神格化された皇国史観の時代にこういうことを言えば、「私は間違いなく死
刑」と梅原氏はおっしゃっていましたが、こういった本を読むたびに、不備
なところがあるとはいえ、民主主義の世の中に生まれてよかったと感謝せざ
るを得ません。
 
古事記には、大和朝廷が誕生するまでの熾烈(しれつ)な勢力争いが語られて
いると先生は分析しています。古事記は、語り部の稗田阿礼の覚えている話
を太安万侶が書きとめたといわれていますが、何人もの編集者がいて、その
陰のチーフは藤原不比等で、古事記と日本書紀を編纂し、日本建国の経緯を
記録したものとの説は説得力があります。さらにその意を深めてくれたのは、
阿刀田高氏でした。
 
 これからの数行は、学問的根拠の薄い私の文字通りの私見なのだが……神
話というものが歴史に入り込むのは、たいてい王国が興隆を極めた時である。
周囲の群雄勢力を平定し、強力な国家が誕生し、権勢ゆるぎない王が君臨す
ると、「俺の血筋はそんじょそこいらの馬の骨とは違うんだ。ずっと昔から
由緒のあるものとして、かくかくしかじかの歴史を持っているんだぞ」と、
その礎(もとい)の確かさを文献として残したくなる。つまり神から与えられ
た王座なんだということを、あと追いの形で記録したくなる。古事記も日本
書紀もそうだ。他にも類似の例はたくさんある。
 (「旧約聖書を知っていますか」 阿刀田 高 著 P241~242
                             新潮社 刊)
 
イザナギ、イザナミの尊(みこと)の国造りの後、出雲族と天孫族が争い、天
孫族が勝って大和朝廷が誕生。律令国家として基礎固めが出来た時、国家の
柱となる天皇家とそれを支える藤原一族の繁栄と権威づけるために書かれた
のが記紀だとなると納得できますね。初代の神武天皇から九代開花天皇まで
は、百歳をこえる年齢から実存しなかったのではと諸説紛々ですが、面白い
のは、日本はイザナギ、イザナミの尊が相和して国を作ったのに対し、旧約
聖書によれば天地創造は、神様が7日間かけてお一人で創られたそうです。
神様には名前など必要ないのでしょうが、モーセがお伺いを立てたところ
「在って、在り続ける者」とお答えになったとか、阿刀田氏の受け売りです
が(笑)。
 
事実云々はともかくとして、私見ですが、古事記の「天地開闢」、旧約聖書
の「天地創造」を経て世界は誕生し、神武天皇から神話の世界は終わり、聖
書では神様がアダムとイブを作り、禁断の実を食べ神の園を追放されてから
人類の歴史が始まり、新約聖書の時代になったと考えるとわかりやすいので
はないでしょうか。それにしても、常に宗教がらみの部族間、国家間の争い
に終始しているのは、どうしたことでしょうか。紀元前13世紀頃、モーセ
に率いられてエジプトを脱出し、イスラエルが建国されたのは1948年で、
何と3000年という想像を絶する歳月が流れたにしては、その後も争いが
続いているのですから、熱しやすく冷めやすいわが民族では、想像できない
ことです。その辺の経緯は、阿刀田氏の「旧約聖書を知っていますか」に書
かれていますが、肩の凝らないしゃれた表現がわかりやすく、興味のある方
には、一読をお勧めします。
 
先に紹介しました「天の岩戸」の後には、「八俣大蛇」「因幡の白兎」「海幸彦
と山幸彦」の話が続きますが、私の年代では、子守唄代わりに聞かされてい
たと記憶しています。およそ1300年前に書かれたものですが、今ある地
名がたくさん出てきますから、何やらタイムトンネルに迷い込んだような気
持ちになりますね。
読んでみると、人間味あふれる神話から、なぜ、戦前に天皇の神格化という
プロパガンダ(組織的な主義、思想の宣伝活動)が生まれ、日本民族がのめ
り込んでいったのか、不思議な気がしてなりません。この経緯を司馬遼太郎
の「竜馬がゆく 風雲編」(文芸春秋刊」や「この国のかたち 第3巻」
(新潮社 刊)に書かれており、力不足で足踏みしていますが、いつか紹介
したいものです。
その「因幡の白兎」ですが、平成23年4月から教科書に採用されています。
戦後の教育では、古事記の神話は事実でないことから全部、否定され、軍国
主義復活の基になると切り捨てられ、日陰の存在として無視されていました
が、これは歓迎すべきことではないでしょうか。
 
ところで、出雲大社では、平成25年5月に60年ぶりに「平成の大遷宮」、
本殿の修造が終わり「本殿遷座祭」が、10月には伊勢神宮の社殿を作り替
える20年に一度の大祭、「式年遷宮」が執り行われました。出雲大社とい
い伊勢神宮といい、神話の世界が現在まで受け継がれ、日常生活の中に自然
と溶け込んでいるのは、世界広しといえども日本だけでしょう。皇紀267
4年の時空を経て実現したのが、平成26年10月に行われた高円宮典子さ
まと出雲大社宮司、千家国麿氏のご成婚。典子さまは天照大神、天孫族の末
裔で、国麿氏は国を譲った大国主命を祀る出雲国造(祭祀を司る職)の末裔、
国粋主義者ではありませんが、悠久の歴史を感じないわけにはいきませんで
した。
 
次は、伊勢神宮の霊験あらたかな話です。
伊勢神宮には、皇室の主神である天照大神が内宮に、外宮には食物を司る神、
豊受(とようけ)大神が祀られています。参拝された方はお気づきかと思いま
すが、神社には必ずあるしめ縄、狛犬、賽銭箱、おみくじなどはありません。
 
しめ縄のない理由は不明。狛犬は江戸時代頃から神社に設置されるようにな
ったもので当時はなかったから。賽銭箱がないのは、神宮の祭儀を主宰する
のは天皇陛下であり、天皇以外のお供えは紙幣禁断といって許されていない
から。おみくじがないのは、お参りすることが吉日で、おみくじは国の重要
な問題を解決するために神さまにお伺いするもので、個人的には吉兆を占う
のは憚(はばか)られるという理由だからだそうです。どうしてもおみくじの
ほしい方は、「おかげ横丁」で買えます。
(伊勢神宮の豆知識 http://matome.naver.jp/odai/2138915798271580401
 より要約)
 
落語にも同じ話があり主人公は犬ですが、この話は猫です。猫というと、妖
怪変化など恐ろしい話が多いのですが、昔話だけに、ほのぼののとした構成
になっている珍しい話です。
 
 
 
◆ねこのよめさま◆   中本 勝則 著
 
むかし、心のやさしい若者がいましたが、貧乏で嫁のきてもありません。あ
る日、庄屋さまが猫を捨てようとしていたので訳を聞くと、ねずみも取らず
に飯ばかり食べる猫だからという。若者は猫を貰い、「たま」と名付け、わ
ずかな食べ物を半分あげかわいがりました。       
ある時、若者が畑から帰るとたまが寝ていたので、「留守の間に、そばでも
引いてくれ」といってみました。次の日、帰ってくると、うすの取っ手にし
っぽを巻きつけ、うすを引いているのです。あんなことをいったので、そば
を引いてくれているのかと、そばだんごを作り、たまにも食べさせました。
それから、うすを引くのは、たまの仕事になったのです。
ある晩のこと、「かわいがってもらいましたが、猫のままでは、恩返しがで
きません。お伊勢さまにお参りすれば、人間に変えていただけるそうですか
ら、お暇をください」といったのでした。若者は、それも一理あると考えて、
銭を首に結びつけて旅に出したのです。しかし、若者は心配でくわを持つ手
にも力が入らず、畑に出る日が少なくなったのでした。                             
それから一年たったある日のこと。若者が畑でぼんやりしていると、若い娘
の声が聞こえたではありませんか。何と伊勢参りに行ったたまが、かわいい
娘になって帰ってきたのでした。若者は大喜び、娘を嫁にして畑仕事に精を
出し、幸せに暮らしたのです。
  十一月のお話 きつねのよめさま 松谷 みよ子/吉沢和夫・監修
                    日本民話の会・編 国土社 刊 
 
 
池波正太郎氏の「鬼平犯科帳」には、浅草の回向院に建てられた猫塚の話が
あります。両替屋に飼われていた猫が、小判を盗み出した現場を押さえられ、
殺されてしまいます。この猫は両替屋にやってくる魚屋さんから、いつも魚
をもらっていました。ところが、魚屋さんが風邪をひいて寝込んでしまい、
一人暮らしで薬どころか三度の食事まで事欠く始末だった時、心配した猫が、
店から小判三両を盗み出し、魚屋さんへ持っていったことが後でわかったの
です。猫の恩返しをした心がわからずに殺されてしまったのを不憫に思い、
建てた猫塚だそうです。動物の恩返し、真剣に聞く子ども達の目は、いつも
輝いています。
 
ところで、この回向院には、義賊といわれた鼠小僧次郎吉の墓があり、墓石
の欠けらを持っていると、「賭け事に勝つ」「運がつく」、受験生などには
「するりと入れるご利益がある」といわれ、墓石を欠きとる人が絶えず、現
在は墓前に真っ白な「欠き取り用の墓石」が置かれています。インターネッ
トで見ることができますが、次郎吉は今でも有名人なんですね。織田信長父
子の供養塔がある京都市の大雲寺には、安土桃山時代の大盗賊、石川五右衛
門の墓があり、墓石を削って呑ませると盗癖が治ると信じられ丸くなってい
るそうで、二人ともお役に立っているようです(笑)。
 
ひな祭りに欠かせないのは桃の花、神さまに捧げる榊(さかき)も訳ありでし
ょう。少し恐ろしいですが、その言われを残した昔話があります。
 
 
      
◆鬼退治◆   おざわ としお 再話
 
むかし、ある村に元気のいい若者がいました。ある時、村に誰も来なくなり、
若者は峠に化け物でも出ていると思い、家に伝わるやすりを持って退治に出
かけたのです。山道の途中、たき火をしている老人に会いましたが、若者の
行く手をじゃまするので腹をたて、けとばしました。すると、「わしには娘
が三人いて、威勢のいい若者を婿にしたいと探していたのだ」と言うので若
者は承知し、老人の家に行ったのです。立派な家でしたが、若者が門を入る
と閉まり、かんぬきの掛かる音がするのです。鬼の家かもしれないと老人に
ついていくと、家の前に二頭の馬がつながれ、裏には人間のしゃれこうべが
積まれています。老人は、若者を座敷に招き、三人の娘がもてなしてくれま
した。夜になると、誰を嫁にするかと言うので末の娘を指名すると、「奥へ
行って休みなさい」と娘には赤い星の、若者には白い星の模様の布団を用意
したのです。若者は何かあると思い、娘が寝こむと自分の布団を娘にかけ、
娘の布団を自分にかけ眠ったふりをしました。真夜中に鬼となった老人は、
槍を持って現れ、白い星の模様の布団を刺すと、「料理は明日の朝だ」と戻
っていったのです。若者は逃げようとしましたが、戸にはかんぬきがかかり
出られません。そこで、やすりでこするとかんぬきは切れ、若者はつないで
あった馬に乗り逃げたのです。気づいた鬼は馬に乗り追いかけていきました。
倒れていた大木を若者の馬は跳び越えましたが、鬼の馬は大木に足をひっか
け、鬼もろとも下の滝に落ちたのです。倒れていた大木をみると榊でした。
無事に家へ帰った若者は、それから神さまを拝む時には、榊を使うようにな
ったのです。うりや、うんぷんだりょん。
   日本の昔話 5 ねずみのもちつき おざわ としお 再話
                 赤羽 末吉 画  福音館書店 刊 
 
 
最後に出てくる「うりや、うんぷんだりょん」は、「これで話は終わり、め
でたし、めでたし」という意味で、いろいろなのがあり、「とっぴんぱらり
のぷぅ」といった奇妙なものがあったと記憶していますが、地方によって違
うようです。
 
次の話は笑えますね。一休さんをはじめ、和尚さんと小僧さんの話には傑作
がそろっています。いわゆる「とんち話」ですが、これも素晴らしい。「山
川草木悉皆(しっかい・ことごとく)神性」などと冗談ですが、「至る所に
神さまあり」ならではの話です。
 
 
 
◆かみがない◆   鶴見 正夫 著
 
むかし、あるお寺の小僧さんが、和尚さんのお供で出かけました。途中まで
行くと、小僧さんは小便をしたくなり、道端によって着物の前を広げました。
和尚さんは、「そこには道の神さまがおられるので駄目だ」といいます。小
僧さんはこらえました。少し行くと畠があったので飛び込み小便をしようと
すると、和尚さんは、「そこには、作物の神さまがおられるから駄目だ」と
いいます。少し行くと川があったので、川へむかってかけ出しました。する
と、「川には、水の神さまがおられるから駄目だ」といいます。どうにも我
慢できなくなった小僧さんは、下っ腹を抱えて土手に登りました。そこには
地蔵さまがありましたが、構ってはいられません。地蔵さまの前で小便をし
ようとすると、土手の下から和尚さんは、「駄目だ!」と怒鳴りましたが、
小僧さんはもう我慢ができません。すると、何を思ったのか道の方へ向きか
え、着物の前をひろげてシャーと小便を飛ばしました。小便は、土手の下の
和尚さんの、つんつるてんの頭にかかりました。「何をするんだ」と和尚さ
んは、びしょ濡れの頭で怒鳴りました。すると小僧さんは、すました顔でこ
ういったのです。「和尚さんの頭は、つんつるてん。そこには、髪がないか
らよろしいでしょう」
 とんちでころり 鶴見 正夫・文 ヒサ クニヒコ・絵 ポプラ社 刊 
                    
 
人間の周りは、神さまだらけを実証した話ですが、落ちの語呂合わせには、
神さまも吹き出すことでしょう。     
 
睦月、如月、弥生と懐かしい陰暦の月の名称が出てきましたが、昔はどんな
ことをしていたかわかる話があります。「鬼の目玉」(2月)にもありまし
たが、全部の部屋を説明しませんでしたから、ここで全てを紹介しましょう。
 
 
 
◆見るなの座敷◆   浜田 廣介 著
 
むかし、ある村の若者が、庭の梅の木の小枝に足をはさまれていたウグイス
を助けたことがありました。秋に若者はキノコを取りに行って迷子となり、
ある家の所へ出たので声をかけると、娘が出てきたのです。道を尋ねると方
向違いだとわかり、途方に暮れていると、「今晩、ここに泊り、明日、いら
っしゃれば」と。喜んだ若者を庭の縁側に招き、「母を呼んでくるので待っ
ていてほしい。しかし、座敷の中を見ないでください」と言って出かけたの
です。時間が経ち手持ちぶさたになった若者は、透き間から座敷の中をのぞ
いてみました。そこは一月の座敷で、床の間に松竹梅の鉢植えと鏡もちが供
えられ、子どもが晴れ着をきてすご六遊びをしているのです。不思議に思っ
た若者は、次の座敷をのぞきました。そこは二月の座敷で、稲荷様の初午祭
りの様子でした。隣は三月の座敷でひな祭り、次は四月の座敷で花祭り、次
は五月の座敷で端午の節句、次は六月の座敷で山開きの日の様子が、次は七
月の座敷で七夕祭り、次は八月の座敷でお月見の様子が、次は九月の座敷で
豆が実りアワも穂を下げて揺れています。次は十月の座敷、刈り入れ時でお
百姓さんの働いている様子が見えるのです。次は十一月の座敷で、枯れ木が
目立ち山には雪がかかり寂しい眺めです。最後は十二月の座敷で、人々は正
月を迎える支度をしています。一年続きの座敷を見た若者は、元へ戻ろうと
したとき娘が現れたのです。「私は、助けていただいたウグイスです。お礼
をしようと思っていましたのに、どうして、のぞきなさったの、見るなの座
敷を。ホー、ホケキョ!」と鳴くと、娘も家も庭もなくなり、若者一人が、
ぼんやりと林のやぶの中に立っていたのでした。     
   世界民話の旅 9  日本の民話 浜田廣介著 さ・え・ら書房 刊 
 
 
日常生活を快適に過ごすために、やってはいけないことを定め、破ると破局
を招く話は、「古事記」に豊玉姫の出産をのぞいたことから離別する神話が
あるほどで、「他言してもらっては困るのだが」といった約束と同様、守ら
れないようです。「千夜一夜物語」にも同じような話「アジプと40人の美
女」があり、部屋は40で「のぞいてはいけません」の約束を破りとんでも
ない結果になるのですが、好色な話なので割愛します。アラブの世界では4
0という数は「たくさんある」という意味で使われるそうです。中国では
「白髪三千丈」、日本では「八百万」となりますが、ちっちゃな島国にして
は何とも大げさな表現で、笑ってしまいますね。しかし「日出ずる処の天子、
日没する処の天子に致す、恙(つつが)なきや」、隋の煬帝に送った聖徳太
子の国書ですが、「その意気やよし」で、私は好きですね。「中華思想に負
けてなるものか」ですよ。
 
「世界民話の旅 9」には「見るなの座敷」の他に28の作品があり、「泣
いた赤オニ」の作者、浜田廣介の手になる再話集です。神話や民話は、私達
祖先の精神的な文化遺産です。幼い子どもの情操を培う大切なエッセンスが、
こういった昔話ではないでしょうか。子どもは親が解説しなくても、分化さ
れはじめたさまざまな情緒を育みながら、自分なりに解釈し、自分のものに
していきます。そこから幼いなりに自我が芽生え、自立心が育まれます。わ
が子を溺愛する過保護な育児や、四六時中目を光らせ管理する過干渉な環境
からは、情操豊かな子など育ちません。自立心や積極的に取り組む意欲を育
てることです。そのためにも、お子さんをじっくり育てるゆとりを持ちまし
ょう。二人の子どもを育てた実感ですが、子どもへの保護、干渉は、ほどほ
どに済ませるべきで、干渉していいのは、しつけです。「他人に迷惑をかけ
ない」は共生の掟で、教えるのはご両親です。
 
携帯電話やスマートホンの使い方を見るにつけ、しつけが出来ていないと痛
感しますね。なぜ、混んでいる道路などで、歩きながら見なければならない
のかな。そんなに急いで処理しなければならないほど切迫した事情があると
は思えないが、他人に不快感を与えているのかわからないのかな。死者の出
た事故が起きたにもかかわらず、スマホを見ながら自転車に乗っている若者、
あれは病気ではないかな。世の中、そんなに安全なところなどあるわけがな
く、周りの者が気を遣っていることに気づかないのかな。全くの自己中で、
格好悪い。何でも自分を中心にしか考えず、「思いやる気持ち」が薄れてい
くそのもとは、幼児期の育児に問題があるのではないだろうか。「褒める時
にはやさしく褒め、叱るべき時には厳しく叱る」、これは親の真心であり、
子どもにとっては、最高の有難い手本であると考えますが、若い皆さん方は、
どうお考えでしょうか。  
 
近くの小さな不老川の川辺には、彼岸花(曼珠沙華)が咲きはじめました。花
言葉からも悪役的な存在で、ひっそりと咲く孤独な花と思っていましたが、
埼玉県日高市の「ひだか巾着田(きんちゃくだ)」、約500万本、一面真
っ赤で圧倒されました。
 
 (次回は、「第13章 七五三でしょうな」についてお話しましょう)

さわやかお受験のススメ<保護者編>第12章  神無月、風流です(2)

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         「めぇでる教育研究所」発行
     2021さわやかお受験のススメ<保護者編>
         ~紀元じぃの子育て春秋~
     「情操教育歳時記 日本の年中行事と昔話」
       豊かな心を培う賢い子どもの育て方
           -第45号
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第12章  神無月、風流です(2) 
 
 
それにしても、わからないことがありました、子ども心にも。
私の家の中には、仏壇と神棚がありました。仏壇には先祖のお位牌が、神棚に
は天照大神のお札が鎮座ましまして、庭には氏神さまを祭った小さな祠があり、
父が、毎朝、この三つに、お水をあげてお参りするのです。それが終わらない
と食事は始まりません。仏さまと神さまが同居しているのです、不思議でした。
まだ、本地垂迹説など知りませんでしたから。
 
でも、不思議でも何でもないのでしょうね。
生まれた時には、神社へお参りして神さまに報告し、結婚式では、キリストに
永遠に愛し
合うことを誓い、死して後は、阿弥陀さまのもとでやすらぎを願うことに、何
ら不都合を感じないのが、日本人の信仰心ですから。
キリスト教やイスラム教のように、唯一つの神を信仰する一神教は、やたらに
もめたりしていますが、いろいろな教えや信条などの、よいところを少しずつ
いただきながら、自前の信仰心を作り出し、お互いに仲良くやっていきましょ
うというのですから、合理的なのかもしれませんね。
世界の四大聖人の教え、キリスト教の愛、イスラム教の施し、仏教の慈悲、儒
教の仁(相手を思いやる心)を理解しているのも、もしかすると、日本人だけ
ではないでしょうか。
資源の乏しいわが民族が、経済大国に発展したのと同じで、独特の知恵だと思
います。日本は文化の吹き溜まりといわれていますが、選択の自由はあるわけ
で、ただ、ひたすら迎合しているわけではありません。
 
しかし、これだけはいえると思います。
木がうっそうと茂る伊勢神宮の参道を、玉砂利を踏みしめながら歩くときや、
出雲大社の古色蒼然とした社を参拝するときの、何とも表現のしようのない気
持ち、荘厳とか厳粛などの言葉では表せない心情、これは、一体、何なのでし
ょうか。その気持ちを見事に表現したものがあります。「樅の木は残った」
「長い坂」「さぶ」「柳橋物語」(何回読んでも同じところで涙が出る困った作
品)などの作者、山本周五郎の作品にあるのですが、これを見つけたときは、
さすがと感激しました。
 
 「長者の万燈より貧者の一燈という、これは寄進の要求だろう、四万六千日
 とか彼岸とかの類は参詣の約束だ、……我われの神社にはこういう要求や約
 束はない、西行の作だと伝えられる歌に、なにごとのおはしますかは知らね
 どもかたじけなさに涙こぼるるとある、なんの約束もなくして無念無想に低
 頭できる神社の存在、……宗教としてこれほど純粋なものが他にあるかね」 
 [山本周五郎小説全集 37「新潮記」(193頁)山本周五郎 著 新潮社 刊]
 
またしても西行ですが、宗教として云々は、ともかくとして、「なにごとの 
おはしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」、これではない
でしょうか。私の勝手な思い込みかも知れませんが……。また、松尾芭蕉は、
伊勢神宮に参拝した折り、「何の木の花とはしらず匂哉(にほひかな)」と詠ん
でいますが、和歌と俳句の違いというのでしょうか、和歌は心情を詠いあげて
いますが、俳句はぐっと抑え込み読む者に任せる、といった感じがしますね。
素人のたわごとですが、以前に紹介しました五木寛之氏の「短歌はリズム、和
歌はメロディー」を思い出します。
「知らねども」「とはしらず」、いい言葉ですね。これが日本の神さまの姿で
はないでしょうか。
 
余談になりますが、私は山周こと、山本周五郎、大好き人間です。何かの随筆
で、「周五郎の嫌いな作家は川端康成」を読んだのですが、出典名を思い出せ
ず紹介を控えていました。不思議なもので、置き場所のなくなった本を整理し
ようと読み返していたところ、見つかったのです。周五郎が家を借りに行った
ところ、大家から「作家には貸せない」と断られ、その理由を聞くと、「半年
の家賃を踏み倒し、引越料をふんだくられたからだ」という。「誰ですか、そ
の作家は?」と尋ねたところ、「川端康成」だったそうで。「これは許せない
!」と激怒。信じがたい話で、そういう時もあったといえばそれまでですが、
「家を建てた大家の苦労を考えれば許せない!」と怒る周五郎の頑(かたく)
なな潔癖さがたまらなく好きなのです。
 (混沌の時代を生き抜く帝王学ノート P171~173より要約 伊藤肇 著 
  PHP文庫刊)
 
話を戻しまして、松江の中学の英語の教師であったラフカディオ・ハーン、小
泉八雲は、西洋人として初めて出雲大社の昇殿参拝を許されたのですが、その
感動をこう述べています。
 
 仏教には百巻に及ぶ教理と、深遠な哲学と、海のような広大な文学がある。
神道には哲学はない。体系的な倫理も、抽象的な教理もない。しかし、まさし
く「ない」ことによって、西洋の宗教思想の侵略に対抗できた、東洋のいかな
る信仰もなし得なかったことである。
 (神々の国の首都 小泉八雲 著 平川 裕弘 編 講談社学術文庫 刊)
 
寺院に仏像はありますが、神社にはありません。ご神体は、なぜか、1枚の鏡
です。にもかかわらず、神社には、「かたじけなさ」に頭を下げざるを得ない
ものが、確かにあります。「己の姿を映し、襟を正す」、これが日本人の信仰の
源ではないでしょうか。
 
「無念無想に低頭できる」とありますが、正式な作法は、「二拝二拍手一拝」
で、二度おじぎをし、ポンポンと二度手を打ち、最後にもう一度おじぎをしま
す。出雲大社では4度打ち、伊勢神宮では、何と八開手(やひらで)といって
八度打ちますが、参拝した時に伺ったところ、これは神職の方がなさることで、
一般の方は「二拝二拍手一拝」でいいそうです。これは、神さまとご対面させ
ていただくための儀式でしょうが、柏手を打つのは、日本だけだといわれてい
ます。
 
また、神社の参道には玉砂利が敷かれていますが、昔は、川で体を清めてから
参拝した名残で、玉砂利は川を表しているそうです。その参道も、真ん中を
「正中(せいちゅう)」といい神さまの通り道で、人間は左右の端を歩くのが
正しいとされているそうです。明治神宮へ参拝した折り、「真中は明治天皇さ
まがお歩きになるので、わしらは端を歩くんだ」といって、端っこに寄せられ
た記憶があります。「天皇さまは神さま?」と聞きたいところでしたが、なに
しろ親父にとって昭和天皇(昭和30年代でしたから正しくは今上天皇)は、
現人神(あらひとがみ)でしたから、おっかなくて黙って歩いていました(笑)。
 
まったくの蛇足ですが、「私は無信仰です」などと平気で言う方がいますが、
これは外人と話すときには注意が必要です。無信仰とは、「私は平気で人を殺
せます」というのと同じだそうです。
 
 
★★酉の市★★
 
「酉の市、11月ではありませんか?」と言われそうですが、何でもありの歳
時記です。
酉の市は、何と日本誕生と深い関係があるのです。日本誕生となると、どうし
ても神話の世界に入っていかなければなりません。戦後、神話のすべては作り
事と否定され、神代に関する「おとぎ話」さえ、子ども達の周りから消えてし
まいました。ここで紹介する神話は、古事記(講談社学術文庫 刊)から要約し
たもので、神話の真偽はともかくとして、「おとぎ話」としてお読みください。
勿論、私たちの年代、1940年生まれの者には、懐かしい話ばかりです。僭
越な話ですが、神さま方のお名前は読みやすくするためにカタカナで表記しま
した。
 
◆イザナギノミコトとイザナミノミコト◆
イザナギノミコトとイザナミノミコトは、神さまから授かった天沼矛(アマノ
ヌボコ)を、雲の上の天の浮き橋からさし降ろし、海の水をかきまぜ引き上げ
ました。すると、矛先から落ちた海水が固まってオノゴロジマができ、島に下
りた二人が結婚し、大小八つの島、大八洲国(おおやしまのくに)を生み、日
本列島が出来たのです。そして、岩や土、砂、風、海、川、水、山、船、穀物
の神さまを生みますが、最後に火の神さまを生んだのが原因で、イザナミノミ
コトは亡くなります。
 
古事記は、大学生になって初めて読んだのですが、『成り余る処と成り合はざ
る処云々』には、笑ってしまいましたね。親父の書架にもありましたが、一番
上で、しかも鍵がかかっていた理由がわかり、これまた、笑ってしまいました
(笑)。
 
◆黄泉(よみ)の国の話◆
イザナギは黄泉の国を訪ね、国造りは終わっていないので現生に戻ってくれと
イザナミに頼みます。ところが、イザナミの体にうじがわき、8匹の鬼が生ま
れるのを見て逃げ出したのです。姿を見られたイザナミは、恥をかかせたと怒
り、黄泉の国の醜女(しこめ)に後を追わせます。最後に、イザナミ自身が追
いかけてきて、黄泉の国とこの世を結ぶ岩をはさみ、夫婦別離の宣言をします。
イザナミは「いとしいわが君が、こんなことをするなら、あなたの国の人々を
一日千人絞め殺しましょう」といい、「あなたがそうするなら、私は一日に千
五百の産屋を建てよう」とイザナギはいい、この時から地上では一日千人の人
が死に、千五百人が生まれることになったのでした。
 
醜女をやっつけるために桃を3個投げたと書かれていますが、桃太郎で紹介し
たように、桃は神話の世界でも、何やら神秘的な果物なんですね。また、ギリ
シャ神話にもそっくりな話があります。黄泉の国から脱失する際に、「振り向
かないで!」という約束を破り、振り向いたためにご破算になる結末も同じで
す。
 
◆アマテラスオオミカミ◆
黄泉の国から逃げてきたイザナミは、身を清めるために体を洗い、いろいろな
神さまを生んだのちに、左目を洗うと高天原(たかまがはら)を治めるアマテ
ラスオオミカミが、右目を洗うと夜の国を治めるツクヨミノミコト、鼻を洗う
と海原を治めるスサノウノミコトが生まれたのです。アマテラスオオミカミ、
ツクヨミノミコト、スサノウノミコトは、禊(みそぎ)から誕生しました。
 
◆天の岩戸の伝説◆
スサノウは、海原を治める仕事をせず、母のイザナミのいる黄泉の国へ行きた
いと、泣きわめいては乱暴を働くので、イザナミはひどく怒り追放します。ア
マテラスオオミカミに話してから、根の国へ行くことになったのですが、スサ
ノウはここでも乱暴なふるまいをし、皮をはいだ馬の死骸を機織り小屋へ投げ
込み、機織り娘にけがをさせ死んでしまいます。怒ったアマテラスは、天の岩
屋に閉じこもり、この世は真っ暗闇になり、悪い神さまが悪事を働き、病気も
広がりました。相談をした八百万の神さまは、岩戸の前でお祭り騒ぎを始めた
のです。「私が姿を隠し世の中が暗くなっているのに、何を楽しそうに騒いで
いるのだろう」と岩戸を少し開けた時、力持ちの神さまタジカラオが、岩戸を
ひきはがし、再び世界は明るくなったのでした。投げ飛ばされた岩は、信濃の
戸隠山となったということです。
 
全くの余談ですが、東宝が1959年に、古事記を題材にし、主演三船敏郎で
制作した「日本誕生」で、アマテラスを演じたのは、伝説的な女優、原節子で
したが、2015年9月6日、冥界入りしました、享年95歳。
ちなみにYouTubeの予告編で、その美貌を見ることができます。岩戸の前で踊っ
た神さまは音羽信子でしたが、若い皆さん方は、知らないかもしれませんね。
 
この天の岩戸の前で舞われた時、弦という楽器を演奏した神さまがおられ、岩
戸が開いた時に、その弦の先に鷲(おおとり)が止まったのです。
 
神さま達は、世の中を明るくする瑞兆、よいしるしを現した鳥だとお喜びにな
り、以来、この神さまは、鷲の一字を入れ、鷲大明神、天日鷲命(アマノヒワ
シノミコト)と称されるようになったのです。このアマノヒワシノミコトが、
諸国の土地を開き、開運、殖産、商売繁盛に御神徳の高い神さまとして、当地、
浅草にお祀りされたのでした。
後に、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が、東夷征伐の際に社に立ち寄られ
戦勝を祈願し、志を遂げての帰途、社前の松に武具の「熊手」をかけ勝ち戦を
祝い、お礼参りをされました。その日が11月酉の日であったので、この日を
鷲神社例祭日と定めたのが酉の祭り、「酉の市」です。この故事により日本武
尊が併せて祀られ、ご神祭の一柱となりました。(「鷲神社 後由緒」より)
 
また、こういう説もあります。
 
鷲神社は、もともとは、大阪府堺市の大鳥神社が本社で、大鳥の起源は、日本
武尊の魂が白鳥になって、陵(みささぎ 貴人の墓)から飛び立ったという伝
説によるものと言われています。[子どもに伝えたい年中行事・記念日 P98 
萌文書林 編集部編 刊]
 
酉の市は、「お酉さま」の名前で親しまれており、境内では福をかき集める縁
起物の熊手が、威勢のいい掛け声と共に売られ、冬の到来を告げる風物詩とも
なっています。何事も訳ありですが、酉の市の由緒が、神代の時代までさかの
ぼるとは驚きです。日本武尊の武具であった熊手が、開運、商売繁盛のお守り
になったとは知りませんでした。
 
熊手は、時代と共に形も飾り物も変わり、江戸中期より天保初年頃までは、柄
の長い実用品の熊手に、おかめの面と四手(しめ縄についている細く切った紙)
をつけたものだそうです。その後に、いろいろな縁起物をつけ、今のようなお
かめや宝船、千両箱、大判小判などの紙を張り付け種類も多くなり、その年の
流行を入れた熊手も話題を集めています。
江戸時代の頃は、商人や庶民の信仰の対象となっただけではなく、お武家さん
にも空高く舞い上がる鷲を出世のシンボルとしてあがめられ、大いに賑わった
そうです。
 
ところで、三の酉まである年は、俗に「火事が多い」と言われていますが、そ
れはどうやら鶏の赤い鶏冠(とさか)から連想されたものと聞いた記憶がある
のですが、定かではありません。
 
 
 
★ハロウィーン★
 
最後に、外国のお祭りを紹介しましょう、10月31日に行われるハロウィー
ンです。
キリスト教の祝日である「万聖節(ばんせいせつ)」の前夜祭で、秋の収穫を
祝い、悪霊を追い出す祭り。
当夜には、日本のお盆と同じで親族の霊が各家に帰ってきますが、一緒に悪霊
もやってきて悪さをするために、町中でたき火をして追い払ったのでした。紀
元前からケルト人が行う宗教行事が、ハロウィーンの始まりといわれているそ
うです。
アメリカでは、悪霊を追い払うためにカボチャをくり抜いた提灯(ちょうちん)、
ジャコランタンを飾り、魔女やお化けなどに仮装した子ども達が、「お菓子を
くれないと悪戯をするぞ!」と近所の家を回る楽しいお祭りになっていますが、
日本ではどうでしょうか。仮装行列などは、若者や大人が楽しんでいるようで
すね、我が家ではやった記憶がありません(笑)。
※ジャコランタンの由来
 「昔アイルランドに、ジャックという名のケチなずるい男がいた。あまりに
 も狡猾であったため、ジャックは死んでも天国に入れてもらえず、仕方なく
 地獄へ向かったが、悪魔に追われて追い返されてしまった。ジャックは悪魔
 がくれた炭火を、くりぬいたカブに入れ、夜道を照らして歩いた。今でもジ
 ャックはそのランタンをもって、あの世とこの世の間をさまよい歩いている」
 という言い伝えが、ジャコランタンの始まりだそうです。今ではカブの代わ
 りにカボチャを使うようになり、ジャコランタンはハロウィーンのシンボル
 になりました。(『和のこころ』 日本の年中行事 :So-net ブログより) 
 
当初はカブだったんですね。
トルストイの作品に出てくるような「大きなカブ」でなければ、提灯は無理で
すね(笑)。
 
今年も横着な台風が、沖縄、九州方面に大被害をもたらしました。「日本の神
さま、しっかり守ってください!」と言いたくなりましたが、猛暑の中での停
電、クーラーも扇風機もない生活……、速やかな復旧を祈ってやみません。
私が教室へ出かける時、総武線の浅草橋駅、市川駅間に荒川と江戸川が流れる、
いわゆる海抜ゼロメートル地帯を通りますが、頑丈な護岸が目に入り、更に護
岸を高める工事が行われています。万が一の災害に備える防災対策は、決して
手を抜けないもので、「スーパー堤防は必要ですか」とおっしゃった政治家が
いたと記憶していますが,絶対に必要だと改めて思いましたね。備えあれば憂
いなしです。
 
   (次回は、10月に読んであげたい本についてお話ししましょう)

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