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めぇでるコラム : 2019保護者 2ページ目

さわやかお受験のススメ<保護者編>第10章 終戦記念日、このことです 葉月(4)

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         「めぇでる教育研究所」発行
     2019さわやかお受験のススメ<保護者編>
         ~紀元じぃの子育て春秋~
     「情操教育歳時記 日本の年中行事と昔話」
       豊かな心を培う賢い子どもの育て方
           -第39号-
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第10章  終戦記念日、このことです   葉 月(4)
 
間もなく終戦記念日。小さな子ども達には難しい話ですから、今回は、戦争に
ついて、ご両親はどう考えているか話し合ってみましょう。
 
私見ですが、憲法学者が「自衛隊そのものが憲法違反」だといい、「憲法9条改
定についてはその必要なし」という。「自衛隊は憲法違反だが、9条は改定しな
くてよい」となれば、一体どうやって国を守ればいいのでしょうか。「攻撃する
能力があっても仕掛けないのが最大の防御」、これが世界大戦にならない抑止力
となっていると考えますが、皆さんは、いかがでしょうか。中国と北朝鮮の軍
事力に脅威を覚えない人はいないと思います。仲裁裁判所の判決を「紙くず同
然」と切り捨てる中国の傲慢な態度を見ると、「備えあれば憂いなし」、我が子
や孫のためにも、どういった政策がいいのか、私たち親は、真剣に考えるべき
ではないでしょうか。観念論だけでは、日本を守ることなど不可能です。もっ
とも、日本など中国の属国になればというのなら話は別ですが……。チベット、
新疆ウイグル問題を知らないはずはないのに、自由の有り難さを噛みしめる必
要はないのでしょうか。百田茂樹氏の「カエルの楽園」、寓話的な「警世の書」
であればいいのですが。「憲法9条さえ守っていれば日本は平和である。たとえ
滅んでも平和である」、滅んだ民族に平和があっても、何の価値もないだろうに。
最後は、ぞっとしましたね。
森友・加計問題にこだわった国会議員の先生方、トランプ大統領ではありませ
んが、「他にやることがないのか!」と言いたい。
 
【八月に読んであげたい本】
昭和20年3月10日、東京大空襲。たった一晩で、10万人もの尊い命が失
われました。もし、親父の転勤がなければ、この日で私の人生は終わっていた
かも知れません。東京の下町、日暮里に住んでいたからです。戦後、訪ねた親
父の話では、一面焼け野原で、知人は誰もいなかったそうです。
「東京大空襲ものがたり」、年長さんでも理解できるのではないでしょうか。当
時の世相や風習もわかりやすく解説されています。作者は早乙女勝元氏で、既
刊の「東京大空襲」は読みましたが、こういった映画があり、子どもたちにも読
める本があるとは知りませんでした。(怠慢!)ダイジェストにするのはおこが
ましいと思い、本文を少し紹介することにしました。
 
 今井正監督の「戦争と平和」。
主演は20歳になったばかりの愛らしい工藤夕貴。空襲のシーンは、思わず
息をのむ凄さです。主人公の電柱を巡って、次々に起こる悲しいできごと。
私は作者であることを忘れて涙が止まりませんでした。なお、映画の原作分
「戦争と平和」は講談社から刊行されましたが、私はこの電柱のことを子ど
も達に伝えようと、同じ題材で書いたのが、この「東京大空襲ものがたり」
となったのです。
 
 「電柱だけが知っている炎の夜のこと。
 ゆかりと進一の家の近くに、真っ黒こげの電柱があります。
 これは、咲子おばさんにとっては、たった一つだけの、大事な目印なのです。
東京大空襲の炎の夜に、おばさんは、赤ちゃんの螢子ちゃんと、ここではぐ
れてしまったのです。
 二人は父さんから、その話を聞かされ……」
 
これが物語の始まりで、真っ黒こげの電柱の叫び声で終わります。
 
亡くなった人は、何も語ることができませんが、どれだけたくさんの、つ
らく悲しいできごとがあったことでしょうか。焼け残りの電柱は、今も東
京下町の、あの町角に立っています。北風の吹く寒い日も、夏のカンカン
照りの日も、電柱は亡くなった人たちに変わって、「炎の夜」のできごとを、
私に、そしてみんなに語り続けているように思われます。
でも、その声は聞こえません。ですから、ゆかりと進一は、電柱にかわっ
て、こう呼びかけるのです。
  誰もが、平和を守るための努力を、
  そのための、小さな勇気を、
  わすれてはいけない、と。
     花房ゆかり 眞一
(東京大空襲ものがたり  早乙女勝元 著 有原誠治 絵  金の星社 刊)
 
絵は、アニメの好きな方にはすぐわかる有原誠治氏。辛い体験をされた多くの
方々は、すでに冥界へ旅立たれたのではないでしょうか。こういった現実があ
ったことを、しっかりと子どもに伝えることも、親の仕事ではないかと思いま
す。久しぶりに図書館に出かけ読んだのですが、「楽をするなよ!」と叱りつけ
られた気がしました。長女が小学生の頃、涙ながらに読んでいた「ガラスのう
さぎ」にも出会いました。(反省)
 
長崎のピカ
昭和20年の8月6日に、広島に原子爆弾が落とされたの。
一発で広島中が燃え、何10万の人が死んだの。
3日後の8月9日、今度は長崎に落ちて、私の家族8人は一人ずつ順々に死
んでいったの。
最初に死んだのは、おばあちゃん。外出中に被爆し、真っ黒になり、はらわ
たを出して死んだの。次の日に、父さんと母さん、兄ちゃんと死んでいった
けれど、上の妹、ゆみ子は、ずうっと見ていたの。次の日の明け方、きれい
な船に、父さんと母さんと、おばあちゃんと兄ちゃんが笑って、おいで、お
いでしていると、かぼそい声で言うの。「船に乗ったらだめ!」と叫んだけれ
ど、「みんなで迎えに来たよ」と言って亡くなったの。顔はボールのようには
れあがり、歯ぐきはまっ黒にただれ、紫色の斑点が身体中に出て、口も動か
ないの。でも、そう言って死んだの。気がついたら、弟も死んでいたの。下
の末っ子の妹、すず子は、防空壕で体を寄せ合っていたら、冷たくなってい
くので、マッチをつけてみたら、もう死んでいたの。その身体を、一晩中だ
いて寝ていたの。冷たくて、皮がべろべろとはげるの。
次の日、お隣のおじさんがきて、一人ずつ焼いたの。
私は、12歳でした。
    夏休みのはなし
「海ぼうず」 松谷みよ子/吉沢 和夫 監修 日本民話の会・編  国土社 刊
 
12歳の無残な夏、平和な時代に生かされていることに、ただ感謝するだけで
す。
私は広島に原子爆弾が落とされた時、岡山の県境にある忠臣蔵で名高い播州赤
穂、兵庫県赤穂町に住んでいました。真っ青に晴れ渡った暑い朝でした。突然、
空が濃霧のようなものに覆われ、真夏の太陽が肉眼で見えるほどになったので
す。これが、あの悪名高きキノコ雲が流れてきたのだとは知りませんでした。
「新型爆弾が落とされたらしい!」と、大人達が声をひそめて、ささやきあっ
ていたことを覚えています。
5歳の夏でした。 
 
8月6日は広島原爆忌。
慰霊碑に「過ちは繰り返しませぬから」と刻みながら、原発を受け入れ、想定
外の事故とはいえ、過ちを繰り返してしまいました。しかし、もう草木も生え
ないだろうといわれた廃墟の中から、広島も、長崎も、復興しました。快適な
文化生活を望み、その結果として原発は作られたことも、自分達の住む町にな
いことに胸をなでおろし、後ろめたい気持ちで、私達は承知していたのではな
いでしょうか。ですから、日本列島に50基もの原発が設置されたわけです。
東電や福島県民や設置された地域の皆さん方だけが苦労するだけではなく、国
民全員が、不便な生活へ戻ることを覚悟し、真摯な気持ちで「電力について」
考えるべきではないでしょうか。「原発反対」だけでは代替エネルギーは手に入
りません。この猛暑、クーラーなしの生活、考えただけでもぞっとしませんか。
「のど元過ぎれば熱さを忘れる」、情けない話ですが、人間、本当に弱いですね。
性根を据えて考えるべきだと思いますが、皆さんはいかがでしょうか。
 
ところで、東京大学法学部出身の現役エリート官僚が書いた「原発ホワイトア
ウト」(若杉 冽 著 講談社 刊)を読み、モンスターシステムを知り、よく
ぞ発表できたものと脱帽しました。
私が学生の頃、週刊誌創設ブームで、トップ屋、事件記者として活躍し、その
後「黒の試走車」「赤いダイア」「汚職ざんまい」など、産業スパイや政財界を
舞台に、城山三郎と共に一世を風靡した作家、梶山季之が、企業の暗部や闇社
会を暴露しましたが、ある週刊誌のインタビューで、「こういったことを書いて
ぃると命を狙われるのでは」と問われ、「事実を書いている内は殺されません」
と答えていたことを思い出しました。
「大統領の殺し屋」(光文社文庫 刊)を再読しましたが、イケルヴィッチ、シ
ロカネスキーと池田隼人や黒金泰美がモデルとわかる人物が出てくる、自民党
総裁選挙に絡む汚職の実態を暴いたもので、最後の2行に「この作品は、すべ
て架空の物語です。しかし、もし事実の部分があるとしたら、筆者が何らかの
形で報復されるでしょう」と挑戦状を叩きつけた好漢。45歳の若さで香港に
て客死。報復されたのではとの疑念が消えないまま、旺盛なサービス精神が災
いし、寿命を縮めた逸材でした。
その後、森村誠一、清水一行、広瀬二紀、三好徹、高杉良など社会派が活躍し、
氏の精神は受け継がれていることがわかります。大好きな作家の1人で、本棚
にはかなりくたびれた文庫本が22冊、大きな顔をして残っています。困った
ことに、同じ棚には友人であった山口瞳の「けっぱり先生」(モデルは桐朋学園
の名物先生、生江義男)など20冊があり、いずれも読み始めると止まらず、
仕事に差しさわりが出て困っています(笑)。
 
元に戻して、読み応えがあるので粗筋は省きますが、原発の安全を脅かすのは、
地震や津波などの自然災害だけではなく、もっと簡単に福島以上の災害をもた
らすことが明らかにされています。送電する鉄塔を利用することなのですが…
…。「熱しやすく冷めやすい」私達に、「原発問題は、これでいいのか」と問い
かける警鐘ではないでしょうか。舞台は新潟、柏崎刈羽原発、山本議員らしき
人も出てきます。
 
◆ホタルになった兵隊さん◆   堀田 貴美 著
前の戦争のとき、九州南端の知覧に陸軍の飛行場があり、戦争末期、そこは
特攻基地でした。
特攻機は人間爆弾で、搭乗員は、二十歳前後の若者達だったのです。基地の
近くに、おばさんと二人の娘が手伝う富屋食堂があり、隊員達に親しまれて
いました。その中に、出撃後に飛行機が故障して、帰ってきた宮川三郎軍曹
がいました。再び、出撃しましたが、二度とも機械が故障し、引き返したの
です。整備隊長に、いい飛行機をくださいと訴えました。仲間が戦死し生き
残るのは辛かったのでしょう。同じ頃、やはり、一人生き残った滝本軍曹が
配属され、宮川さんと知り合い、富屋に一緒に顔を見せるようになりました。
昭和20年6月5日の夕方、二人は、明日出撃するため、富屋へ別れにきた
のです。
娘たちは、出撃の鉢巻きを贈り、話もつきません。帰りがけに宮川さんが娘
達に、「明日の晩9時に、ホタルが2匹入ってくるから、中に入れてやってね」
と言いました。
翌日は天気が悪く、富屋の人達は、案じていましたが、夜8時頃、滝本さん
が現われ宮川さんは行ったという。2機並んで飛び立ったが、雨雲にさえぎ
られ、帰ろうと合図しました。宮川さんは、「お前は引き返せ」と、別れの合
図をし、雨雲の中へ飛び去ったのです。娘達は、宮川さんの気持ちが、痛い
ように伝わってきました。
その時、一匹のホタルが天上にとまり、時計を見ると、9時でした。宮川さ
んが言った時刻と何秒も違いません。店にいた隊員もよってきて、滝本さん
達は、ホタルを見ながら、宮川さんの思い出を話しました。ホタルは、話を
聞いているようでした。
「宮川さん、やっぱり帰ってきたんじゃねえ。」
おばさんは、ぽつんと言いました。
  日本むかしばなし 23
   ジェット機とゆうれい 日本民話の会 金沢 祐光 絵  ポプラ社 刊 
 
最後の、おばさんのつぶやきが、悲しく、むなしい。多くの人達の犠牲でつか
んだ平和を、私達は、無駄遣い、浪費していないでしょうか。特攻に関しては
11月にお話します。
 
4月に紹介した「同期の桜」の4番です。
 
    貴様と俺とは同期の桜  離れ離れに散ろうとも
    花の都の靖国神社    花の梢に咲いて会おう
 
戦場で命を落とすのは、多くは前途のある若者達です。終戦記念日には、毎年
のように親父に連れられ靖国神社へお参りしたもので、「今の平和は、ここに眠
る人々の愛国心から築かれたものだ。忘れるなよ、紀元!」、これが口癖でした。
60年安保闘争に参加した時、「日本の平和は憲法9条で守られているわけでは
ない。安保条約で守られていることがわからんのか! 反対なら、日本人をや
めて、とっととソ連へ移住しろ!」と怒鳴られたものでした。明治生まれのお
父さん方は、信念がありましたね。平和ボケ、親父が生きていたら嘆くだろう
な。しかし、段々と考えや言うことが、親父に似てきたようで、泉下で苦笑し
ているかもしれません。白百合学園小学校は靖国神社のすぐそばにありますが、
学校説明会へ参加した帰りには参拝し、境内に併設された同社の祭神ゆかりの
資料を集めた遊就館に出かけ、元気を頂いています。
 
盛夏、真夏に怪談話を一席。 
むかし話にも怪談はありますが、現代っ子は、昆虫を殺しても、「電池、取り
替えてよ、お母さん!」というそうですから、こんな話、恐がらないでしょ
う。
 
◆あめかいゆうれい◆   中本 勝則 著
ある夏の暑い晩のこと。
あめ屋のじいさんのところへ、青ざめた顔をした一人の女が、あめを買いに
きたのです。
それからというもの、決まったように、夜遅く、あめを買いに来ます。七日
目の晩のことでした。
「あめをください」と差し出した手に、銭はありません。いつもより、青
ざめた顔は、悲しそうに見えるのです。じいさんは、何もいわずに、あめを
あげました。
「どこの人だろう」と後をつけると、不思議なことに、山寺の山門まで来
ると姿を消したのです。
すると、寺の中から、赤子の泣き声が聞こえるのでした。驚いたじいさん
は、和尚さんに訳を話すと、まだ新しい墓にじいさんを連れていったのです。
先日、赤子を身ごもったまま女の人が亡くなり、それがこの墓だというので
す。掘り出してみると、棺桶の中で、玉のような男の子が、母の胸にしがみ
つき、見れば男の子は、あめをにぎっているではありませんか。じいさんが
売ったあめでした。
昔、死んだ人には、一文銭を六枚、手に握らせ墓に埋めたそうです。死ん
だら渡る「三途の川」の渡し賃でした。しかし、母親の手の中には、六文銭
はなかったのです。
和尚さんは、泣いている男の子を抱き上げて、「母さまは、わしが供えた銭
で、 毎晩、お前のために、あめを買いに行ったのだ」と言って、静かに念仏
を唱えたのでした。
          海ぼうず  松谷 みよ子/吉沢 和夫 監修
                        日本民話の会・編  国土社 刊 
 
妖怪やお化けの話は、たくさんあります。幼児用に、怖くない話が多いですか
ら、お子さんが興味を持ったときは読んであげましょう。無理なく、勧善懲悪
を教えるように構成されているからです。
 
戦争の話はこれまでにして、全くの余談になりますが、NHKの大河ドラマ「花
燃ゆ」は、せっかちな私にはまどろっこしいテンポにイライラし、高杉晋作を
扱った本を読み直してみました。その中の一冊、幕末、官軍につくか幕府に従
うか、迷う長岡藩家老、河井継之助を描いた「峠 (上下)」(司馬遼太郎 著 
新潮社 刊)には、晋作は“ただ者”ではなかったことが書かれたおり、イラ
イラの源は、この本であったと納得しましたが、読書とは有り難いもので、今
回、読み落としていた3つのことに気づきました。
 
第1に、下巻の50~100頁には、福澤諭吉の西洋の自由と権利に基づく「独
立自尊」の精神が発酵する過程も描かれていたことです。付箋がたくさん貼っ
てあるのですが、このところは1枚もなし。30歳後半で、まだ幼児教育に手
を染めていないからでした。
 
第2は、官軍に囲まれ長岡で、戦いを挑む時に、継之助は土民を奮起させるた
めに、文章を書いて配ったのですが、読む相手を考え、漢文や候文(そうろう
ぶん)ではなく、話し言葉で書いてあることでした。いわゆる言文一致体、山
田美妙から始まったと思っていたのですが、何と、先輩がいました。
 
第3は、諭吉が酒好きであることでしたね。
母親が幼童の福澤の月代(さかやき)を剃るとき、痛さに我慢できなくなり泣
くと、母親は、「あとで酒をたべさせるから」となだめて剃ったとか。こういっ
た話に出会うと、うれしくなりますね。「酒をたべさせる」は誤植ではありませ
ん。酒粕ではないでしょうか。私も幼少のみぎり、少し食べて頬を染め、ボー
ッとなった記憶があるからです。この幼児体験が酒好きになったとは、単なる
言い訳です。以上、全くの余談ですが、長く引っ張ってきたのは、福澤諭吉が
酒好きであったことをいいたかったのです(笑)。
 (次回は、「お月見です」についてお話しましょう」

さわやかお受験のススメ<保護者編>第10章 終戦記念日、このことです 葉月(3)

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         「めぇでる教育研究所」発行
     2019さわやかお受験のススメ<保護者編>
         ~紀元じぃの子育て春秋~
     「情操教育歳時記 日本の年中行事と昔話」
       豊かな心を培う賢い子どもの育て方
           -第38号-
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第10章  終戦記念日、このことです   葉 月(3)
 
★★日本に富士山はいくつあるでしょうか★★
皆さんの住む街に「○○銀座」と命名されている所はありませんか。かなり、
あるはずです。なぜ、全国、至る所に銀座があるのでしょうか。
 
銀座は、江戸幕府が銀貨の鋳造や発行をした役所のあった所で、明治を迎えて
廃止されましたが、文明開化のもと洋風建築の商店街がつくられ、以来、東京
随一の繁華街と発展し、「銀座」の名前は残ったのです。後発の新宿や池袋に押
され気味でしたが、現在では1丁目から8丁目まで、大人の街として東京の観
光スポットに欠かせない存在となっています。その繁栄にあやかろうと、各地
の中心街の地名に用いられるようになり、そこから人のにぎわう場所を表す言
葉ともなって、全国に300もの「○○銀座商店街」が生まれたのでした。そ
の栄光の第一号は、東京都品川区にある「戸越銀座商店街」だそうです。
 
文化遺産に登録された富士の名も、銀座と同じように全国に見られます。
いうまでもなく富士山は、山梨と静岡の両県にまたがる日本の最高峰、標高3
776メートルの火山です。宝永4年(1707年 徳川吉宗の時代)の噴火
で宝永山ができ、以来、活動を中止していますが、いつ噴火しても不思議では
ない、歴然とした火の山です。古くから霊峰とあがめられ信仰登山が盛んで、
頂上には浅間(せんげん)神社が祭られ、富士、不二、不二山、不尽山、富岳
(ふがく)、芙蓉峰(ふようほう)、ふじやま、ふじのやま、富士の高根、とい
った名称で親しまれ、桜と共に日本のシンボルとして、世界の人々にも知られ
ています。  
 
ところで、自然環境保全などのために入山料1,000円(6月1日~9月1
1日)を徴収していますが、あの登山ラッシュの様子を見ていると、休む所も、
トイレなどの設備も十分とはいえず、また、安全登山を確保するのも、問題が
出そうですから、当然でしょう。ちなみに、白神山地は大人一人500円、屋
久島は日帰り1,000円、宿泊2,000円ですが、世界の最高峰エベレス
トにネパール側から入山する場合、一人250万円かかるそうです。
 
富士山へ1回だけ登りました。雲海は素晴らしい眺めで、神秘的な気持ちにな
りましたが、土と岩の殺風景な登山道は、人間を寄せ付けない無言の威圧を与
え、富士山は遠くから眺めるものだと痛感したものでした。様々な方角から眺
めるのが好きで、あちこちに出かけましたが、千円札の「逆さ富士」は本栖湖
に映る富士で、案外知られていないのではないでしょうか、絶景です。
 
上高地や尾瀬沼は、学生時代、重装備で登ったものですが、今は観光バスを利
用すればサンダル履きでも行けますから、人、人、人で味気なくなりました。
民話風でなんですが、人間があまり自然に手を加え過ぎると、山の神様の機嫌
を損じることにならないかなと懸念しています。地震と火山活動、日本列島に
住むからには覚悟の上とはいえ、何とか自然と仲良く暮らす知恵を働かせたい
ものです。これは古来、わが民族の宿命ではないでしょうか。
 
富士山に関して、自慢できることが一つ。
昭和44年に初めてジェット機に乗ったのですが、当時西へ行く便は、富士山
の上を飛んでいたので、山頂のすり鉢を見ることができ、写真も撮りました。
乱気流で事故があって以来、山頂は避けているようです。
その山頂にある浅間神社には、古事記によれば、絶世の美女といわれている木
花之佐久夜昆売命(コノハナノサクヤヒメミコ)が主神として祀られています。
読みにくい、覚えがたい神さまがたくさん出てきますが、一度で覚えてしまっ
たのは、女神様だからです(笑)。富士山麓には、日蓮宗を崇める寺院があり、
神道と仏教が仲良く共存しています。一神教では想像できないことですが、な
ぜ、信仰の問題で殺し合うのか、不思議に思うのは、私が不信心者だからでし
ょう。
           
さて、銀座が繁栄にあやかろうと普及したものなら、富士山は、その秀麗な姿
を愛する私たちの心に、いわく言いがたいやすらぎを与えてくれることから、
「おらが故郷の富士」と自賛する富士の名称が、全国に生まれたのではないで
しょうか。 
北は北海道から南は鹿児島まで、全国各地に富士の名山ありなのです。ちなみ
に、日本には108の火山があり、不思議なことに、12月に紹介しました人
間の煩悩の数と同じでしたが、2017年現在、111だそうです。
一番多いのは北海道の29(北方領土に11)、二番目は何と東京都で、三原山
から最南端の日光火山に至る伊豆、小笠原諸島に21、三番目は鹿児島で10、
近畿、四国には活火山はありません。史上最悪の災害となった御岳山の噴火、
霧島山系の硫黄山周辺、箱根大涌谷、桜島など、地震と同様、自然災害には穏
便に願いたいものです。
 
おらが故郷の富士を紹介しておきましょう。
蝦夷富士(羊蹄山)標高 1,989m
 北海道には、この他に富士に似た山が16山あります。          
 
津軽富士(岩木山)標高 1,625m
 津軽の人々は、岩木山こそ日本一の美しい山で、本家を「駿河富士」と
 呼ばせたい思いがあるそうです。         
  
南部富士(岩手山)標高 2,038m
 静岡県から見た富士山に似ており、片側が削げているように見えること
 から南部片富士ともいわれています。   
  
吾妻富士(吾妻山)標高 1,707m
 浄土平のシンボル、別名吾妻小富士山、本家と同様、摺り鉢状の火口に
 は水はたまっていません。初めて訪れたとき、山頂から見上げる一切経
 山は、霧がかかり、地獄のような姿を見せてくれました。
  
榛名富士(榛名山)標高 1,391m
 榛名山中央にある火口丘で榛名湖の東にそびえ、湖畔に映る姿は美しく、
 頂上にある神社は縁結び、安産の神として信仰されています。
 
信濃富士(黒姫山)標高 2,053m
 黒姫山は妙高、戸隠、飯綱、斑尾山と並ぶ信越五山の一つで、野尻湖へ
 のびた裾野には世界中から集められたコスモスが咲く黒姫高原があります。 
   
伊豆富士(大室山)標高 581m
 お碗を伏せたようなやわらかな曲線の山で、山麓には35種3000本
 の桜を栽培した「さくらの里」があり10月から翌年5月まで咲いてい
 るそうです。  
 
八丈富士(八丈島 西山)標高 854m
 ひょうたん型に似た八丈島の北川にそびえる伊豆七島の最高峰、晴れて
 いれば、ご本家を眺望できます。
  
近江富士(三上山)標高 432m 
  湖国のシンボル、俵藤太の「百足伝説退治」で知られています。   
  
都富士(比叡山)標高 848m
 天台宗総本山延暦寺のある山で、西側の宝が池公園から見ると「ふるさ
 と富士」に見えます。     
  
有馬富士(角山)標高 374m 
 北摂・三田(さんだ)八景の一つで、「有馬富士 ふもとの海は霧に似て 
 波かと聞けば 小野の松風」と花山法皇が詠んだ花山院からの展望が絶景。
     
伯耆富士(大山)標高 1,711m
 鳥取西部にある火山、中国地方の最高峰。中腹に大山寺があり、伯耆(ほ
 うき)富士、出雲富士ともいわれています。     
  
安芸富士(広島 似島)標高 278m
 広島市の沖に浮かぶ似島で、原爆投下後、1万人もの被爆者が運びこま
 れた島。安芸富士は8月6日を忘れません。
  
讃岐富士(飯野山)標高 421m 
 台形型の代表である屋島、奇峰型の代表五剣山と共に香川県の山の典型。  
 
小富士(愛媛 興居島)標高 282m 
 霊峰富士を思い切って縮小すると、こうなるという見本のようなミニ富士
 で、興居島「ゴゴシマ」と読みます。
 
筑紫富士(浮岳)標高 805m
 浮岳は、越前と肥前を分ける背振山地の西端にある山で、唐津焼きで有名
 な唐津側から見ると富士の形に見えます。
  
豊後富士(由布岳)標高 1,584m
 日本を代表する温泉地湯布院町にあり、西峰で360度の展望を楽しめ、
 独立峰のため風が強く、冬は霧氷の名所として知られています。
 
薩摩富士(開聞岳)標高 922m          
 三方を海に囲まれた裾野がきれいな山で日本百名山の一つ。特攻隊員が
 目に止めた最後の内地の山。
 
パソコンで検索すると、標高2000メートルから300メートルに満たないミニ富
士まで、四季折々の富士の山を見ることができます。いずれも見慣れたコニー
デ、円錐状の山で、あるものだなと感心してしまいます。
 
富士山の語源は、日本語説、アイヌ語説、南方語説などあり決め手はないそう
ですが、日本語説は、「『万葉集 巻3』の山辺赤人が詠んだ富士の歌に『不尽
山』と書いてあるところから、永久に尽きることない、千古万古にそびえ立つ
山という意味を込めて、あて字をしたものであろうと解釈する説」だそうです。
   田子の浦うち出でて見れば真白にそ 不尽の高嶺に雪は降りける
    万葉集巻3(318)
(「つい誰かに話したくなる雑学の本」P65 講談社文庫刊 より要訳)
 
話は脇にそれますが、友人に少し斜に構えてものを見る面白い奴がいて、富士
の形は、国家権力を表すヒエラルキーだから、富士山を愛するなど「おめでた
い奴よ」とバカにしていましたね。ヒエラルキーとは、ピラミッド型の階層的
な組織のことですが、明治政府が国民に、日本は将軍に代わり、頂上に天皇を
いただく国であることを印象づけるための国策として、富士山をプロパガンダ
(思想などの宣伝)に利用したのだそうで、その証拠に、銭湯の壁面には、必
ず富士山と松と桜に青い海が描かれ、昔は内風呂のある家は少なく、銭湯を利
用していましたので、入る人は否応なしに見ることになりますから、「国家権力
に従順な人間をこしらえるための陰謀だったのよ」というのです。
 
4月に紹介しました桜が、軍国主義に利用されたことを考えれば、奴の考えも
的を射ているかなとも
思いますが、平和な時代に生きる私には、桜も富士山も平和のシンボルとみて
いいのではというと、
「だから、てめぇちは駄目な奴だというのよ!」と『吾輩は猫である』に出て
くる「クロ」の台詞をそっくり真似て、切って捨てられたものです。
奴は、難しい局面に出会うと、
   来て見れば 聞くより低し 富士の山
          釈迦や孔子も かくやあるらん  村田清風
と、うそぶいたものでした。村田清風は、司馬遼太郎の作品にしばしば登場し
ますが、幕末、長州藩の破産同然の財政を立て直した人です。
学生時代の話ですから、もう50数年前にもなりますが、人間の記憶は、摩訶
不思議な仕組みになっているようですね。すっかり忘れていたことが、突然、
よみがえってくるのですから。でも、奴のいうことが本当の話であったら、何
とも国家権力は、巧妙な手段をこうじるものだと舌を巻きますね。
 
神社の境内を散策するときや、富士の高嶺を仰いだときに感じる気持ち、あれ
が大和心なのではないかなどと、うっかり言おうものなら、「ケッ、年はきちん
と取りたいものよ!」と笑われたに違いありません。何事にも自分の意見を一
つ言わなければ気の済まない一言居士でしたから……。
 
奴は、日本のライオネル・ハンプトンといわれたビブラフォン奏者、スイング
ジャズの素晴らしさを教
えてくれた私の尊敬する大先生、平岡精二氏(生意気にも精ちゃんと呼んでい
ました!)の作った
「あいつ」や「つめ」が大好きでしたが、二人とも冥界に旅立ってしまいまし
た。
「あとに残された者は、いつまでも思い出を背負っていくものなんだな」など
と感傷的な言葉を並べようものなら、「キザは、およしよ!」と容赦なくやられ
るだろうな、奴のことだから……。奴の好きだった「つめ」、こういう歌詞です
が、かなりのロマンチストであったことも間違いありませんね。
 
次号でお話ししますが、当時、社会派の流行作家として大活躍していた梶山季
之が、建築学会と設計に関する醜い争いを暴露した傑作「女の斜塔」の中で、
この歌を紹介しています。氏も精ちゃんのファンであったのかと思ったもので
す。その「女の斜塔」、今読んでも十分、読み応えがあり、素晴らしいストリー
テラーであることがわかります。小説もジャズも、面白いことが生命ですね。
    
     つめ   作詞 作曲 平岡精二
(1)二人暮らしたアパートを  一人ひとりで出て行くの
   すんだことなの今はもう  とてもきれいな夢なのよ
   あなたでなくてできはしない 素敵な夢を持つことよ
   もうよしなさい悪いくせ 爪を噛むのはよくないわ
 
(2)若かったのねお互いに あの頃のこと嘘みたい
   もうしばらくはこの道も 歩きたくないなんとなく
   私のことは大丈夫よ そんな顔してどうしたの 
   直しなさいね悪いくせ 爪を噛むのはよくないわ
                      
精ちゃんの失恋の歌だと聞いていました。お相手は俳優の根上淳さんと結婚し
たペギー葉山さん。恥ずかしがり屋の精ちゃんが、つめを噛む姿を想像しがち
ですが、本当は、ペギーさんの癖だったそうです。
ペギーさんは大ヒットした「南国土佐を後にして」で、全国に知られるように
なりましたが、本当は江利ちえみさん(高倉健の元奥さん)、雪村いずみさんと
共に本格的なジャズを歌える、数少ないジャズシンガーだったのです。
 
ペギーさんのもう一つのビッグヒット曲、「蔦の絡まるチャペル」で始まる「学
生時代」は、青山学院時代に、当時の高等部の2年生であった精ちゃんが、男
子部校舎の窓から見ていたペギーさんの姿を見て作詩、作曲したもの。題名を
「大学時代」と決めていましたが、「大学に行っていない人もいるのだから」とペ
ギーさんが説得、最後は精ちゃんが折れたのだそうです。
 
正門から入って約1分、左側にあるベリーホール前に建てられた、歌詞と自筆
の譜面も刻み込まれた質素な歌碑で、青山学院初等部の学校説明会へ参加した
時には、必ず訪ねています。初めて歌碑を見たとき、50年ほど前の話ですが、
精ちゃんの演奏を聴くために、ジャズ喫茶に通っていた高校生時代を思い出し、
感無量でした。
「歌声喫茶」はロシア民謡などを、アコーディオンの伴奏で、みんなで歌えた
場所であり、「ジャズ喫茶」は、当時の一流ジャズメンの演奏を、一杯100円
のコーヒーで聴けたライブハウスで、70歳前後の方々には、青春時代のよき
思い出の一つになっているのではないでしょうか。しかし、若い皆さん方には、
何のことやらわからないかもしれませんが、年寄りの昔話と読み流してくださ
い。こだわりますが、「ライブハウス」は和製英語で、正しくは“Live  m
usic club”です(笑)。
ちなみに、学院の校歌である「青山学院」の作曲も精ちゃんです。ジャズプレ
ーヤーが、母校の校歌を作曲しているのも珍しいのではないでしょうか。
 
立教大学にも歌碑があります。
鈴木章治(戦後のスイングジャズを支えた名クラリネット奏者)とピーナッツ・
ハッコー(アメリカのクラリネット奏者)が競演して大ヒットした「鈴懸けの
径」の歌碑です。6月の立教小学校の説明会の帰りに見てきましたが、4号館
前の鈴懸けの並木路に、ひっそりとたたずんでいました。もっとも大ヒットを
したのは昭和30年代、作曲されたのは昭和17年ですから、無理のないこと
かもしれません(笑)。
 
余談ですが、私の大好きなシカゴジャズの大御所、エデイー・コンドン(ギタ
ー奏者)とピーナッツ・ハッコーが共演している映像をYouTubeで視聴できま
す。かつて来日した折に、一緒に演奏させて頂いたワイルド・ビル・デビソン
(コルネット奏者)も張り切って演奏しています。その時に収録したCDは、
私の唯一のお宝。バンドマスターの丸山が吹いていたコルネットは、トランペ
ットより音色が柔らかいワイルド・ビルから譲ってもらった、かなり高価な年
代物で、今はプロのトランペッターに、彼の遺言で贈呈し、余生を送っていま
す。いつか一緒に演奏し、その音色を楽しみたいのですが、プロの方との演奏
など、もう空恐ろしくて、できませんね(笑)。
 
猛暑、夏本番。近所の雑木林では、かしましいほどセミが鳴いていますが、日
中、35度を超えると、沈黙していますね。セミも暑いようです。
 
(次回は、「8月に読んであげたい本」についてお話しましょう)

さわやかお受験のススメ<保護者編>第10章 終戦記念日、このことです 葉月(2)

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         「めぇでる教育研究所」発行
     2019さわやかお受験のススメ<保護者編>
         ~紀元じぃの子育て春秋~
     「情操教育歳時記 日本の年中行事と昔話」
       豊かな心を培う賢い子どもの育て方
           -第37号-
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第10章  終戦記念日、このことです   葉 月(2)
 
★★なぜ、鳩は平和のシンボルなのでしょうか★★
神社、仏閣、さらに大きな公園には、なぜか鳩がいます。
いないと何か物足りない気がする不思議な存在でしたが、最近では、糞害など
で問題になり、駅などでは「餌を与えないで!」といった看板が目立ちます。
しかし、オリーブの枝をくわえた鳩は、依然として、平和のシンボルとなって
います。なぜ、鳩なのでしょうか。事の起こりは、聖書物語でおなじみの「ノ
アの方舟」なのですから驚きです。
   
 「人間の邪悪さにあきれた神エホバは、大洪水を起こしてすべてを一掃しよ
うと考えました。しかし、正しい人、ノアだけは救おうと、神は彼に方舟をつ
くるように命じました。
 ノアは人々に馬鹿にされながら巨大な方舟を作り、そこに家族と動物のつが
いを乗せました。やがて神が予告したとおり大雨が降りはじめ、陸地はすべて
海に沈みました。          
 数日後、水が引いたことを確かめるため、ノアはまずカラスを放ちました。
しかし、カラスはどこにも羽を休める場所を見つけることができないまま戻っ
てきました。
 それから一週間後、ノアは鳩を放ちました。やがて鳩はオリーブの小枝をく
わえて戻ってきました。そこでノアは洪水が引いたことを知りました」
 
 この物語から、「鳩+オリーブの小枝=平和」という図式ができあがったので
ある。そして、「オリーブの小枝をくわえた鳩」が平和の象徴として世界中に広
まったきっかけは、1949年にパリで開催された「国際平和擁護会議」に、
パブロ・ピカソが鳩のポスターを描いたからだといわれている。
(「今さら誰にも聞けない555の疑問」        
  平川 陽一 編 株式会社 廣済堂出版 刊 P348)
 
映画「天地創造」を思い出します。
歴史に「イフ」はありませんが、しかし、あえて「もしも」です、最初に栄誉
ある偵察の任務を与えられたカラスが、オリーブの小枝をくわえて帰還してい
れば、カラスが平和の使者として、君臨していたことになります。
でも、悪食のカラスには、オリーブの小枝は似合いませんし、イベントなどで
鳩のかわりに真っ黒なカラスが一斉に飛び立つのでは、黒い稲妻のようで、何
やら不吉なムードに包まれそうです。
煙草のピースのデザインも変わっていたでしょうし、イトーヨーカ堂のロゴマ
ークにもなれなかったに違いありません。
煙草のピースですが、ヘビースモーカーであった私は、両切りにフィルターの
付いていないピースの愛好家の一人で、今でもそばでピースを吸われると、あ
の何とも言えない上品な香りに、クラクラとします。他の煙草の煙は今の私に
は単なる嫌な煙です。吸わない人には限りなく迷惑な煙害であることを、愛煙
者は十分に承知して吸ってほしいですね。禁煙してわかったのですが(笑)。
 
鳩は、一時、情報を伝える貴重な鳥として、脚光を浴びた時代がありました。
伝書鳩です。
足に情報を括り、さっそうと目的地へ向かった、貴重な鳥でもあったのですが、
電信技術の進歩にはかなわず、いまでは引退し、伝書鳩レースとして、昔の面
影を残すだけになりました。帰巣本能を利用したものといわれていますが、そ
のメカニズムは、解明されていないそうです。 
しかし、まだ、主役として活躍している鳩もいます。手品で使われている、あ
の鳩です。マジシャンの使う白い小型の鳩は銀鳩と呼ばれ、観賞用としても人
気があるそうです。
ところで、都会では、鳩とカラスが厄介者になりつつあるのも、不思議な縁で
すね。
 
最近、知ったことですが、五輪憲章にある開会式の項で「聖火への点火に続い
て、平和を象徴する鳩が解き放たれる」と明記されていた文言も消えてしまっ
たそうです。ソウル五輪で、聖火台で羽を休めていた鳩が焼け死んでから、使
わなくなったと聞いたのですが、リオデジャネイロの入場式では使われません
でした。「五輪栄誉賞」の授賞式には登場したそうですが、残念ながら映像を見
ていません。
 
それにしても、東京五輪、何かとすっきりしませんね。「そもそもオリンピック
は、競技大会ではありませんか」と憎まれ口を叩きますが、選手抜きの祭典に
なっているのではありませんか。だったら止めればいい。切磋琢磨している選
手の皆様には申し訳ないですよね。聖火リレーの出発点が、福島に決まったと
か、でも、間に合うのかしら、そっちも心配ですね。
 
ところで、鳩の鳴き方ですが、実際に聞いてみると、「ズズーポッポー ズズー
ポッポー」と妙な鳴き方です。これを「ポッポ ポッポ」と表現したのは、童
謡「鳩ポッポ」で、作詞は東くめ、作曲は瀧廉太郎、明治23年(1899)
のことでした。それまでの童謡は、文語体で難しかったのですが、子どもが楽
しく歌えるよう口語体にした童謡の第1号だそうです。現在、ほとんど歌われ
ておらず、よく歌われている ♪ポッポッポ 鳩ポッポ♪は「鳩」という題名
で、この歌とは全く違う曲です。「鳩ポッポ」は、音は悪いですがYouTubeで聞
けます。
         (大人の雑学 日本雑学研究会編 幻冬舎 刊P225よ
り要約)
 
               ★なぜ、海の水は塩辛いのでしょう★★
平和のシンボルの話から一転して、自然の摂理についてお話しましょう、など
と気取ることはないのですが。
夏といえば、海水浴。海水パンツではなく、赤い褌(ふんどし)をしめて泳い
でいました。初めて海で泳いだとき、不覚にも海水を飲んでしまい、その辛い
こと、喉をゼイゼイならしながら鼻水を出した顔はゆがみ、こりているはずな
のに、またしても海水を目に入れたときの、あの痛さに泣いた記憶があります。
当然です。海水約4リットルには、およそ100グラムの塩が含まれていますか
ら、塩辛いわけですし、目に入れば痛いわけです。
 
では、なぜ、塩辛くなるのでしょうか。
有史以前の地球は、火山が爆発し続ける、灼熱地獄でした。やがて火山活動も
沈静化し、豊富な水から植物が生え、動物が生息し、人間も地球の住民として
存在するようになったのです。火山活動により、いろいろな物質や鉱物が、地
上にばらまかれましたが、塩分もその一つで、地表からしみ込んだ塩分や岩石
に含まれている塩分が、雨に流され、河川の水に溶け込み、海に流れ着いたた
めに塩辛くなったのです。
     
海水ができたのは、今から38億年前、地球上に生物(バクテリア)が生ま
れたころで、地球誕生から約7億年たっていました。
当時の海水は、塩酸を含む酸性で、岩石に含まれるカルシウムやナトリウム
を溶かし、ナトリウムは海水中の塩素と一緒になって食塩になりました。
 海水の成分はその頃から現在までほとんど変わっていません。
(「雑学特ダネ新聞 読売新聞大阪編集局 著 PHP研究所 刊 P283)
 
この海水ですが、どこから出てきたのでしょうか。
最近の説では、溶岩は地球の内部にあるマグマがかたまったもので、その内部
には10%ほどの水が含まれており、それが火山活動の時に地表や海に吹き出し、
38億年かけてしみ出した結果、今の海になったそうです。
 
そして、当時から成分は変わらないそうですから、驚かされますね。
人間は、生物の生態系や地形などを、地球に相談することなしに変えています
が、しっぺ返しを食うことはないでしょうか。
 
ところで、海水が太陽に温められ、蒸発して雲となり、それが雨となって地上
に戻ってくる原理を知ったとき、
「なぜ、雨は塩辛くないのかなぁ?」
と母に尋ねたところ、塩水を入れた鍋を七輪(土製のこんろ)に乗せて沸騰さ
せ、その蒸気を割り箸にあて、ついた水滴をなめさせてもらったことを覚えて
います。まったく辛くはないのですが、その割り箸で鍋の中の湯につけて口へ
運ぶと辛いのです。塩分は海に残り、水だけが蒸発することがわかりました。
でも、酸性雨は別物で、これは恐ろしい。もっと「地球にやさしい暮らしをし
てほしい」と、地球自身が警告を発している気がしてなりません。
 
★★海水浴は治療の一種だった!★★
昔から、夏になれば、川や海で泳ぐものだと思っていましたら、これは、とん
でもない間違いだそうです、ご存知でしたか。そういわれてみれば、時代劇で、
子どもたちが泳ぐ姿を見たことがありません。「水練」といって武芸の一つでし
た。こういうことだそうです。
 
 海水浴は、病気を治す方法の一つとして始まりました。はじめは海に入って
も泳がずに、波打ちぎわで遊ぶだけでした。海水の塩分が体を刺激し、食欲が
出て体重が増えるので、健康にいいといわれていたのです。1885年に神奈
川県の大磯に、日本で最初の海水浴場が作られて、次第に泳いで遊ぶ海水浴と
なりました。
    (心をそだてる 子ども歳時記12か月 監修 橋本 裕之  講談
社 刊 P64)
 
小学生の頃から、川や海で泳いでいましたから、夏になれば真っ黒に日焼けし
たものです。瀬戸内海の底まで澄んで見えるきれいな海に育った私は、東京に出
てきて、波がドーンと砕ける江ノ島の海岸に立ったとき、これが海かと信じられ
ないほど汚く見えました。当時 (昭和25年頃)は、打ち寄せる波が砂を掘り
返すので汚れていたように見えたのですが、そこで大勢の人が泳いでいるので
すから、びっくりしたものです。
 
高度成長時代に入り、河川や海洋汚染がすすみ、公害をもたらし、日本の至る
所で自然は壊され、無残な姿をさらけだしていました。自然と無邪気に遊べる
のは、子ども時代だけです。川や海で泳げないなど、私には想像できないこと
でした。10数年前になりますが、日本はおろか世界中の川や湖沼をカヌーで
旅をするリバー・ツーリングのスペシャリスト、野田知佑氏の本を読むたびに
憤慨していたものですが、憤慨しても何も始まらないだけに、虚しくなるだけ
でした。
 
ところが、最近、多摩川は地域の人々や関係者などの努力により、鮎が遡上す
るほど清流が戻り、「江戸前の鮎」を食べられるようになりました。それについ
ては少し気になることがあります。平成24年は1、194万尾、25年は6
45万尾、26年は541万尾、27年は435万尾、28年は463万尾、
29年は158万尾と減少していることでしたが、30年は994万尾と平成
24年に次ぐ大量の遡上。自然を壊すのは簡単ですが、もとに戻すには、大変
な資金と労力と時間がかかります。地道な努力を続けることで、日本の自然は
息を吹き返し、子ども達に自然を返してあげることができるのではと大いに期
待をしています。
 
この鮎ですが、縄張り意識が強く、他の鮎が近づくと攻撃する習性があり、こ
れを利用したのが「鮎の友釣り」で、おとりの鮎を釣り竿につけ、縄張に近づ
け、攻撃する瞬間を狙って吊り上げるそうですが、最近、過密放流が原因か、
鮎自身が群れるようになり、このやり方では釣れなくなっていると新聞に出て
いましたが、世の中、うまくいかないもんですね(笑)。
 
話を戻しまして、野田知佑氏のエッセーは、どれを読んでもわくわくさせられ
ます。
特に、カヌー犬、ガクとの生活は、痛快そのものです。ガクの親は、野田氏と
椎名誠氏ですが、ガクは、人間だと思い込んでいるところがおもしろい。ガク
がご主人に内緒で外泊し(?)、朝帰りして言い訳する様子が、人間らしくて、
笑い転げましたね(大笑い)。
ちなみに、「岳物語」の主人公は、椎名氏の長男で、岳とガクが親友(?)であ
るところが、また、おかしい。「岳物語」は、私にとっては、父親とは何である
かを考えさせられた本でした。また、母親である渡辺一枝さんのエッセー「時
計のない保育園」も、育児の心構えを教えてくれた本でした。目下、岳の3人
の子どもを相手に、「孫はすべてが宝物」と語るエッセー「孫物語」が、笑わせ
てくれます。
 
ところで、「海水が、どうして辛いのか」と、その経緯を語るおもしろい民話が
残されています。図書館の紙芝居で見たのですが、廃館されてしまい、著者と
出版社がわかりません。確か、青森から沖縄まで、広い範囲で残っている民話
ではなかったかと思います。四国の場合は、阿波の鳴門となって、今も回り続
けているとなっていたような記憶があるからです。
 
◆塩ひき臼◆
 金持ちで欲張りの兄と、貧乏で正直な弟がいました。
  ある年越しの晩、弟が兄のところへ米を借りにきますが、断られます。家に
帰ろうと山道を歩いていると、白いひげを生やしたじいさんに会い、尋ねら
れます。
   「この夜ふけに何をしているのだ」
   「年神様に備える米がない」
  といったところ、小さなきび饅頭をくれ、こういったのです。
 「そこの森の神様のお堂の裏にいくがよい。そこに穴があり、住んでいる小
人が饅頭を欲しがるから、石の引き臼となら交換してもよいといいなさい。
必ず、欲しがるから」
  そこで、弟は出かけていくと、小人はしきりに饅頭を欲しがり、二つとない
宝物だが仕方がないといって、交換したのです。もと来た道へ引き返してみ
ると、まだ、じいさんはいて、こういったのです。
  「その引き臼を右に回せば欲しいものが限りなく出てきて、左に回すと止
まるものだ」
 家に帰って、むしろの上に臼を置き、
  「お米よ、出ろ! お米よ、出ろ!」
   といいながら右に回すと、米が出てくるではありませんか。
 そこで、餅や塩鮭などを出し、よい年越しをしたのです。
翌日には、屋敷や土蔵、お祝いの料理やら酒を出し、親戚や知り合いを招き、
盛大な祝い事をしたのでした。驚いた兄は、これには何か訳在りと探りを入
れ、石臼の秘密を見つけ、盗み出したのです。兄は、遠くで長者になろうと
船で逃げ出します。途中で腹が減り、臼と一緒に盗んできた菓子や餅を食べ
たのですが、甘いものばかりなので、塩気が欲しくなりました。そこで、
  「塩、出ろ!」
   といって臼を右に回すと、塩があふれ出てきました。これで十分だと思
い、止めようとしましたが、その方法がわかりません。臼は、勝手に回り続
け、塩でいっぱいになってしまった船は、兄を乗せたまま、海の底へ沈んで
いったのでした。臼は、今も続けて塩を出しているので、海の水は辛いので
す。
 
こういった話であったと思います。
金持ちだが欲張りの兄、貧乏だが正直な弟も、むかし話の約束事ですね。
よく似ている話が、グリム作の「うまい粥」です。
塩の代わりに出すものはお粥で、止め方がわからず困り果てて、持ち主に返す
結末が異なっています。
 
ところで、最近、「花火のできない子どもが増えている」そうですが、我が家の
周りでも、小さな子どもがいなくなったせいもありますが、見かけませんね。
マンションではやる場所がない、近所の公園は花火禁止、花火を楽しむ空間が
ないということでしょうか。夏の夕涼みの楽しみの一つであり、日本の夏の風
物詩でもある花火。子ども達が楽しむ手持ち花火は、狭い場所でも、バケツに
水をくみ、その上で楽しんだものですが、皆さん方はどうしていますか。
 
27年の芥川賞は「花火」ではなく「火花」。芥川賞を貰えなかった太宰治は、
泉下で、どう思ったでしょうか。線香花火で終わるか、豪快な打ち上げ花火を
上げ、作家の仲間入りができるか、真価を問われるのは第2作、出ましたね。
自称、元作家志望の後期高齢者から一言、「よかった!」。とにかく受賞は、大
変なことなのですから。「称賛、少し羨望をこめて」(笑)
 
7月6日(金)に「村上龍氏、芥川賞選考委員を辞任」と報じられましたが、
159回の選考で、北条祐子氏の「美しい顔」が候補に選ばれたこととは関係
ないようですが、権威がなくなってきたようです。
(次回は、「日本に富士山はいくつぐらいあるでしょうか」などについ
てお話しましょう)

さわやかお受験のススメ<保護者編>第10章 終戦記念日、このことです 葉月(1)

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         「めぇでる教育研究所」発行
     2019さわやかお受験のススメ<保護者編>
         ~紀元じぃの子育て春秋~
     「情操教育歳時記 日本の年中行事と昔話」
       豊かな心を培う賢い子どもの育て方
           -第36号-
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第10章  終戦記念日、このことです   葉 月(1)
 
物の本によれば、葉月のいわれは、季節は秋になり、木の葉が落ちる「葉落
月」の略されたものが親しみやすいですね。この他に、稲穂の「発月」、雁
が渡ってくるので「初来月(はっきづき)」、南から台風の風が吹きはじめ
るので「南風月(はえつき)」などの説があるそうです。
 
★★終戦記念日★★
8月といえば、終戦記念日です。8月15日、忘れてはならない日です。こ
れは、季節の行事と違いますから、おかしな話と思うかもしれません。しか
し、私たち日本人は、この日を忘れてはならないのです。とにかく、大勢の
人が亡くなりました。戦場で230万人、原爆、空襲で70万人、およそ3
00万人の命が奪われたといわれています。この中には、戦場となったアジ
アをはじめ他国の人々は含まれていませんから、犠牲者はさらに増すはずで
す。この事実だけでも、戦争は絶対に許せません。
 
最近、「なぜ、日本は世界を相手に戦争をしなければならなかったのか」、
その真相を明らかにする書物も多く出版され、知らなかった経緯を知る機会
も増えてきました。その最たるものは、「あの戦争は、日本の自衛戦争であ
った」といった、日本と戦った連合国最高司令官、ダグラス・マッカーサー
元帥の言葉でしょう。
 
私は、長い間、宣戦布告もせず、真珠湾を奇襲攻撃し、戦争を始めたのは日
本であると思っていました。ところが、上智大学名誉教授である渡部昇一先
生の数々の著書や文芸春秋の名編集長であった堤堯氏の「ある編集者のオデ
ッセイ(戦争の仕掛人はルーズベルト大統領)」、西尾幹二氏の「日米百年
戦争」(徳間書房 刊)、山崎豊子さんの「二つの祖国」(上下 新潮社 刊)
などには、マッカーサー元帥の言葉を裏づける事実が証明されているではあ
りませんか。
 
そして、テレビでも放映された清朝が崩壊していく経緯を書いた破天荒な作
品、浅田次郎氏の「蒼穹の昴」 (4巻 講談社 刊)で、欧米人は、肌の色の
違う人種を決して認めない「人種差別」と「宗教の違い」を指摘し、「気づ
かないでいると大変なことになる」と憂慮していたことが現実となり、「石
油」を絶たれ、戦争でしか解決できないように追い込まれた結果、開戦のや
むなきに至ったのが、戦争の大きな原因ではなかったでしょうか。「日本は
戦争をしたくてやったのではない。仕掛けてきたのはアメリカやイギリスの
白人達だ!」と親父は、常に激怒していましたが、今は、その気持ちがよく
わかってきました。
 
とは言え、戦争は、人間の引き起こす最も愚劣な罪悪です。しかし、戦時中
は、全国民が真剣に戦争をしていたのも事実です。国家権力は絶対で、国民
は逆らえません。これが恐い。たとえば、赤紙1枚で、たった1つの生命を
交換させられたのです。その赤紙は、わずか1銭5厘(当時の葉書の値段)、
1銭5厘です……。
 ※赤紙 兵を集める召集令状のこと、淡赤色の紙を用いたもので、俗に赤
紙という。(広辞苑)
 
「戦争反対」の四文字は、禁句の時代でした。叫ぶのも命がけです。非国民
と弾劾されながら、特高(特別高等警察の略。戦前の警察制度で政治思想関
係を担当した課の警察官のこと)の監視を逃れ、どれだけの人が戦えたか。
このことです……。その記録さえ、わずかしか残っていないのではないでし
ょうか。戦時体制になれば、国を挙げて戦争に協力しなければなりません。
しかも、それが正義、正論として、まかり通ります。協力しなければ非国民
となり、生活できなくなるのですから。
 
若いお父さんやお母さん方は、知らないかもしれませんが、日本の軍隊が他
国の地で戦ったことを、その国の人々は忘れません。日本人なら、広島と長
崎を忘れられないのと同じです。
昭和20年8月6日、午前8時15分、B29 爆撃機 エノラ・ゲイ号、
原爆の名前はリトルボーイ、死者約14万人。
同年8月9日、午前11時2分、B29 爆撃機 ボックス・カー号、原爆
の名前はファットマン(太った男)、死者約7万人。リトルボーイとファッ
トマンで死者約21万人、ふざけた名前に腹立たしくなります。いまだに後
遺症で苦しんでいる日本人がいることを、アメリカ人は知っているのだろう
か。
「戦後、原爆投下によって日本の降伏が早まったと、アメリカは宣伝したが、
それは全くの嘘である。新型爆弾の実験をしたかったというのが、本当のと
ころであろう」とは、左翼系の新聞が書きそうなことですが、朝日新聞と徹
底的に戦った故渡部昇一先生の指摘です。
 
いや、同年3月の東京大空襲も同じです。東京だけではありません。長い歴
史と文化遺産のある奈良、京都の一部を除き、多くの都市で大勢の人々が殺
されました。日本の木造家屋を燃やしやすいように、B29という爆撃機か
らガソリンをまき、焼夷弾(建造物を焼き払う目的で使う、燃やす薬剤を入
れた投下爆弾や砲弾)を落としていったのです。しかも、命を奪われたほと
んどの人が、武器をもたない非戦闘員、ごく普通の市民です。
 
「永遠の0」でデビューした百田尚樹氏の作品に「海賊とよばれた男」があ
ります。第二次世界大戦から1970年代まで、石油の生産を独占していた
7社、国際石油資本「セブンシスターズ(7人の魔女)」と出光興産の創業
者、出光佐三(いでみつ さぞう)の戦いは、アメリカの戦略で石油を断た
れ、南方に侵出しなければならなかった、戦争を始めなければならなかった
恨みを晴らすかのような凄まじい闘魂には、涙なくして読めませんでしたが、
それ以上にショックを受けたのは、この数字でした。
 
驚くべきデータがある。財団法人「日本殉職船員顕彰会」の調べによれば、
大東亜戦争で失った徴用船は、商船3,575隻、機帆船2,070隻、漁
船1,595隻の計7,240隻。そして戦没した船員、漁民は60,00
0人以上に上る。彼らの戦死率は約43パーセントと推察され、これは陸軍
軍人の約20パーセント、海軍軍人の約16パーセントをはるかに上回る数
字である。自ら身を守る手段を持たない船乗りたちは、命懸けで貴重な物資
を日本に運び続けたが、それでも国内の需要を満たすことができず、国民は
慢性的な物質不足に苦しんでいた。
 (「海賊とよばれた男」 上巻 P373 講談社 刊) 
 
銃器や魚雷など武器を何も持たない船が、重装備をした軍艦に沈められたの
は、先にもお話しした日本の各都市をじゅうたん爆撃で徹底的に焼き尽くし
たのと同じではないですか。戦争で犠牲になるのは、国の根底を支える名も
無き普通の人々、つまり、私達です。平和ぼけしている日本人は、この事実
を忘れかけていないでしょうか。(合掌)
 
ですから、子どもに戦争の悲惨なこと、二度と繰り返してはならないことを、
しっかりと伝えておきたいのです。何とか主義や何とかという思想のもとで、
戦争反対を叫ぶのとは違います。平和運動さえ派閥ができ亀裂が生じます。
これも、争いを生むもとですから、用心しなくてはいけません。戦争は、ゲ
ームと違います。リセット、やり直しはできません。ゲーム・オーバーで、
本当に「ゲーム・セット」ですから。現代っ子は、いとも簡単に人を殺めま
す、殺します。人間は、お互いに、労わりあう心がなければ生きていけませ
ん。人間として、生きとし生ける者の掟、それは「共生」「ともいき」では
ないでしょうか。これを、責任をもって教えるのは、ご両親の大切な仕事で
す。
 
しつこく繰り返しますが、幼児期に必要なのは、知識を詰め込むのではなく、
情操豊かな子に育つ環境を作ることです。そこから、自分自身で考え、行動
する力が身につくからです。価値観が多様化し、「何でもありの人生観」を
もつのも自由ですが、「共に生きる」意識がぜい弱では、やはり、偏った考
えしか身につきません。などと年がいもなく青いことをほざいていますが、
恥をかくついでにもう一言、「共生の反対は自己中心、自己中」です。自己
中は、恥じることを知らない人のことです。ハードボイルドの作品は、刺激
が強すぎてあまり読まないのですが、レイモンド・チャンドラーの作品「プ
レイバック」には、「タフでなくては生きていけない。やさしくなければ生
きる権利はない」という忘れられない言葉があります。あまりにも強烈で座
右の銘にできませんが、心だけはタフでありたいと念じています。
 
ところで、1982年6月の国連軍縮特別総会で、ケロイドの広がる自身の
写真を振りかざしながら、「ノーモア・ヒバクシャ」を訴えた日本原水爆被
害者団体協議会の代表委員、山口仙二さんが平成25年7月6日に亡くなり
ました。核兵器の犠牲者の存在を世界に知らしめた、鬼気迫る歴史的な瞬間
でしたが、どれだけの人がその業績をたたえ、冥福を祈ったでしょうか。
 
2016年5月27日、オバマ大統領は、原爆慰霊碑の前で演説をしました
が、その碑に刻まれている「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませ
ぬから」は、核保有国が言うべき言葉ではないか。その国の首脳者こそ、国
立広島原爆死没者追悼平和祈念館に足を運び、地獄絵図を見るべきではない
か。大統領が爆心地を訪問したとはいえ、核兵器の廃絶を、本気になって考
えた人々が、世界中にどれほどいたか、そのことを思うと、暗澹たる気持ち
にならざるを得ません。2017年7月に採択された「核兵器禁止条約」、
核保有が戦争の勃発の抑止力になる、アメリカの核の傘の下にいるから安全、
だから日本は賛成しないでは、持った方が勝ちの世界になります。何時まで
たっても国の安全をアメリカの力に頼っていては、本当の独立国といえない
でしょう、情けない。
 
戦後、73年を迎え、戦争も原爆も、何やら遠い昔の出来事として、風化さ
れているのではないでしょうか。しかし、忘れてはならないことです。事実
は事実として、きちんと語りつがれなければ、戦争のために亡くなった人た
ちは浮ばれませんし、申し訳ないではありませんか。これこそ、「現代の民
話ではないだろうか」と、今月に紹介する本の解説者、米屋陽一氏はおっし
ゃっています。
 
浅はかにも、万物の霊長などと威張っていますが、人間だけではないでしょ
うか、殺し合うのは。
それも、憎しみをこめて、徹底的に……。他の動物も同じ仲間同士、争いま
すが、負けのサインを出すと、攻撃しないものです。満腹のライオンは、し
ま馬がそばを通っても襲いません。本当に、人間って、不思議な動物です。
極限状態になると、何をしでかすかわからないのですから。宗教と民族の問
題がからむと、必ず、泥沼に落ち込みます。  
ニューヨークにある世界でも有数なブロンクス動物園には、鉄格子をはめ込
んだ檻、「鏡の間」があり、その前に立つと、人間の上半身が鏡に映り、そ
の鏡の上には、こう書かれてあるそうです。 
THE MOST DANGEROUS ANIMAL IN THE WORLD
(世界で最も危険な動物)
 
2016年7月1日、バングラデシュの首都ダッカで起きた武装集団のテロ
事件、被害に遭われた7名の同胞の方々に、何の落ち度があったのか。2度
とあのようなテロ事件を起こしてもらいたくない。
テロも怖いが、直ぐ近くに、核弾頭を装填したミサイル開発に力を入れてい
る国があることに、もっと恐怖を感じなければいけないのではと思いますが、
若い皆さん方は、どうお考えでしょうか。米朝会談、その成果はこれからで
しょう。
 
ところで、少しひっかかる言葉があります。「終戦記念日」です。
これで、親父と大げんかになったことがありました。
「敗戦記念日ではないのですか」
「ばか者! わが日本は、神州不滅の国や。日本は敗けん。天皇陛下様にお
かれては、人民の犠牲をすくのうするために、戦いをお止めになさったの
や!」
アジアの国々を戦火に巻き込んだモンスターの正体を確認しなければ、「戦
争を起こした東洋の鬼畜」と非難だけされ、やがてこの国は、元気のない国
に成り下がってしまうのではないでしょうか。
 
国際化などといわれていますが、自国が起こした戦争だからと、むやみに平
身低頭して謝るだけでは、他国から馬鹿にされるだけです。きちんとした見
識をもっていなければ、国際人として通用しないことを、もっと真剣に考え
るべきではないでしょうか。特に、これからの日本を背負ってたつ若い人達
は、自虐史観ではなく、自身の歴史観を身につける必要があります。「なぜ、
日本は戦争を起こしたか」、書店をのぞけば情報は山ほどあります。自分自
身のためです、わが子のためです。お読みになって、自身の考えを持ち、お
子さんに伝えるべきではないでしょうか。「水に流す」は、日本民族独特の
解決の仕方で、外国では絶対に通用しません。
渡部昇一先生の遺作となりましたが、「渡部昇一の少年日本史」(致知出版 
刊)」も、お薦めしたい1冊です。既刊の「[増補]決定版 日本史」(扶養文
庫刊)が基になっているのではないかと思いましたので、その本から紹介し
ましょう。これが自虐史観の正体です。
 
アメリカは、日本のような天然資源もない「持たざる国」がなぜ近代戦を戦
えたのかを分析し、「その源は日本精神にある」という答えにたどり着いた
のである。その「日本精神」を破壊するために、勝者が敗者を裁くという公
平性の全くない東京裁判で、「戦前の日本は悪い軍国主義で、侵略国家であ
る」と決めつけた。そして日本に戦争責任のすべてをなすりつけ、日本人に
自分たちが悪かったという負の意識を徹底的に刷り込んだ、いわゆる「東京
裁判史観」である。
    ([増補]決定版 日本史 P278 扶養文庫 刊)
 
 ところで、童謡に反戦歌があるのをご存知ですか。
 「里の秋」です。       
 
    里の秋
      作詞 斉藤 信夫   作曲 海沼 実 
 
      一 静かな静かな 里の秋
        お背戸に木の実の落ちる夜は
        ああ、母さんと ただ二人
        栗の実煮てます 囲炉裏端
 
      二 明るい明るい 星の空
        鳴き鳴き夜鴨の 渡る夜は
        ああ、父さんの あの笑顔
        栗の実食べては 思い出す
 
      三 さよならさよなら 椰子の島  
        お船に揺られて 帰られる
        ああ、父さんよ ご無事でと  
        今夜も母さんと 祈ります  
     *お背戸(裏口のこと)  
 
終戦の年(1945年 昭和20年)の12月に、NHKの「外地引き上げ同
胞激励の午後」という番組で発表された曲で、兵隊になって戦地に行ったお
父さんが、引き上げ船に乗って帰ってくる、その日を待っている親子の気持
ちを歌ったものです。確か、古賀さと子さんという、可愛い童謡歌手が歌っ
ていたと記憶しています。しかし、当時は、こういった歌であるとは知りま
せんでした。なぜ、反戦歌になるのか、疑問に思われる方、「里の秋」でア
クセスしてみましょう。
作曲者の海沼実は、児童合唱団「音羽ゆりかご会」の設立者で、川田正子、
孝子、美智子の三姉妹をはじめ多くの童謡歌手を育てたことでも知られてい
ますが、若い皆さん方には、「みかんの花咲く丘」「見てござる」「あの子
はたあれ」などの作曲者といった方が、うなずけるのではないでしょうか。
 
ところで、戦後、外地で苦労された人々の話はたくさん残されています。山
崎豊子さんの「不毛地帯」も忘れられない小説の一つですが、完成させてほ
しかったと悔やむ作品があります。平成26年2月に新潮社から1巻のみ発
売された「約束の海」です。“海上自衛隊の潜水艦と釣り船が衝突、若き士
官を待ち受ける苛烈な日々。その父は昭和16年、真珠湾攻撃で捕虜となり
生き残った特攻隊員、「この日本の海を二度と戦場にしてはならぬ!」”、
これがキャッチフレーズ。残念ながら山崎さんは平成25年9月29日に亡
くなり、未完の大作となってしまいましたが、残された構想を読むと3巻の
予定で、最後まで読みたくなりますね。(残念)
 
かつて、森村誠一氏が、友人であった「木枯し紋次郎」など380数冊の著
者、故笹沢佐保の絶筆となった未完の「海賊船幽霊丸」を完成させた例もあ
ります。「海賊と呼ばれた男」の百田尚樹氏に完成させてほしいと思ってい
たのですが、「殉愛」を読み、「違うかな?」と諦めました。……が、「カ
エルの楽園」を読み、Daybreakを叩きまくったHundredに再び
希望を抱き、「今こそ、韓国に謝ろう」を読み、「何とかなるのでは!」な
どと、またしても期待を持ってしまいました(笑)。
   (次回は、「なぜ、鳩は平和のシンボルなのでしょうか」などについ
てお話しましょう)

さわやかお受験のススメ<保護者編>第9章(3)七夕祭りでしょう 文月

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         「めぇでる教育研究所」発行
     2019さわやかお受験のススメ<保護者編>
         ~紀元じぃの子育て春秋~
     「情操教育歳時記 日本の年中行事と昔話」
       豊かな心を培う賢い子どもの育て方
           -第35号-
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第9章(4)  七夕祭りでしょう   文 月
 
【七月に読んであげたい本】  
七夕とお盆です。どちらも、その縁起話があるので、紹介しましょう。
 
◆天女のよめさま◆   常光 徹 著
 むかし、ある村の若い猟師が、沼のほとりで昼寝から目を覚すと天女が三人、
泳いでいました。若者は、木にかけてあったとび衣(羽衣)を一枚隠したので
す。水浴びが終わると、天女はとび衣を着て、天へ舞い上がって行きましたが、
隠された天女は天上に帰れません。若者は、泣いていても仕方がないと慰め、
家に連れて帰ったのです。
  やがて、天女は若者の嫁になり、三人の子どもが生まれました。ある時、
上の子が、むずかる下の子をあやす歌を聞き、その歌詞をヒントにとび衣を見
つけ、子どもを連れて、天上へ帰ったのです。家に帰った若者は、「会いたけ
れば、一番鶏が鳴く前に、わらじ百足分を肥やしにし、夕顔の種を植えてくだ
さい」との置き手紙を読み、わらじを作ったのですが、あと一足で夜が明けた
ので、わらじを埋め、夕顔の種を植え、眠ってしまいました。目覚めた若者が
見たのは、空に伸びた、夕顔のつるでした。これで、嫁や子どもに会えると、
犬を抱えて登ったのですが、もう少しの所で、つるは止まっていました。若者
は、犬を天上に放り上げ、しっぽにつかまり、天の庭に跳ね上り、家族と再会
できたのです。
 ところが、天上のじいさまは、若者を快く思わず、「四町歩の畑を一日で耕
せ!」などと難癖をつけるのです。その度に、嫁さまの助けで解決しますが、
最後は、うまくいきませんでした。うりの収穫が終わると、じいさまは、縦に
切れ(本当は横に切る)というので切ると、積んであるうりが、音をたてて裂
け、水があふれ出して大水となり、若者をのみこみ、流れていくのです。嫁さ
まは、毎月、七日に会いましょうと呼びましたが、若者は、七月七日と聞いて
しまい、それ以来、年に一度、七月七日に、二人は会うことになったのです。
  うりからあふれ出た大水が、夏の夜空に見える天の川になったのでした。 
七月のおはなし 「かっぱのおくりもの」 松谷 みよ子/吉沢 和夫 監修
      日本民話の会・編  国土社 刊
  
同じような話に、鈴木三重吉の「星の女」があります。馬車や蜘蛛(くも)の
王様が出てくるので、「羽衣伝説」は日本の他にあるのかなと、不思議に思っ
たことを思い出します、何しろ、天女には、三保の松原が、最もお似合いの場
所だと信じていましたから。世界文化遺産に登録された富士山、三保の松原か
ら見た富士の姿は、見た人でなければわからないのではと心配していましたが、
わかっていた方が大勢いらっしゃったということですね。約7kmに渡る海岸
線に、およそ5万4千本の松が茂る、国指定の名勝、絶景です。富士山につい
ては、8月に詳しくお話しします。
鈴木三重吉には、立ち往生したソリで過ごす少年の素晴らしい知恵を描いた「少
年駅伝夫」、肉屋と野良犬の心温まる生活を描いた「やどなし犬」など、子ど
もたちに読んでもらいたい作品が残されています。
 
この話から、「ジャックと豆の木」を思い出しませんか。何回もいいますが、
人間、どこに住んでいても考えることは同じなのです。そう思うと、何やらう
れしくなります。本当は、心のやさしい生きものなのです、人間は。ところで、
「ジャックと豆の木」に出てくるのは「鬼」でしょうか、それとも「大男」で
しょうか。
 
◆お盆のはじまり◆
 七月十五日は、祖先や亡くなった人たちの霊をなぐさめるお盆の日です。お
盆の縁起を伝える話が残されています。
 お釈迦さまに、目蓮上人という神通力にたけたお弟子がいて、修行中に息を
引きとり、あの世へ旅立ちました。死んだお母さんに会いたいと思い、三途の
川を渡り、閻魔大王のいる関所に着き、母に会わせてくれるよう、願い出たの
です。大王は、上人を、湯が煮えたぎる大きな釜の所へ連れていきました。釜
の中では、釜茹の刑を受ける人達がうめき、叫び声を上げていたのです。上人
が、母の名前を呼んでいると、釜の中から一匹のカメがはい上がり、「私がお
前の母だ」というのです。その訳を尋ねると、お前が可愛くて、賢いことを自
慢し、お前さえ長生きすればよいと罪深いことばかり考えていたからだという
のです。上人は、お母さんを助ける方法はないかと尋ねると、毎日、石に一字
ずつお経を書き、それからお経を読んでと言いかけたとき、番人の鬼がきて、
カメを湯の中へ投げ込んでしまい、二度と姿を見せません。そこで上人は、大
王にお礼を言うと、不思議なことに、再びこの世に戻ってきたのです。
 次の日、上人は神通力で、八千人もの羅漢(悟りに達した仏教の修行者)を
集め、一つ一つの石に、一字ずつお経を書き、お母さんのために、盛大な供養
を行ったのです。すると、紫雲たなびく天上遥かから、「お前のおかげで極楽
浄土へ行けるようになったよ」というお母さんの声が聞こえてきたのでした。
上人は、その後、毎年、七月十五日になると、お灯明をあげ、祭壇に新鮮な野
菜を備え、お母さんや祖先の供養をしたそうです。
 これが、お盆の始まりだそうです。
日づけのあるお話 365日     七月のむかし話 谷 真介 編・著
 金の星社 刊
 
この話を聞くたびに、私は「子煩悩」という言葉を思い出します。この言葉か
ら、子どもをかわいがる親のイメージを持ちがちですが、本当はそうではあり
ません。煩悩とは、「心身にまといつき心をかき乱す、一切の妄念・欲望」(岩
波国語辞典)のことです。「子煩悩」は、「子は煩悩のもと」と考えるべきな
のです。すると、目蓮上人のお母さんが、なぜ地獄へ落ちたかわかります。「お
前のことが可愛くて、可愛くてね。お前が賢いことを人に自慢ばかりしていた
のじゃ。他の人は早く死んで、おまえだけ長生きしてくれればいいと、罪深い
ことばかり考えていたからだよ」。
少子化時代のお母さん、過保護な育児をしていると、「子煩悩地獄」に落ちま
す。被害者は、お子さん自身であることに、早く気づいてほしいものです。
 
また、「子ゆえの闇」という言葉があります。
    
「人の親の 心は闇に あらねども 子を思ふ道に まどひぬるかな」   藤
原 兼輔 
親の心は普段は正しいが、子どものことを思うときだけは、迷いが生じてしま
う、という意味の歌である。ここから「子ゆえの闇」という言い方が生まれた。
どんなに理性的な人でも、ことわが子が置かれた環境や将来の話になると思慮
分別をなくしてしまう……子を持つ親なら、そういう気持ちはよく理解できる
はずである。早い話が親ばかだが……。
(知らない日本語 教養が試される341語  谷沢永一 著 幻冬社 刊 P57)
 
「早い話が親ばかだが……。」わかっていますが、つける薬はないということ
ですね。目下、孫バカにはまりそうで、自戒しています(笑)。
 
話に出てきた「羅漢」、小江戸と呼ばれる川越市の喜多院の境内にも、五百の
羅漢さんがいらっしゃいますが、同じ顔は一つもないそうです。喜多院には、
家光誕生の間や春日局が使っていた化粧の間があり、時の鐘、蔵造などと共に
欠かせない観光スポット。
なぜ、春日局が家光の乳母になれたのか、その訳は本能寺の変にあったのです。
本能寺の変は、信長が光秀に命じて家康を討つ手はずが狂い起きたもので、「な
ぬ!」と目をむきたくなる事実を、光秀の子孫にあたる明智憲三郎氏が「本能
寺の変 431年目の真実」(文芸社文庫 刊)で解き明かしています。
なぜ、あの用心深い信長や家康が、わずかな手兵で本能寺へやってきたのか、
(家康を油断させて光秀に討たせるため)。なぜ、秀吉があれほど速く戦場か
ら引き返し光秀を討つことが出来たのか、(計画を知っていた)など、驚くこ
とばかり。謀反を事前に察知した家康は岡崎に帰り、甲斐、信濃の織田家に敵
対行動に出たが、光秀は秀吉に討ち取られる。加担した家康のことを知ってい
たが、口を割らずに処刑されたのが光秀の重臣であった斉藤利三、その娘がお
福で後の春日局。感謝の意味で乳母にしたとのことで、単細胞の私は、納得し
てしまいました(笑)。
 
そして光秀が本能寺の変の前に詠んだ連歌の発句、「時は今天が下しる五月か
な」の「時」は「土岐一族」で、「天が下しる」は「天下を治(し)る、統治
する」、「六月には天下を取る」という意味で、光秀の謀反は土岐氏にとって
は再興の戦い。これは秀吉が書かせた「惟任退治記」にあるもので、この本を
もとに脚色され世に出たのが「明智軍記」、司馬遼太郎の「国盗り物語 全4
巻(新潮文庫 巻)」は、これを使ってベストセラーになったそうです。
 
本能寺の変は、秀吉、家康、幽斎の3人がかかわったことだが、光秀一人に責
任を負わされたと結ぶ。膨大な資料と子孫の意地が、ここまで切り込むことを
可能にしたのでしょう。何が起きてもおかしくない戦国時代、まだ新たな事実
を知る機会は残されていると思いました。(感謝)
 
それにしても不思議な存在が細川幽斎(藤孝)。長子、忠興の正室は、光秀の
妹、珠子、かの細川ガラシャ。再三の出陣の要請に応えなかった幽斎。「足利、
織田、秀吉、家康の4つの時代に生き、どの時代にも特別席に座り続けた、生
き方の名人」と司馬遼太郎は、「あとがき」で述べていますが、文武両道の達
人、戦国時代の生き様そのものに、度肝を抜かされますね。
蛇足ですが、松本清張の「火の縄」(講談社文庫 刊)では、珠子の違った性
格があぶり出されており、さすが巨匠とうなずかされる傑作もあります。
 
ちなみに、40万部売れたそうですが、「絶歌」は25万部売れたとか。パソ
コンで検索し、「神戸連続児童殺傷事件」(ウィキペディア)を読むと吐き気
をもよおすほど気分が悪くなり、自称、活字中毒気味の私ですが、読む気にな
れません。(激憤)2015年のことでしたが、どうなりましたか。
 
次に紹介する話は、「ナヌ?」となるはずです。そうです、芥川龍之介の世界
です。こういった作品に出会うと、「やってくれるではないですか」とうれし
くなりますね。
 
◆にんじんのしっぽ◆   水谷章三 著
 むかし、けちなばあさんが、じいさんと隣同士に住んでいました。じいさん
が風邪を引き、薬にんじんを分けてくれと頼むと、一本あげるのを惜しみ、細
いにんじんを半分に折り、曲がったしっぽのところを、あげたのです。じいさ
んの風邪は治りました。その後しばらくして、ばあさんが死にました。行き先
は、地獄です。
 釜に投げこまれ、首だけ出して苦しみ、もがいていた時、天の神さまが、雲
に乗り通りかかったので、助けてくれと大騒ぎをしたのです。その声が神さま
の耳に届き、何か方法はないかと、使いの者を閻魔大王のもとへ走らせたので
した。困ったのは、大王です。ばあさんは、何も善いことをしていないからで
す。閻魔台帳を見ていると、やっと見つかったのは、隣のじいさんに、薬にん
じんをあげたことでした。大王は鬼に言いつけ、薬にんじんのしっぽを、使い
の者に渡しました。
 神さまは、「お前が人助けをした、にんじんのしっぽだ。これにつかまって
上がれ」と釜の上に降ろしたのです。それにつかまったばあさんを、神さまが
引き上げはじめました。釜から二本の足が出ると、右足に一人、左足に一人、
亡者が飛びついたのです。すると、四本の足に一人ずつ飛びつき、八本の足と
なり、十六人、三十二人と亡者が飛びつきます。ばあさんは、かなり上まで来
たと思い下を見ると、足の下に亡者がつながっているではありませんか。にん
じんが切れてしまうと、ばあさんが足をこねまわしたからたまりません。取り
ついていた亡者どもは、地獄の釜に落ちてしまいました。ばあさん一人になり、
天国に上れると思ったのですが、あと一息のところで、しっぽは切れ、ばあさ
んも地獄に戻ってしまったのです。そして、「人のこと、降り落とさねばよか
ったってか、どうかな」と、つぶやいたのでした。 
 九月のはなし   きのこばけもの 松谷みよ子/吉沢和生・監修
            日本民話の会・編 国土社 刊     
 
芥川龍之介の「蜘蛛の糸」と違うのは、ばあさんの最後の一言でしょう。お釈
迦さまが、犍陀多(カンダタ)の無慈悲な心を哀れんだのに対して、このばあ
さんの一声は、「人のこと、降り落とさねばよかったのではないのかだって、
どうかな。そんなことはわからないよ」と、ばあさん本人に言わせているとこ
ろがいいですね。後悔しないで開き直っています。昔話は、その時代に生きた
庶民の息吹を感じることができます。この話も意味深長ではないでしょうか。
人生を達観している気がします。こんなことをいうと、芥川龍之介のファンか
ら「生意気いうな!」とお叱りを受けそうですが、気の小さな私は、蜘蛛を踏
み潰さなかった?陀多の気持ちがよくわかりますし、このけちなばあさんのふ
てぶてしい言葉には、「さすが女性だな」と思うのですが、女性の方からブー
イングがあるかも知れません(笑)。こういった話に出会うと民話にも説得力
があり、読んでいて楽しくなります。
 
最後に、うなぎに関した面白い話があるのですが、パソコンで検索しても見つ
かりません。寺村輝夫氏の「とんち話・むかし話シリーズ」の「わらいばなし編」
(あかね書房 刊)ではないかと思います。題もうろ覚えで間違っているかも
しれませんが、こういった話です。
 
においの値段
 うなぎ屋さんの店の前に、舌を出すのもいやな、けちべえさんが住んでいま
した。昼時になると、けちべえさんは、お茶碗にご飯をいっぱいつめ、家の窓
をあけ、うなぎの焼ける匂いをかぎながら、美味そうにご飯を食べるのでした。
うなぎ屋さんはこれがしゃくで、何とかお金を取れないものかと考えていたの
です。
 ある日のこと、請求書を持って、けちべえさんの家に行ったのでした。
 「けちべえさん、あなたは、毎日、お昼になると、うなぎの匂いをかいで、
ご飯を食べていますが、うなぎはただではありません。匂い代を払ってくれま
せんか」
 「ああ、いいですよ。毎日、ご馳走になっていますから」
  といって、けちべえさんは、奥にいって、何と財布を持って出てきたでは
ありませんか。
 「いくらですかな?」
  驚いたのはうなぎ屋さんです。 けちべえさんが、お金を払ってくれるな
ど、信じられなかったからです。
  「1月分ですから、ちょうど○○です」
  「おや、安いものですな。じゃ、払いますよ」
   といって、お金を床に投げ出したのでした。チャリン、チャリンと音を
立てたのを聞いたけちべえさんは、
  「私は、匂いだけをかぎましたから、お前さんにもお金の音だけで払って
あげましょう」
   といって、お金を拾い、さっさと奥に入ってしまったのでした。
 
落語にも同じ話があったと記憶しています。これは、とんち話ですから、子ど
も達の方が知っているかもしれません。私たちの世代にとってとんち話は、エ
スプリを磨くといってはオーバーですが、子ども達には人気がありました。し
かし、本は手に入らず、ほとんど祖父母や両親から聞いたものでした。今は、
あふれるほど本は出版されていますから、読まなければもったいないですね。
この「もったいない」という言葉、粗末に扱われているのではないでしょうか。
子ども達に、きちんと教えたい言葉です。
 
環境保護と民主化に情熱を注ぎ続けたケニアのワンガリ・マータイさんは、20
11年10月25日に亡くなりましたが、2005年に来日、「もったいない」
という言葉に感銘を受け、「MOTTAINAI キャンペーン」を世界中に
広めました。本家が無駄遣いをしているようでは、マータイさんも浮かばれま
せん。
「節電」を徹底し、無駄な電力は使わず、原子力発電だけに頼らなくても生活
できることを、実証すべきで、絵に描いた餅のようでは、いざという時に役立
ちません。計画停電や食料品、飲料水が、店頭から姿を消してしまった日のあ
ったことを忘れては、また自然災害が起きた時、後手に回り、塗炭の苦しみを
味わうだけではないでしょうか。
マータイさんは、私と同じ1940年生まれで、他人事とは思えず、私なりに
「もったいないキャンペーン」を心がけています。
「人の心に火をともす」、キャンペーンは、かくありたいものです。
 
昨年、幼稚舎の説明会へ参加した折、毎年見られた七夕飾りが、ありませんで
した。幼稚舎の子ども達の短冊に込められた願い事を知る機会でしたが、残念! 
今年は、7月14日に参加しますが、ちょっと遅いようで、だめかも知れませ
ん。七夕飾り、やっていますか。
   (次回は「終戦記念日、このことです」についてお話しましょう)

さわやかお受験のススメ<保護者編>第9章(3)七夕祭りでしょう 文月

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         「めぇでる教育研究所」発行
     2019さわやかお受験のススメ<保護者編>
         ~紀元じぃの子育て春秋~
     「情操教育歳時記 日本の年中行事と昔話」
       豊かな心を培う賢い子どもの育て方
           -第34号-
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第9章(3)  七夕祭りでしょう   文 月
 
★★お盆って何の日、ご冗談を★★
人間は死ぬと仏様になり、その仏様をお迎えする行事をお盆だと思っていまし
たが、少し違うようでした。「盆と正月が一緒に来たような忙しさ」といいますが、
これは1年を半期ずつに分けた前期の始まりが正月で、後期の始まりがお盆だ
から、こういう使い方をするのです。
 
正月に、日頃お世話になった人々のところへ感謝と新たな年を迎えるにあた
っての抱負を胸に、年始まわりするのと同じように、盆には健在な親、仲人、
師などの親方筋を訪問し、心のこもった贈り物をする、盆礼という習慣があ
った。(中略)盆は満月の日、7月15日である。それが仏教の説く盂蘭盆会
(うらぼんえ)と一致し、仏教国家として次第に民衆の間に浸透し、(中略)
盆は7月15日の中元に吸収され、「盆と正月」は「盆暮」と姿を変えたのであ
る。
 (年中行事を「科学」する 永田 久 著 日本経済新聞社刊 P149)
 
日本に伝えられた盂蘭盆会は、推古天皇14年 (606)に初めて催され、聖武天
皇天平5年 (733)より、年中行事になったそうです。「盆と正月」が「盆暮」と言葉
を変えたのは、1年を半期ずつに分けた前期の終わりを盆、後期の終わりを暮
というようになったからです。それで盆は中元を、暮は歳末を意味するようになり、
盆にはお中元を、暮にはお歳暮を、お世話になっている人に感謝の気持ちを
こめて、贈り物をするようになったのです。
「お年玉」と同様、「お盆玉」があるんですね。昨年4月に亡くなられた渡部昇一
先生は山形の出身で、ある随筆に「発祥の地は山形、江戸時代からある」と読
んだ記憶があります。今年も孫にやろうと思っていますが、家内からは「甘いん
だから!」とからかわれています(笑)。
 
★★お盆の風物詩★★
お盆には、7月15日を中心に祖先の霊を迎えて送る行事、精霊祭(しょうりょう
まつり)があります。 
13日に迎え火をたきますが、これは仏様が、おがら(あさの皮をはぎ取った茎
のこと)を折って、たいた煙に乗り、盆灯篭(ぼんどうろう)の明かりを頼りに家に
帰ってくるからだそうです。おがらの足をつけたきゅうりの馬となすの牛を内向き
に並べて飾るのは、仏様は、馬に乗り、荷物を牛に背負わせて帰ってくるとい
われているからです。迷子にならないように、きちんとお迎えをする意味でしょう。
私のように、そそっかしい仏様もいるはずですから。
 
仏様を祭る棚を盆棚(精霊棚)といって、そこに真菰(まこも)を敷き、ほおずき、
ききょう、おみなえし、はぎ、山ゆりなどの秋の花を飾ります。こうして久しぶりに
帰ってきた仏様は、真菰にお座りになり、それを家族みんなで慰めるということ
でしょう。お供えは、畑でとれたものや、仏様が生きていたときに好きだった食
べ物も供えます。私でしたら「越乃寒梅」(幻の銘酒といわれた新潟の酒)を1合
だけ、お願いしたいものです。
 
そして、懐かしい自分の家で過ごした仏様は、7月16日には、お帰りになります。
これが送り火で、きゅうりの馬となすの牛は、今度は外向きに並べて、送り出す
ことになりますが、これも間違いなく彼岸の方へ帰ってもらうためでしょう。
 
広島の灯篭流しのように、送り火を小さな船に乗せて、お供え物と一緒に、川
へ流すこともあります。また、地方によっては、美しく飾られた精霊船に、仏様に
供えたものを乗せて、灯火をつけ、経文や屋号を書いたのぼりを立てるところも
あります。
 
送り火で有名なのが、京都の「大文字焼き」で、8月16日に行われていますが、
これは8月15日を旧盆として祭る風習が、残っているからです。7月の京都は、
まだ梅雨明け前です。しとしと降る梅雨空に、大文字焼きは映りがよくありませ
ん。やはり、しっかりと暑い8月だからこそ、風情があります。何やら風鈴の涼し
げな音と、蚊取り線香の匂い漂ってくる、そんな感じがしませんか。
 
ところで、澤田ふじ子さんの「公事宿事件書留帳シリーズ」は22巻になりました
が、その3巻目に、なぜ、大文字焼きは、大、左大文字、妙、法、舟形、鳥居か
らなっているか、その理由について、わかりやすい話が載っていましたので紹
介しましょう。
 
大文字と左大文字は、大乗仏教と小乗仏教をかたどり、妙と法は法華経
信仰に基づくもの、船形は七福神が船に乗って表されることから七福神、
または異国から到来した雑信仰を意味し、鳥居は申すまでもなく神道を
かたどったと考えたらいかがでござろう。
足利将軍義政公の頃、わが国は応仁の乱によって多くの人命が失われ申
した。京は死の町となった中から復興をとげました。それぞれ違った信
仰を持つ人々が集い、合議の末、かような行事を興したのではないかと、
私は考えております。
 (公事宿事件書留帳 三 拷問蔵  澤田ふじ子 著   幻冬舎 刊 P300)
 
平岩弓枝さんは江戸の「御宿かわせみ」(34巻 新シリーズ“7巻”)で、澤田さ
んは京都の公事宿「鯉宿」で、悪を懲らす時代小説(22巻)を書かれています
が、内容はいずれも、現代社会の悪行を暴いたものです。「罪を犯した厚顔無
恥な為政者は、さらし者にすべきだ」という澤田さんの憤りは、庶民の怒りであり、
読み始めると止まらなくなる事件書留帳です。茶道、立花、陶器、謡曲、日本
画、作庭など、京都文化に興味のある方必読の作品が、たくさん出版されてい
ます。蛇足ながら、11巻から始まった文芸評論家、縄田一男氏の解説が何とも
素晴らしく、毎回楽しみにしていたのですが、22巻でシリーズは終了。娘さん
の澤田瞳子さんが後を継ぐそうですが、残念ですね。しかし、「狐鷹の天(上
下) 徳間文庫 刊」を読み、十分に期待できそうでホッとしました。期待してい
ます!
 
本題に戻りまして、まだ、あります。盆踊りです。
これも、仏様を迎え、慰め、そして来年も間違いなく来てくださいと、送るために
捧げられたもので、中央のやぐらのまわりを輪になり、鉦(しょう)と太鼓と笛に合
わせて踊ったのです。今では、地域のコミュニケーションの場となり、夏に欠か
せないイベントの1つになっていますが、親子で「ドラえもん音頭」に合わせて
踊られてはいかがでしょうか。
 
余談になりますが、男子だけの立教小学校の入学試験に踊りを取り入れていま
す。照れ屋で、はにかみ屋で、小心で、用心深い男の子を躍らせるのは難しい
ことですが、お父さんが一緒に踊ってあげれば踊ります。盆踊りは絶好のチャ
ンス、受験を考えているお父さん、頑張ってください!
 
「やっとさー!」の掛け声も楽しい徳島の阿波踊りは、ものすごい迫力
で、夏の風物詩に欠かせません。東京の山の手、高円寺の阿波踊り、今では
すっかり定着して名物になっていますが、何だかおかしな気がしないでもありま
せん。しかし、下町の浅草では、ブラジル生まれのサンバ大会をやっています
から、おかしくないのでしょう。このサンバですが、みなさん上手です。「タンタン
ターン、タタンタターン♪」のリズムを完全にこなし、お見事の一言です。それも、
かなりの年配の方が、きちんとリズムをこなしています。しかも、実に楽しそうで
す。年配の方は、頭に手拍子、アクセントのある民謡でなければ、踊れないと思
っていましたが、認識を改めなくては怒られますね。本場のブラジルから応援
にきている女性軍団の踊り、リオのカーニバルのものすごさを想像させてくれま
す。
 
雷門から見つめる風神と雷神、仲見世を約300メートル行ったところにある宝
蔵門にどっしりと構えた仁王の目には、どのように映っているでしょうか。仁王の
お守りする御本尊は、宝蔵門の手前の浅草寺幼稚園の側にある「浅草寺縁
起」の絵で見ただけですが、小さな、小さな、何とも美しい観音様だからです。
この観音様は、信仰上の理由から普段、人には見せない秘仏ですが、長い間、
「実際に見た人はいないのではないか」といった話を小林秀雄と松本清張の対
談で読んだものと思っていました。ところが、今読んでいる梅原猛氏の影響を
受け、日本の神道と仏教の関係を調べようと、五木寛之氏の「百寺巡礼」(全10
巻 講談社 刊)を読み直していたところ、何と5巻目の「関東・信州編」の「41
番 浅草寺」に、この観音様の話が出ているではありませんか。明治に入り廃仏
毀釈の機運が高まった明治2年、役人が天皇の命令、勅命により厨子を強引
に開けさせたそうです。
 
すると、予想に反して、そこには確かにご本尊が祀られていたのでおそれい
った役人は、大切にせよと命じて、あわてて立ち去ったそうだ。これは松本
清張と樋口清之の共著「東京の旅」に書かれた一節だが、この話には続きが
ある。その時、手早い役人のひとりが、秘かに本尊をスケッチしてしまった
のである。このスケッチは昭和に入ってから遺族の手で寺に返され、今は浅
草寺が所蔵しているらしい。そのスケッチを見た人の話、というのが記され
ていた。焼けた跡がうかがえる高さ20センチほどの観音像で、両手が失われ
ていた。しかし、その意匠から、奈良時代頃の像であることは違いないという。
 (百寺巡礼 第5巻 関東・信州編 P20 五木寛之 著 講談社 刊)
 
五木氏も「秘仏が実在した記事を読み、ホッとしたような、がっかりしたような、妙
な気持ちだった」と書かれていますが、両手足が失われていたと知り、おいたわ
しい気持ちに落ち込み、浅草寺幼稚園のすぐそばにある「浅草寺縁起」の絵で
見たお姿を思い浮かべ、世の中、知らずに済めば、それに越したことはないも
のがあることを体験してしまいました。10月の神無月に紹介しますが、自説の
誤りに気づき出雲大社に出かけ、大国主命(おおくにぬしのみこと)に詫びた
梅原猛氏の謙虚な姿勢には頭が下がりました。スケールは大違いで恥ずかし
いのですが、私も真似て「小林秀雄と松本清張」ではなく、「松本清張と樋口清
之」の間違いであったことをお詫びいたします。何しろ、10年近く、自慢げに嘘
を書いていたのですから。(反省)
 
ところで、浅草寺には2つの大きな提灯があり、浅草のシンボルとして親しまれ
ています。入口の雷門には、「雷門」と書かれた提灯があり、高さ3.9メートル、
直径3.3メートル、重さ約700キロもあるもので、1865年に火災で焼失したも
のを、1960年に松下電器創業者の故松下幸之助の寄贈で95年ぶりに再現さ
れたものです。現在の提灯は6代目で、約10年ごとに新調されているそうで
す。
宝蔵門には「小舟町」と書かれ提灯があり、約4メートル、重さ260キロで、今か
ら300年ほど前に、日本橋の小舟町魚問屋の信徒が、江戸っ子の心意気を示
そうと、日本一大きな提灯を寄進したことから始まり、浅草寺の伝統として受け
継がれています。
 
ちなみに、浅草寺は正式には金龍山浅草寺といい、都内最古の寺院で、年間
約3千万人の参詣者が訪れます。民間信仰の中心地としてにぎわい、最近は、
外国人の姿も多くなっているようです。
 
余談になりますが、浅草寺のおみくじ、裏側は英語で書いてありますね。これだ
け多くの外人観光客が訪ねてくるのですから、浅草寺だけではないでしょうが、
知りませんでした。引いたおみくじは、ラッキーにも大吉で、“BEST 
FOUTUNE”と書いてありました。
 
少し脱線します。
観音様は、あのお顔といい、なまめかしいお姿といい、仏様に性別があると申し
上げるのも不謹慎なことですが、恥ずかしながら女性の仏様だと思っていたの
です。バカですね、笑ってください。先日、千葉県市川市にある国府台女子学
院に安置されている慈母観音様を拝見する機会に恵まれ、そのお姿が何とも
素晴らしく、後期高齢者の私は、はしなくも、しばらく見とれてしまいました
(笑)。
 
 本学院の「慈母観音」は女子校に飾られるということで、ご尊顔も一見笑み
を浮かべた女性のようで、おからだも柔らかく表現されているが、芳崖の「悲
母観音」のお顔に顎鬚が描かれているように、観音様は基本的には男性(正確
には性別を超越した存在)である。本学院の慈母観音像も胸元のあらわな装束
をお召しだが、これもこの理由だからである。誤解無きように。(笑)
  学院長 平田 史朗 (「国府台女子学院 広報 第157号」より)
 筆者注 顎鬚(あごひげ)
     芳崖 狩野芳崖のことで、幕末から明治期に活躍した日本画家で
     近代日本画の父。
 
慈母観音の作者、横江嘉純は、重要文化財に指定されている芳崖の「悲母観
音」を手本にしたそうですが、片手に水瓶(みずがめ)を提げ童子を慈しむお姿
は、女子校にぴったりの雰囲気をかもし出していました。氏は、アガベの像(東
京駅前)、愛の像(青山学院大学間島記念館)、祈りの像(広島平和記念公園)
などの作品で著名な彫刻家です。女子校の、しかも中高の校舎の正面玄関か
ら入った右側にある図書室の前に安置されていますから、残念ながら、いつで
も、気軽に、ご尊顔を拝することはできません(笑)。ところが、新装なった学園
の講堂、寿光殿は、中高の校舎内にあり、説明会はここで行われていますから、
参加するとお会いできることになったのです。「彦星と織姫と同じではないです
か!」と不謹慎にもつぶやき、希望を抱き、今年も明日、ご対面してきます。(感
謝)
 
★★お神輿と山車の違い★★
浅草といえば「三社祭」、浅草寺の境内は、神輿(みこし)を担ぐ人で、ごった返
します。威勢よく担ぐ神輿は、上下左右に激しくゆれ、よくぞ怪我人が出ないも
のだと心配になるほど殺気だち、恐いほどです。
この神輿のいわれですが、時代劇でよく見かけるように、昔、身分の高い人は、
輿(こし)といわれた台に乗り出かけていました。神輿は、つまり、「神の輿」であ
って、神様の乗り物なのです。そして、お乗りになっている神様は、激しくゆさ
ぶられるのが大好きで、激しければ激しいほどご機嫌になるといわれ、そのた
めに、元気よく担ぐのだそうです。
山車は、祇園祭などでお馴染みですが、四月の桜の時に紹介しましたように、
神様は、冬になると山に帰り、春になると下りてくると信じられていました。
 
お祭りには、神様が必要ですから、来ていただくために、お迎えするための
乗り物が必要だったわけです。そのため、祭りには移動式の山が作られたの
です。これさえあれば、祭りに神さまを招くことができると考えられていました。
その後、形が変わり「山車(だし)」になっても、山の字が残ったのです。
 (心を育てる 子ども歳時記 12か月  監修 橋本裕之 講談社 刊 P66)
 
ところで、神様にも悪い神様がいたそうです。
夏祭りの神様は悪い神様で、病気や飢饉などを起こさないように、神輿を激しく
揺さぶり、ご機嫌を取って、山に帰ってもらい、災いを未然に防ぐ、昔の人の知
恵だったのです。日本の三大祭といえば、東京の神田祭、大阪の天神祭、コン
チキチンコンチキチンのお囃子でおなじみの京都の祇園祭ですが、祇園祭の
主役である牛頭(ごず)大王は、地獄にいるという牛頭人身の獄卒で、有名な
悪い神様だそうです。
 
★★なぜ、土用の丑の日に、うなぎを食べるのですか★★
「土用」というのは、何も夏だけではありません。「節分」と一緒で年に4回ありま
す。前にもお話ししましたが、立春、立夏、立秋、立冬は、それぞれの季節の始
まりです。そして、それぞれの前の18日間を「土用」といい、その最初の日を
「土用の入り」といいます。土用は、四季、それぞれにあるのですが、なぜか夏
の土用だけが有名です。しかし、なぜ「丑の日」というのでしょうか。それは、そ
れぞれの日にちには、正月で取り上げた「十二支」の動物の名前がついている
からです。それで、夏の土用の内にやってくる丑の日のことを「土用の丑の日」
といいます。
 
ご存知のように、この日は夏ばてしないように、良質のたんぱく質、脂肪、ビタミ
ン、カルシュウム、鉄、亜鉛、DHA、ミネラル類などを含む、栄養のバランスの
すぐれたうなぎを食べる習慣がありますが、何とその歴史は古く、何しろ「万葉
集」の大伴家持の歌に、「夏バテに効果がある」と詠われています。読んでいる
と、思わず食べたくなる池波正太郎の食べ物に関するエッセーに、こういった
話があります。
 
かの万葉集に、
…石麻呂にわれ物申す夏痩せによしといふものぞ鰻(むなぎ)捕り食(め)せ…
という一首がある。大伴家持の歌だ。そのころから、すでに、うなぎの豊かな
滋養が知られていたことになる。この歌でうなぎのことをムナギといっているのは、
うなぎの胸のあたりの淡黄色からついた名で、それが転じてうなぎとよばれるよう
になったのだそうな。
 
奈良時代から、この日は、うなぎにとって、まさに受難の日であったわけです。
しかし、なぜ「土用の丑の日」に、うなぎなのでしょうか。丑の日ですから、ステ
ーキとか焼肉という感じがしますが、江戸時代ですから、まだ、牛肉は無理でし
ょう。事の起こりは、江戸時代の学者、平賀源内が、うなぎ屋の宣伝をしたのが
始まりといわれ、そのコピーは、「土用の丑の日はうなぎの日」だったそうです。
源内は、起電気であるエレキテルを完成させたことで知られていますが、その
他、本草学者(薬用に重点をおいて、植物や自然物を研究した中国古来の学
問)、劇作家、発明家、科学者、陶芸家、画家、工学者として一流でしたから驚
きです。非常に多才な方で、まさに江戸のレオナルド・ダ・ヴィンチ的な存在で
あったわけです。源内のパトロンが、時の老中、田沼意次です。
 
私事で何ですが、池波正太郎の愛読者の一人で、「鬼平犯科帳」「剣客商売」
「仕掛人梅安」 など、何回読み返しても飽きません。この「剣客商売」の主人公、
秋山小兵衛の息、大治郎のお嫁さんが、田沼意次の実の娘、佐々木三冬です。
正妻の子でなかったために、佐々木家の養女となって登場しますが、女剣士、
妻、母親と変貌していく中で、物語に欠くことのできない重要な役目を果たして
います。意次は世評とは逆に、まつりごとに忙殺される政治家として描かれてい
ます。秋山小兵衛は、藤田まことの当たり役で、明治座で見たことがあり、歌が
うまいのにはびっくりしましたが、冥界に旅立ち、二度と見ることができなくなりま
した。
NHK大河ドラマ「真田丸」好評でしたが、氏にも「真田太平記」(新潮文庫12巻)
があり、言うまでもありませんが、傑作です。
 
ところで、江戸時代は4本足の獣を食べなかったのですが、「うさぎは、ぴょん、
ぴょん飛ぶから、あれは鳥だ!」といって食べていたのです。ですから、うさぎ
は1羽、2羽と数え、それが今も残っているのですが、子どもたちには、よく理解
できない数え方になっています。哺乳類を食べることを禁じていた仏教の影響
でしょうが、とんだところで、子どもたちを悩ませているようです。
この数詞ですが、日本語は難しいですね。1本、2本、3本、1匹、2匹、3匹とふ
えるに従い読み方が違い、4本、4匹以下が、また違いますし、花にしても、1本、
1輪、1束、1鉢、1株などと分けて使っていますから、外国の方には、魔法のよ
うに思えるようです。それだけ、物に関する感性が、繊細だということですね。 
 
7月は、紀貫之の三十一文字で始まりましたから、最後は、俵万智さんの作品
から一首。
  「この味がいいね」と君がいったから七月六日はサラダ記念日
7月6日は七夕の前日、この日だからいいのですね。バレンタインデーやクリス
マスイブでは、サラダ記念日は訴える力に欠けます。「わたくし流」ですから正し
い解釈かどうかわかりません。五七五七七に、こだわってみました。
      この味が いいねと君が いったから 
                七月六日は サラダ記念日
 
ところで、長い間、同じような感覚として、歌人で国文学の巨匠、土岐善麿 
(1885ー1980)作の「あなたは勝つものと……」を紹介していたのですが、とんで
もない誤解をしていたことを思い知らされました。「終戦の日を迎えて」と題した
コラムに、終戦後に詠んだ歌との解説があったのです。
 
  あなたは勝つものとおもってゐましたかと老いたる妻のさびしげにいふ
 
「短歌研究 昭和21年3月号に掲載された「会話」という連作の冒頭の歌で、
次に、
「子らみたり召されて征(ゆ)きしたたかひ敗れよとしおもいのべるべかりしか」
という歌が続いていることはあまり知られていない。戦争に負けることは、味方の
犠牲が大きいということだから、戦争に行っている3人の子どもが死ぬことにつな
がる。親として子の死につながる敗戦を願うわけにはいかない、というわけである。
(コラム[紙つぶて] 筒井清忠 帝京大教授 東京新聞夕刊 
平成25年8月15日)
       
「老いたる妻のさびしげにいふ」理由が、敗戦だけではないことがわかり、「万智
さん以上に新鮮な感覚ですね、などとほざいては、どやされかねません。読み
流してください」などと、したり顔で紹介していたことが恥ずかしくなりました。(懺
悔)
 
今年の土用の丑の日は7月20日(金)と8月1日(水)ですが、我が家の食卓に
も、久しぶりに姿を見せるのではないかと期待していますが、……高そうですね
(笑)。
蛇足ですが、天然うなぎの旬は、産卵前の秋から冬にかけての時期で、「秋の
下りうなぎ」といわれているそうです。そういえば、下り鰹(戻り鰹)も脂がのり美味
しいですね。
(次回は「7月に読んであげたい本」についてお話しましょう)

さわやかお受験のススメ<保護者編>第9章(2)七夕祭りでしょう 文月

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         「めぇでる教育研究所」発行
     2019さわやかお受験のススメ<保護者編>
         ~紀元じぃの子育て春秋~
     「情操教育歳時記 日本の年中行事と昔話」
       豊かな心を培う賢い子どもの育て方
           -第33号-
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第9章(2)  七夕祭りでしょう   文 月
 
★★なぜ、仙台の七夕は、8月なのですか★★
津波のもたらした痕跡が一掃されない被災地の皆様方には、七夕どころではな
いでしょうが、子ども達には、待ちかねている夏祭りではないでしょうか。昔
のように祭りを楽しむ日が一日でも早く戻ることを祈ってやみません。ゼウス
がパンドラに持たせた、あらゆる災いが詰まった箱(壺)を開けてしまい、中
から様々な災いが飛び出し世界中に散っていき、急いでふたをしたので希望だ
けが箱に残り、それから人間は酷いことにあっても希望を持つようになったと
いうギリシャの昔話「パンドラの箱」ではありませんが、希望の杖が、次第に
弱くなっているような気がします。追い打ちをかけるように発生した熊本地震、
人間は自然を征服できるわけがなく、共存共栄に徹しなければ、といっても何
ら具体的な考えは思い浮かばないのですが……。
 
それはともかくとして、仙台の七夕は、8月に行われています。竿燈とねぶた
を合わせて、東北の三大夏祭りですから、華やかです。何しろ街中が、七夕の
飾りで埋まっている感じがします。しかし、素朴な疑問ですが、何だかおかし
くありませんか。七夕は、五節句の一つ「七夕」(しちせき)ですから、七月七
日と、七が二つ重なるところに意味があるのではなかったでしょうか。
 
  七夕を「たなばた」と読むのはなぜだろう。「たな」は棚で、「はた」は機
である。7月7日の夜、
  遠来のまれびと・神を迎えるために水上に棚作りして、聖なる乙女が機を
織る行事があり、
  その乙女を棚機女(たなばたつめ)、または乙棚機(おとたなばた)といっ
た。「七月七日の夕
  べの行事」であったために「たなばた」に「七夕」の字を当てたのである。
萬葉集には七夕は
  織女と書かれているが、新古今和歌集では七夕となっている。「七夕」の字
は平安時代に当
  てられたものであることがわかる。
         (年中行事を「科学」する 永田 久 著 日本経済新聞
社 刊 P121-122)
 
先生のご指摘では、仙台の七夕は「八夕」になります、何と読むのでしょうか。
冗談はさておき、これも訳ありなのです。         
 
年中行事は、日本で最後に使われた太陰太陽暦である天保暦で行われています。
現在、使われている暦は、明治6年から採用された太陽暦、グレゴリオ暦です。
この天保暦とグレゴリオ暦との日付の差が、最小21日から最大50日あって、
平均すると35日、グレゴリオ暦の方が進んでいます。
ですから、天保暦による旧7月7日は、現在の8月12日前後になるわけです。
そうすると、七夕は真夏の行事になります。ところが、天保暦によると、暦の
上では7月から秋、立秋です。七夕が過ぎると、秋風の吹く処暑です。
太陰太陽暦では、暦の上の月日と季節感と食い違いを起こすので、暦の月日と
は別に、農作業に必要な季節の標準を示したのが、二十四節気だったことを思
い出してください。仙台の七夕は、旧七夕に近い8月7日に行われ、盛夏の行
事になっていますが、天保暦に従った「ひと月遅れの七夕」で、旧七夕という
ことではありません。
 
  たとえば8月12日に旧七夕だとして、8月12日に七夕の行事を行うの
は、どうもしっくり
  来ない。七夕は七月七日という「七」に意味があるのであって、8月7日な
らば一ヶ月延ば
  して行うという感覚が働いて、何となく旧暦という言葉のなかに埋め込ん
でしまえばわから
  ぬながら納得しようというものであろう。(中略)平均35日進んでいる現
行暦を30日戻すこ
  とになるから、季節感としての行事は5日進んでいると考えればよいわけ
である。
        (年中行事を「科学」する 永田 久 著 日本経済新聞社 
刊 P134)
  
しかし、正月と盆の帰省ラッシュ、故郷にあるご先祖のお墓参り、何となく旧
盆という感覚がありませんか。東北の三大祭りとして親しまれている行事です
から、それで不都合はないのでしょう。
子ども達も、夏休みです。お父さんも、お母さんも休みをとって、お子さんと
一緒にリフレッシュする、もう夏の風物詩になっています。
 
ところで、この七夕のときに、雲一つない空を見上げて、天の川に感激した記
憶が、ほとんどありません。日本列島は、梅雨の真最中です。天保暦を使って
いた時代の人々は、大気汚染もなく、電気もありませんから、それこそ夜は、
漆黒の闇です。澄み切った夜空に浮かぶ天の川をはさんだ2つの星を、見てい
たのでしょう。プラネタリウムで、完璧に再現された人工の天の川を見るのと、
どちらに夢があるでしょうか。
どなたの言葉かわかりませんが、「その国の発電量は文化のバロメーター」であ
るとか。しかし、明るくなって失ったものもたくさんあり、七夕にロマンを感
じなくなったのもその一つで、犠牲者は彦星と織姫ですが、実害は何もありま
せんから、話題にもならないようですね。
 
★★そうめんと冷麦はどこが違うの★★
夏の風物詩の流しそうめん、何と、そうめんの1本1本が、機をおる織糸で、
流れる様子は天の川を表しているそうです。江戸時代の「日本歳時記」には、
七夕に索麺(そうめん)を食べる習慣があり、その由来は、中国の伝説による
と記されています。何事も、訳ありなのですね。年越しそばのところで触れま
したが、そばと薬味のねぎは、因果関係がありました。淡泊な口触りのそうめ
んには、生姜(しょうが)や茗荷(みょうが)の芳香が涼を誘い、食欲がます
ような気がします。      
 
平成26年の暮れに亡くなられた宮尾登美子さんは、「そうめん大好き人間」で
した。
 
   そうめんは姿かたちも、のどごしのよさも、いまだに昔ながらのものだ
が、食べ方や製法
  についてはかなりいまふうになって来ているらしい。ただ私はガンコな保
守派で、つけめ
  んなんてとんでもない、茹でた三年そうめんを、昆布とカツブシのダシ汁
のなかに泳がせ、
  上にちょっぴり柚子をすりおろすだけの食べかた。これを毎年五月から九
月まで皆勤賞
  をもらえるほど、もう五十年以上毎昼食食べつづけている。
                (生きてゆく力 宮尾登美子 著 新潮文
庫 P133)
 
但し、ご主人は、おろし生姜のみで、柚子は邪道といって、ゆずらないそうで
す(笑)。かくいう私は、つけめん派で、茗荷と生姜の二本立て、ぬる燗の日本
酒と相性がよく、夏だけではなく、常に欠かせない酒の肴の一つです。
この後に、「満州の難民収容所の前後だが、餓死一歩手前で、毎晩の夢に必ずそ
うめんを見たものだ」と続くのですが、こういった過酷な戦争の体験が、宮尾
さんの作家魂を支えていたのではないかと勝手に思い込みながら、平和な時代
に生きていることを感謝しています。自叙伝的小説の主人公、綾子に5度目の
再会ができると期待していましたが、実現しませんでした。彼岸の地でも「な
めたらいかんぜよ!」と、だし汁にそうめんを泳がせて食べているでしょうか
(笑)。「鬼龍院花子の生涯」の夏目雅子さんの喪服姿が浮かんできます。
 
全くの余談になりますが、昨年の暮から、「そうめんより太くうどんより細い半
田オカベの麺」に変更、これが滅法うまくて、はまり込んでいます(笑)。
 
この茗荷には、おもしろい話が残っています。
 
  茗荷という名前の漢字をよく見てください。この名前については次のよう
な逸話があり
  ます。釈迦の弟子の周梨般特(スリバンドク)は熱心に修行をする好まし
い人物でした
  が、物忘れがひどく自分の名前すらすぐに忘れてしまったそうです。そこ
で釈迦が首
  から名札を下げさせました。彼の死後、墓から見慣れぬ草が生えてきまし
た。生前自
  分の名を荷物のように下げていたことにちなんで、村人がこの草を「茗荷」
と名づけた
  という説があります。この話から、茗荷を食べると物忘れがひどくなると
いう俗説が生ま
  れました。        
(http://www2.odn.ne.jp/shokuzai/Myouga.htm より)
 
「名前を荷う」から「茗荷」とは、しゃれた名前を付けになったものですね。
物忘れが激しくなることはありません、俗説です。この俗説を利用して、泊ま
っている金持ちから預かったお金を忘れさせようと、茗荷をたくさん食べさせ
るのですが、その効果がまったくなく、逆に宿泊料を貰うのを忘れてしまった
という、落語のような昔話があります。そういえば、東京メトロ丸ノ内線に「茗
荷谷駅」がありますが、江戸時代には、たくさんの茗荷畑があったそうです。
 
ところで、そうめんといえば冷麦を連想しますが、どこが違うのでしょうか。
太さの違いと思っていましたら、そんな単純なことではありませんでした。困
ったときの広辞苑によると、
「冷麦は、細打ちにしたうどんを茹でて冷水でひやし、汁を付けて食べるもの」
「素麺は、小麦粉に食塩水を加えてこね、これに植物油を塗り細く引き伸ばし、
日光にさらして乾した食品。茹でまたは煮込んで食する」
と製法の違いがありますが、うどんの仲間なのですね。うどんの乾麺には、そ
うめんと同じように植物油が塗られています。            
 
でも、太さにこだわりますが、「なぜ、素麺は細いのかを正したい!」などと意
気込むほどのことではないでしょうが、JAS(日本農林規格)には、きちん
と、その違いがでているのには驚きました。
「切り口の直径が1・3ミリメートルより太いものが冷麦、それ未満の物が素
麺」となっています。切り口は、そうめんは丸く、冷麦は角っぽく見えます。
もう一つの疑問、冷麦には、なぜ、色のついた麺が入っているのでしょうか。
子どもの頃、母から冷麦とそうめんを区別するために、冷や麦には色のついた
麺が入っているのだと聞いたような気がするのですが、実際は、食感だけでは
なく、見た目にも涼しさ、さわやかさを感じて食べて頂くために、数本ずつ色
麺を入れているそうです。数本しか入っていませんから、兄と取りっこをした
ものでした(笑)。
 
★★七夕は、お盆の始まりの日です★★
七夕というと、何やら願い事をし、豪華な飾りものを楽しむ観光イベントとい
う感じになっているようですが、本来は、7月は、正月と同じで、ご先祖様が
帰ってくるお盆の月なのです。
7月7日を「七日盆」といって、お盆の始まりの日です。
 
  七夕は盆の行事の一環として、先祖の霊を祭る前の禊(みそぎ)の行事であ
った。人里離
  れた水辺の機屋に神の嫁となる乙女が神を祭って一夜を過ごし、翌日に七
夕送りをして、
  穢れを神に託して持ち去ってもらうための祓えの行事であった。盆に先立
つ、物忌みの
  ための祓えであった。
        (年中行事を「科学」する 永田 久 著 日本経済新聞社 
刊 P122)
 
それと同時に、七夕は、畑作物の収穫祭のイベントでもあったのです。何とい
っても日本は、自然まかせの農耕民族で、いたる所に神様がいます。収穫祭は、
神様への感謝のお祭りでした。まだ、麦を中心としてあわ、ひえ、芋、豆が主
食の時代ですから、麦の実りを祝って、きゅうり、なす、みょうがなどの成熟
を神様に感謝したのです。この時に人々は、神様の乗り物として、きゅうりで
作った馬、なすで作った牛をお供えしました。それがお盆の行事の盆飾りとし
て、ご先祖様の乗るきゅうりの馬と、なすの牛に引き継がれているのです。
                       
これは、私にも飾った記憶があります。こういった収穫祭とお盆を迎える「は
らえ」の信仰が、中国の星の伝説や「乞巧奠」の風習と混ざり合って、今の七
夕の行事ができたのです。しかし、先程もいいましたが、お盆は、8月の民族
大移動の15日前後、というイメージが強いのではないでしょうか。 
 
今回、「みそぎ(禊)」と「はらえ(祓え)」が出てきましたが、「みそぎ」とは、 
「身滌(禊)」の略されたものといわれ、身に罪や穢(けが)れがあるときや、
神様にお祈りするときに、川や海で身を洗い清め取り除くことで、「はらえ」は、
神様に祈って罪や穢れ、災いなどを除き去ることで、神社で行われ「おはらい」
です。本質的には同じことで、「みそぎはらえ」ともいわれているようです。
ところで、「お払い箱にする」という言葉がありますが、そのいわれはこれで、
伊勢神宮が全国の信者に配っていた厄除けのお札を入れた箱を「御祓箱」と
いって、毎年、お札を新しく替えることから、「祓い」と「払い」をかけ、古
いものを捨てることを「お払い箱にする」といったそうです。何事も訳あり
なのですね。
 
最近、梅原猛氏の本を読みあさっていますが、この「みそぎはらえ」は、も
っと血なまぐさい政治上の儀式でもあったようで、何とか10月の神無月ま
でに結論を出したいと思っています。哲学者の解き明かす歴史上の事件は、
何とも凄まじく、のめりこむ一方で、藤原鎌足の子、藤原不比等は天智天皇
のご落胤であるとか、「竹取物語」でかぐや姫に求婚する倉持皇子のモデルで
あるとか、不比等が何やら大きなカギを握っているよう思われ、スライド式
の本棚の裏側に、眠りこけていた「古事記」と「日本書紀」を引っ張り出し、読
むはめになってしまいました(笑)。
「記紀」は読むのに根気がいりますが、「天皇家の“ふるさと”日向をゆく」(梅
原 猛 著 新潮社 刊)と「楽しい古事記」(阿刀田 高 著 角川文庫 
刊)は、古事記に出てくる現地を探るルポルタージュで楽しく読ませてくれ
る優れものです。
(次回は「お盆って何の日ですか、ご冗談を」などについてお話しましょう)
 

さわやかお受験のススメ<保護者編>第9章(1)七夕祭りでしょう 文月

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         「めぇでる教育研究所」発行
     2019さわやかお受験のススメ<保護者編>
         ~紀元じぃの子育て春秋~
     「情操教育歳時記 日本の年中行事と昔話」
       豊かな心を培う賢い子どもの育て方
           -第32号-
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第9章(1)  七夕祭りでしょう   文 月
 
物の本によると、文月(ふみづき)のいわれは、七夕の短冊に、字がうまくなる
ようにと書いてお願いをすることから文月になった、といわれているようですが、
七夕は、日本で始まったものではなく、中国から伝わってきた行事ですから、
これはおかしいとして、稲の「穂含月(ほふみづき)」「含月」からとする説もある
そうです。
 
★★何といっても七夕祭り★★
7月といえば、何といっても七夕祭りでしょう。
 
 たなばたさま
 作詞 林 柳波   作曲 下総 皖一
 
  一、 笹の葉さらさら       二、 五色の短冊
     軒端にゆれる           私が書いた
     お星さまきらきら          お星さまきらきら
     金銀砂子             空から見てる
 
何とものどかで、暑さも吹き飛び、夜空が浮かんできますね。
しかし、今はどうでしょうか。都会では、天の川も、逢瀬を楽しむ彦星も織姫星
も、よく見えません。
明かりのせいでしょう。プラネタリウムで見ると、あまりに鮮やかすぎて、イメー
ジが壊れそうですね。七夕は、古来、多くの人々に夢を与え続けた祭りの一つ
です。万葉集の中にも、星祭りとして七夕を詠んだ歌が残されています。かの、
紀貫之も一首、『新古今和歌集』に詠んでいます。
 
   七夕は 今や別るる 天の川 川霧立ちて 千鳥鳴くなり
 
「川霧立ちて 千鳥鳴くなり」、千鳥が鳴くのを、別れを惜しむ織姫の忍び泣き
と詠ったものでしょう。しかし、紀貫之が生きていた時代の田園風景を再現す
るのは無理でしょうが、残された和歌の世界で味わえるのは、やはり素晴らし
いことで、大切な文化遺産です。
「幾星霜」とはいささかオーバーですが、年月を刻んで受け継がれてきた文化
は、遺伝子として心の中に組み込まれているようで、日本人には和歌や俳句
を作ることもその一つではないでしょうか。小学生になると、特に教えなくても、
「五七五」の俳句を作るのですから。
 
さて、その七夕ですが、ご家庭で、短冊に願いごとを書いて、笹に飾り、お祝
いをしているでしょうか。30号で紹介しました「季節のことば36選」でも、七夕
祭りは選ばれていませんでしたが、幼稚園や保育園、小学校での夏のイベン
トになってしまったようです。それはさておき、七夕祭りの事の起こりは、中国
の星の伝説でおなじみの「織姫と彦星」の話です。   
 
★★七夕のルーツ★★
中国の歳時記に、こういう話が残されているそうです。
 
天の川の東に織女が住んでいた。天帝の子である。いつも機織りをして、
鮮やかな天衣を織りなした。天帝が独身であるのをかわいそうに思って、
天の川の西に住んでいる彦星と結婚することを許した。しかし結婚した後
は、機織りをしないので、天帝は怒って二人を別れさせ、天の川の西と東
に帰らせた。ただ7月7日の夜だけ、川を渡って逢うことを許したのであ
る。日本で最もよく知られた七夕の星の物語である。おりひめとひこぼし
が愛し合っていながら一年に一度しか会えないという物語が日本人の共感
を呼んで、万葉集の時代から「星祭」として、七夕にさまざまな思いを馳せ
たのである。
(年中行事を「科学」する 永田 久 著 日本経済新聞社 刊 
P134-124)
 
天衣は、“あまごろも”、羽衣(はごろも)のことで、日本でもおなじみの天女の
証(あかし)です。
「天衣無縫」という四字熟語がありますが、これは、「物事に技巧などの形跡が
なく自然なさまをいい、天人・天女の衣には縫い目がまったくないことから、文
章や詩歌がわざとらしくなく、自然に作られていて巧みなこと。また、人柄に飾
り気がなく、純真で無邪気なさまをいう」(goo辞書より)意味に用いられていま
すが、語源は「天衣」なんですね。ちなみに英語では、“To be natural and 
flawless”「自然で完璧」(「故事ことわざ辞典」より)だそうで、類似語は、今で
もよく使われている「天真爛漫」です。
 
ところで、七夕の2つの星、彦星と織姫星は、どんな星でしょうか。
彦星、牽牛星は、鷲座の1等星アルタイルのことで、地球から16光年の彼方
にあり、太陽の8倍の明るさがあります。1光年は、9兆4605億キロで、その16
倍です。本当にはるか、はるか、かなたです。アルタイル星の両側にある2つ
の星を牛に見立てて「牽牛」と名付けたのです。
 
面白いことに、あの清少納言も「枕草子」に書いています。 
  
   星はすばる。ひこぼし。ゆふづつ。よばいぼし、すこしおかし。
   おだになからましかば、まいて
       (第二百三十九段 角川文庫 下巻 角川書店 刊) 
 
すばるは、牡牛座にある星団プレアデスの和名、ひこぼしは、牽牛です。ゆふ
づつは、日没後、すぐに西の空に輝く、宵の明星、金星で、よばいぼしは、流
れ星のことです。 「尾がなければよいのですが」ということでしょうが、尾は流
れ星が大気圏に突入して、燃えつきる現象です。さすがの才媛も、まだ、ご存
知なかったことでしょうね。    
 
織姫、織女星は、琴座の1等星ヴェガのことで、地球から26光年離れ、明るさ
も太陽の48倍もある北天第一の星ですが、もう想像外の明るさと距離です。ヴ
ェガと天の川をはさんだアルタイル星が、天の川の中にある白鳥座のデネブ
星とで作るのが、夏の大三角形です。小学校時代に、理科で習ったのでしょう
けれども、記憶のかけらもありません。
 
この2つの星が、7月7日に際立って、美しく輝きます。それを見た昔の人が、
天の川にさえぎられているために、1年に1回しか会えない、恋人の話に仕立
てたのでしょう。作者は、何ともロマンチストではありませんか。中国生まれの
伝説らしく、スケールが大きいですね。
 
ところで、天の川は、中国や日本の専売特許ではありません。昔から世界中の
人々の注目を集めていました。
  
エジプトでは天のナイル川、インドでは天のガンジス川、中国では銀色の
川で銀河と呼びます。ところが、ヨーロッパでは川ではなく道にたとえら
れ「乳の道(ミルキーウェイ)」と呼ばれています。 これはギリシャ神
話で、力持ちのヘラクルスが赤ちゃんのとき、お母さんのおっぱいを力強
く吸ったため、こぼれてできたといわれているからです。
 (心を育てる 子ども歳時記 12か月 監修 橋本裕之 講談社 刊
 P65)
 
★★なぜ、短冊にお願いごとを書くのでしょう★★
こういうことらしいのです。
中国には「乞巧奠」(きこうでん)といって、星祭りの他に、七夕には、大変、重
要な行事があり、こう書いてあるそうです。
 
「7月7日は牽牛と織女が相会する夜だ。夫人たちは7本の針に5色の糸
を通し、庭にむしろをしいて机を出し、酒、肴、果物、菓子を並べて織物
が上手になることを祈った」 
 (年中行事を「科学」する 永田 久 著 日本経済新聞社 刊 
P132)
 
これが、そもそもの始まりらしいのです。
牽牛は、牛飼いで畑仕事をし、織女は、機織りです。そこで、男の人は畑仕事
が、女の人は機織りや縫い物が上手にできますようにと、お祈りをするようにな
ったのでしょう。それが、時とともに、織物の切れ端を短冊のように切って、笹
の葉につけ、歌にあるように「軒端」に出すようになり、それが、今のように布か
ら紙に変わり、笹竹は長い竹となり、お願いごとも、裁縫や字が上手になること
よりも、ピアノが上手く弾けるようにとか何とか、何やら、椎名 誠氏風の表現で
恐縮ですが、願望成就希望達成型に変身したようです。
 
しかし、無理もない話です。
お母さん方、針を持って縫えますか。いや、その前に、裁縫箱を持っています
か。裁縫が上手になりたいと思っているお母さん方、いらっしゃるでしょうか。
何ですか、「……ますか、……ますか、……でしょうか」で、頼りのない話で
す。
「良妻賢母」が「料裁健母」と置き換えられた時代がありました。今は、「料裁健
夫」でなければ、お嫁さんにきてもらえないのでしょうか。独身男性が、増える
わけです。いや、嫁にきてもらうなどと消極的な考えでは、女性に敬遠される
のではないでしょうか。嫁さんは、自分で探すものです。
 
ところで、なぜ、笹竹なのでしょうか。
 
笹竹は、日本独自の祭り方で、竹は1日に1メートル伸びるといわれるほ
ど成長が早く、人々は、その秘められたすばらしいエネルギーに願いを托
し、天に届くようにと気持ちをこめたのです。
  (絵本百科 ぎょうじのゆらい 講談社 刊 P21)
 
祈るだけではなく、強烈なエネルギーまで取り込んでいるんですね、恐れ入り
ました。
 
余談になりますが、12月に紹介しました妙心寺の沙羅双樹の花、「沙羅の花
を愛でる会」が6月15日から始まりました。抹茶と精進料理が賞味できるそうで、
普段は非公開ですから、地元の人が羨ましいですね(笑)。会は30日までで
すが、You Tubeでも少し楽しめます。
(次回は「なぜ、仙台の七夕は、8月なのですか他」についてお話ししまし
ょう)
 

さわやかお受験のススメ<保護者編>第8章(4)何にもないのかな【六月に読んであげたい本】

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         「めぇでる教育研究所」発行
     2019さわやかお受験のススメ<保護者編>
         ~紀元じぃの子育て春秋~
     「情操教育歳時記 日本の年中行事と昔話」
       豊かな心を培う賢い子どもの育て方
           -第31号-
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第八章 (4) 何にもないのかな
【六月に読んであげたい本】
 
梅雨というと、三題噺(お客さんから3つの題を出させ即座に一席の落語とする
もの)ではありませんが、「あじさい、かたつむり、かえる」です。しかし、最近、
かたつむりやかえるはどこに行きましたかね、見かけなくなりました。洋食が苦
手な私ですが、後学のため食べましたエスカルゴ、美味しかったですが、「梅
雨が来たから食べるか」とはなりませんで、わずか1回だけでした(笑)。
 
かえると雨、これにも、おかしな因果関係があるようです。おもしろい話があり
ます。これから紹介する「かえるの親子」、人間の親子関係にもいえそうです。
過保護な母親に育てられたわがままな子が、少子化に加え核家族化も進む
中で増えているようです。一人っ子では、何が過保護なのかわからないのかも
知れません。しかし、やがて子どもは、一人で生きていかなければならない、
“頼れるのは自分だけ”の生活が待っていることを、親は忘れてはならないでし
ょう。
 
自己中で、他人との関わりがうまくできない若者が増えています。
最近の脳科学者の話では、自己抑制力の臨界期は3歳まで、協調性や社会
性の臨界期は12歳までといわれているようです。臨界期とは、その時期を過
ぎると、ある行動の学習が身につかなくなる限界の時期をいい、モンテッソーリ
のもっとも盛んに活動し成長する時期、「敏感期」と同じであると考えればわか
りやすいと思います。言葉の敏感期を過ぎると、真偽は定かではないそうです
が、インドの狼少女のように、人は言葉を話せなくなります。
誤解を恐れずにいえば、3歳は自立の始まる時期、幼稚園は自律心を養い、
社会性や協調性といった集団生活への適応力の基礎を築く時期、6年間の
小学校生活は、それらをきちんと身につける大切な時期です。
幼児期から小学校時代に、人としての配線図は、組み立ててしまわれるわけ
ですね。「三つ子の魂、百まで」「鉄は熱い内に打て」、先人の教えには、無駄
がありません。「鉄は熱い内に打て」は、英語の“Strike while the irons hot”を
訳したことわざだそうです。(「故事ことわざ辞典」より)
※マリア・モンテッソーリ
イタリア、ローマの精神病院で働いていた女医。知的障害児へ感覚教育を実
施し、
知的水準を上げる効果を見せ、1907年に貧困層の健常児を対象にした保
育施設
「子どもの家」で独特の教育法を完成させた。モンテッソーリ教育の行われる
施設を
「子どもの家」と呼ぶようになった。 (ウィキペディア フリー百科事典より)
                                                 
        ◆あまがえる不孝◆   八百板 洋子 著
 むかし、かえるの親子がいました。母さんがえるは、子どもをかわいがっ
たのですが、子がえるは、親のいうことを聞きません。母さんがえるが、右に
行こうというと左に行くし、山に登ろうというと川にもぐり、暑い日というと寒い
日と逆らうのです。             
   ある日のこと、母さんがえるは、重い病気にかかりました。助からないとあ
きらめた母さんがえるは、墓だけは、日のよく当たる、山の上に作ってほしい
と思ったのですが、何事にも逆らう子がえるのことです。山に埋めてほしいと
いえば、川のそばに埋めるに違いありません。
  考えた母がえるは、
   「私が死んだら、川のそばに埋めるのだよ」
  といって、息をひきとったのでした。母さんがいなくなると、子がえるは、逆
らってばかりいたこ
  とを後悔し、反省して、川のそばにお墓を作ったのです。
   雨が降れば川の水も増え、お墓は流されそうになります。心配な子がえる
は、雨が降るたびに、お墓が流れないようにと、今でも鳴いているのだそう
です。
        六月の話  あまがえる不孝 松谷 みよ子/吉沢 和夫 監修
                            日本民話の会・編 国土社 刊 
 
親不孝な動物話の典型ですが、中国や朝鮮にも同じ話があることから、大陸
から半島を経て伝わったものと考えられます。「日本は文化の吹き溜まり」とも
言われていますが、自国流にアレンジし、生活の中に取り込んでしまう知恵を、
我がご先祖は、身につけていたようです。 
 
            青蛙 おのれもペンキ ぬりたてか  芥川龍之介
 
こういった情景に出会うのは、もう、無理かもしれませんね。
 
霧雨が似合うあじさい、咲いているうちに色が変わることから「あじさいの七変
化」といわれ、花言葉では「移り気」「浮気」などと芳しくありません。一方で「辛
抱強い愛情」「あなたは美しいが冷淡だ」などといったものもありますが、後の
方が似合う気配が漂っているような気がします。
漢字では「紫陽花」と書きますが、これは唐の詩人・白居易が、別の花(この花
の名前はわかりません)に名づけたものを、平安時代の学者、源順がこの漢字
を当てはめたことから、誤って広まったといわれているそうです。           
(ウィキペディア フリー百科事典より)
 
ところで、今、かえるの合唱を、聞く機会はあるでしょうか。とにかく、ものすご
い鳴声でした。
しかし、この鳴声が、何やら豊作の雄叫びのように聞こえ、子ども心にも、安心
したものです。雨がしっかり降って、田植えが終わらないことには、かえるの合
唱は聞こえませんから。
その田植えについてですが、おかしな話があります。
 
        ◆田うえねこ◆   水谷 章三 著
 むかし、ある家に、年を取り寝てばかりいる猫がいました。
 田植えの時期になり、おかみさんは、
「お前さんはいいね。猫の手も借りたい忙しいときに、寝ていられるのだか
ら」というと、猫は大きなあくびをして起き上がり、どこかへ行ってしまったの
です。
その日は、田植えのおしまいの日で、大勢の人が手伝いに来ていました。
おかみさんもわき目もふらずに田植えをしていましたが、見知らぬ娘さんが
いて、仕事ぶりが、手際よく鮮やかなのです。それに負けてなるものかと若
い衆も張り切ったので、夕方にならぬ内に終わったのでした。
娘さんにお礼をいおうとしましたが、見当たりません。探していたところ、そ
の娘さんが背中を見せて、歩き去っていくではありませんか。追いかけてい
くと、おかみさんの家のところで姿を消し、探したのですが、見つかりません。
ところが、今朝、拭いたはずの縁側に、猫の足跡のような泥の跡がついてい
たのです。足跡をたどっていくと、家の隅っこの所で、猫が泥だらけの足を
なめていました。
  「お前のことを、うらやましいといったものだから、娘になって田植えを手伝
ってくれたのだろうか。猫は、年をとると化けるというけれど」
と、おかみさんは、猫の顔をのぞきこみました。すると、猫は足をなめるのを
止めて、前足でおかみさんのひざをグイと押さえて立ち上がり、背伸びをし、
そのままどこかへ行ってしまい、二度と姿を見せることはありませんでした。
         六月の話   田うえねこ    松谷みよ子/吉沢和夫 監修   
                           日本民話の会・編 国土社 刊 
                  
「猫の手も借りたい」忙しいときに、猫が手を貸すのがおかしいですね。この話
も全国に、いろいろな形で語り継がれています。お地蔵さまが、見知らぬ若者
に姿をかえて手伝う「田植え地蔵」などは、よく知られているようです。猫の足
が泥だらけだったように、お地蔵さまの足が汚れていたのでわかる仕掛けは、
同じです。 
 
今度は、恐い話です。
 
        ◆かにの恩返し◆   根岸 真理子 著
むかし、ある村に、庄屋どんと娘が住んでいました。娘は、かにが子を生む
頃になると、庭の小川で米をとぎ、その汁を流してあげたのです。かには、
嬉しそうに飲んでいました。
 ある年のこと、日照りが続き、田植えができません。
  庄屋どんは、雨さえ降らせてくれたら、娘を嫁にやろうというと、それを蛇が
聞いていたのです。
  やがて、雨が降り出し、田植えができると、村の人たちは喜びました。
  その時、庄屋どんの足元で、
 「約束を破れば、大雨を降らせ田畑を流すぞ」
といい残し、蛇は姿を消したのでした。しかし、嫁にやるわけにはいかず、
庄屋どんは庭に頑丈なお堂を建て、娘を入れることにしたのです。
 
 嫁入りの日が来ました。
娘は、白い着物を着て、お堂に入り、中から鍵をかけました。そこへ、若侍
が現われ、お堂に戸口がないのを知り、怒り、姿を大蛇に変え、お堂を七巻
きに巻きしめたのです。すると嵐になり、蛇は、雨風の力を借りて、お堂を根
こそぎつぶそうと、揺さ振り始めました。
  その時、娘の耳に、タプタプと寄せる水音に交じって、サワサワ、サワサワと
小さな音が聞こえてきたのです。音は、次第に数を増して、お堂のまわりを
取り囲みました。すると、ドォン、ダァンと何やらのたうつ音がして、サワサワ、
ドォン、ダァン、と、二つの音は、低く響き続けました。           
 
やがて音が止み、ひび割れたお堂の透き間から、朝日が射し込んできたの
です。
庄屋どんに、手を引かれて外に出た娘は、老いた松の木のような大蛇が、
お堂の周りを取り巻
き、転がっているのを見たのです。そして、めくれ上がったうろこの下には、
娘にお米のとぎ汁を
もらっていたかに達が、一匹、一匹、はさみつき、そのまま死んでいたので
した。
       六月の話   かにの恩返し 松谷 みよ子/吉沢 和夫 監修
                           日本民話の会・編 国土社 刊 
 
この他に、蛇をやっつけるのにひょうたんと針を使ったものや、蛇に変わって、
猿やかっぱの場合
もあります。これもお馴染みの民話でしょう。
かにの恩返し説話は、古くから語りつがれ「日本霊異記」や「今昔物語」に記
録されています。学生時代に、京都の山城の町にある蟹満寺というお寺を訪
ねた時、この話とそっくりの「蟹満寺縁起」が残されていました。
 
それにしても、悪役の蛇は、哀れです。
もとはといえば、約束を破った庄屋どんが、その責めを受けるべきです。
事実、進学教室でこの話をした時に、「悪いのは庄屋さん!」と、不満そうにい
った女の子達が何人もいました。子ども達は、「事の善し悪し」を考え、自分な
りに判断し、それを言葉で表現できる年齢に差し掛かっています。こういったこ
とからも、「話の読み聞かせ」は、ご両親の大切な仕事であることがわかります
ね。
 
また、「安珍清姫」の話も、大きくなったら妻にしようと戯れにいったことを信じ
た清姫が、だまされたことを知り、道成寺に逃れ、釣り鐘に隠れた安珍を、蛇
に変身した清姫が七巻にして殺しますが、これも悪いのは、戯言(ざれごと)を
いった安珍です。
「か弱き女性をだますと、あとが恐いよ!」
と、その執念深さを、蛇が演じているだけに、一層、説得力がありますね(笑)。  
 
仏教には殺生、妄語、偸盗、邪淫、飲酒を戒めた五戒がありますが、庄屋は、
動物の妻にするのは邪淫戒になり、嘘をついたので妄語戒と二つの戒めを破
り、安珍は嘘をついたので妄語戒を犯したにことになりますから、それぞれ厳
罰を受けるのですが、庄屋は助かるのは、子どもが聞く昔話だからでしょうが、
子どもたちはしっかりと怒っていますね。(偉い!)
 
もう一つ紹介しましょう。
きつねが人を化かす話も、むかし話にはたくさんありますが、新美南吉の「ご
んぎつね」の悲しい結末と違い、ほのぼのとなる話があります。
                          
        ◆きつねのかんちがい◆
 むかし、あるところに、惣五郎という若者がいました。
ある年の田植どきのことです。惣五郎さんは三反御作(広さ三十アール)も
あるたんぼを、一日で田植えをし、家へ帰る途中、畑の中にある井戸水を
飲もうと、つるべ(水を汲み上げる桶)を上げると、その中に、溺れ死んだ子
ぎつねが、入っていたのでした。惣五郎さんは、かわいそうに思い、畑の隅
に穴を掘って埋めてあげました。
      
 ところが、夜中に大勢の人が声を合わせて、
 「お田を引いたで惣五郎! 三反御作みんな引いただ!」
と、怒ったような声で歌い、二、三回繰り返すと静かになったのです。惣五
郎さんは、不思議に思ったのですが、そのまま眠ってしまいました。     
      
翌朝、たんぼへ行くと、田植えをしたばかりの‘三反御作’の苗が全部、引き
抜かれていたのです。きつねの仕業かなと思った惣五郎さんは、子ぎつね
を埋めた所へ行ってみると、穴は、掘り返されていました。きつねは、勘違
いをしたなと思った惣五郎さんは、きつねの棲んでいそうな竹薮や、林の中
を歩きながら、
 「死んでいた子ぎつねを拾い、お墓を作ったんだ。誤解しないでくれ!」      
 と、大声で叫んだのです。
   
 すると夜中に、
  「お田引いて すまなんだ! 三反御作 また植えたあ!」     
  と、二度ほど繰り返し歌い、静かになったのです。
  あくる朝、戸をあけると大きな鏡餅が一枚置いてあり、三反御作の苗も、植
え直してありました。
  惣五郎さんは、きつねに気持ちが通じたことがわかり、とても嬉しかったの
でした。                           
            新訂・子どもに聞かせる 日本の民話   大川 悦生 著
                                    実業之日本社 刊 
      
坪田譲治の、子どものために命をなくした「きつねとぶどう」や、新美南吉の、
人間と子ぎつねの心あたたまるやりとりを描いた「手袋を買いに」なども、ぜひ
読んであげたい童話です。
また、小川未明の、信仰とは何かを考えさせられる「頭を下げなかった少年」
(最後の一言が鮮やかです)や、献身的な子育ての後に子猫の幸せのために
姿を消す親猫を描いた「どこかに生きながら」も、見た目の美しさより、実用を
重んじて作った茶わんを褒める「殿様と茶わん」、神様からの授かりものといっ
て可愛がっていた娘を売り飛ばし、報復を受ける老夫婦を描いた「赤いろうそ
くと人魚」などの童話は、大人が読むべきで、キザな言葉で照れますが、心が
洗われます。              
お母さん方にお勧めしたいのは、「小川未明童話集 赤いろうそくと人魚 新
潮文庫」です。
 
ちなみに、日本語の表現の多彩さを少々。
春雨、五月雨(さみだれ)、夕立、俄雨(にわかあめ)、驟雨(しゅうう 夕立の漢
語的表現)、秋雨、時雨(しぐれ 秋から冬にかけて降る通り雨)氷雨、雨雪
(みぞれのこと)、四季折々の雨、やはり、日本人の感性は繊細ですね。
 
雨で忘れられない童謡があります。当時(昭和20年代)、私達は蛇の目の傘
をさしていました。中心部と周辺を黒、紺、赤色に塗り、中を白くして蛇の目の
形を表した傘で、竹骨に紙を貼り、油をひいた粗末なものでした。
    
   あめふり
   北原白秋 作詞  中山晋平 作曲
     あめあめ ふれふれ かあさんが
     じゃのめで おむかい うれしいな
     ピッチ ピッチ チャップ チャップ ランランラン
 
     かけましょ かばんを かあさんの
     あとから ゆこゆこ かねがなる
     ピッチ ピッチ チャップ チャップ ランランラン
     
     あらあら あのこは ずぶぬれだ
     やなぎの ねかたで ないている
     ピッチ ピッチ チャップ チャップ ランランラン
     
     かあさん  ぼくのを かしましょか
     きみきみ このかさ さしたまえ
     ピッチ ピッチ チャップ チャップ ランランラン
     
     ぼくなら いいんだ かあさんの
     おおきな じゃのめに はいってく
     ピッチ ピッチ チャップ チャップ ランランラン
     
2行目の「おむかい」は、原詩は歴史的仮名遣いの「オムカヒ」になっており、
「おむかい」と読みます。昔の日本語は、書き方と読み方が違うからですが、東
京方面の古い方言で、「おむかえ」がなまって「おむかい」になったそうです。
発表された大正14年頃、白秋は小田原に住んでいたので、この言葉を使っ
たのですが、「改訂版 しょうがくせいおんがく」(昭和33年発行)から「おむか
え」に変えて掲載。このときから「おむかえ」と歌い始めたそうです。(「Yahoo!
知恵袋」より要約)
     
繰り返しますが、童謡は情操の発達と深いかかわりを持つ、思い出のしみこむ
「成長の記録」ではないでしょうか。お子さんが一緒に歌える童謡、あります
か。
 
全く手入れをしない我が家の紫陽花は、けなげにも花を咲かせ、きちんと季節
を伝えてくれています。紫陽花には雨が似合いますが、梅雨入りしませんね。
昨年は6月7日に梅雨入りしましたが、さて、今年はどうなるでしょうか。メルマ
ガが配信される頃になるのでは……。
    (次回は「七夕祭りでしょう」についてお話しましょう)

さわやかお受験のススメ<保護者編>第8章(3)何にもないのかな 水無月

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         「めぇでる教育研究所」発行
     2019さわやかお受験のススメ<保護者編>
         ~紀元じぃの子育て春秋~
     「情操教育歳時記 日本の年中行事と昔話」
       豊かな心を培う賢い子どもの育て方
           -第30号-
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第8章 (3) 何にもないのかな   水 無 月
 
 
★★父の日、これもアメリカ生まれです★★
 
6月の第3日曜日は、父の日です。
母の日がアメリカ生まれですから、父の日も同じでしょう。母の日があって父
の日がなくては、男女同権の国ですから、男の立つ瀬がありません。いかにも
アメリカらしいですね。
 
 1910年に、アメリカのワシントン州でジョン・ブルース・ドット夫人が、
 妻を亡くして男手一つで育ててくれた父に感謝するパーティーを開いたのが
 始まりとされている。
 その後、1934年に父の日委員会が結成され、母の日にならって6月第3
 日曜日を「父の日」と定めたのである。日本では、母の日に遅れること4年
 後、昭和28年(1953年)から、一般的な行事として認められるようにな
 った。          
 (年中行事を「科学」する 永田 久 著 日本経済新聞社 刊 P102)
 
父の日に贈られる花は、何でしょうか。まだ、子どもが小さかった頃にもらっ
た記憶はありますが、花の名前は思い出せません。バラの花だそうです。たい
そう気品のある花ですから、何か訳がありそうです。
カーネーションが、十字架にかけられたキリストを見送った、聖母マリアが落
とした涙の後に咲いた花でしたから、おそらくバラもキリストと関係あるでし
ょう。予想どおりでした。十字架にかけられたキリストの血が落ちて、そこか
らバラが花を咲かせたそうです。さらに、こういった説もあります。
 
 父の日の花はバラである。バラは花の美しさと香りの気高さのため、古代か
 ら人々に愛されてきた。ローマ教皇はバラを手にし、信者はロザリオで祈り
 を唱える。ロザリオrosaryはラテン語rosa(バラ)、rosarium(バラ園)に由来
 し、尊敬と喜びのしるしであった。古代ローマでは、祭日の日には神殿も戦
 車もバラで飾られ、将軍は賞讃のしるしとしてバラの花束を手に持った。
 現代でも音楽会の終わりにはバラの花束を捧げて演奏を讃える風景が見られ
 る。
 (年中行事を「科学」する 永田 久 著 日本経済新聞社 刊 P102)
 
聖なるバラです。
花言葉は「尊敬と愛の情熱」です。お父さん方は、承知してもらっているでし
ょうか。
承知のうえでしたら、頑張らざるをえないですね。父権は、かなり喪失したと
いわれていますが、やはり、お父さんは頼られています。お父さんは、「一家
の大黒柱であるべきだ」と1940年生まれの私は思うのですが……。
この花言葉、前回にも紹介しましたが、調べると面白いですね。パソコンで簡
単に検索できますから、退屈なときアクセスしてみましょう。
    
ところで、小学校の入学試験に「話の記憶」といった問題がありますが、ある
ミッション系の学校で、「母の日にお母さんに贈る花の絵に○をつけましょう」
といった出題がありました。5つの花の中から選ぶのですが、その中に、何と
バラの花も入っていたではありませんか。さすがだと思いました。
事の起こりは、キリストに関係があるのですから。出題校は、暁星小学校です。
 
 
★★夏 至★★
 
二十四節気(にじゅうしせっき)の一つで、春分、秋分、冬至と、それぞれ楽
しい行事がありますが、夏至には、何かあるのでしょうか。暑い盛りではあり
ませんが、うっとうしい日が続く頃です。
一年中で、いちばん昼の長い日ですから、何だか疲れを感じがちです。これは、
夏至のとき、お日さまは、もっとも北に寄っているからです。ですから、北極
ではお日さまが沈みません、白夜です。
逆に、南極ではお日さまの姿を見ることはできません。土用の日のように、う
なぎを食べて元気をつけることもないようですし、何だか夏至だけが、冷たく
あしらわれているような気もしなくはありません。しかし、夏至だけ問題にす
るのは不公平です。雨水、清明、芒種などといわれても、何やらわかりません
が、これも夏至と仲間の二十四節気のことです。
 
 正しい季節を示すために作られた目印を二十四節気といった。太陰太陽暦で
 は暦の上の月日と季節がくいちがいをおこすので、暦の月日とは別に、農事
 に必要な季節の標準を示す必要があったからである。1太陽年を24等分し
 て、太陽が最も低く昼間の最も短い冬至から始めて、1年を24等分した分
 点を二十四節気とした。
 (年中行事を「科学」する 永田 久 著 日本経済新聞社 刊 P39)
 
二十四節気とは、正しい季節を示す目印と考えるとわかりやすいですね。日本
は農耕民族です、今は疑わしいですが。昔は、太陰太陽暦を使っていましたか
ら、今のグレゴリオ暦では、暦の上の月日と季節とが、食い違いを起こすので、
暦の月日とは別に、農事に必要な季節の標準を示す必要があったのです。よく、
テレビなどで、             
「今日は、啓蟄の日です。冬ごもりをしていた虫たちも、はい出る日といわれ
……」 
などとやっています、あれです。 今年の二十四節気は以下の通りです。       
 
★★二十四節気★★
 春  立 春  2月  4日 頃     夏 立 夏  5月  5日 頃
        雨 水  2月 19日         小 満  5月 21日
    啓 蟄  3月  6日        芒 種  6月  6日
    春 分  3月 21日        夏 至  6月 21日
    清 明  4月  5日         小 暑  7月  7日
    穀 雨  4月 20日        大 暑  7月 23日
       
 秋  立 秋  8月  7日 頃    冬 立 冬 11月  7日 頃 
    処 暑  8月 23日        小 雪 11月 22日
    白 露  9月  8日        大 雪 12月  7日
    秋 分  9月 23日        冬 至 12月 22日
    寒 露 10月  8日        小 寒  1月  5日
    霜 降 10月 23日        大 寒  1月 20日
    (「国立天文台 天文情報センター」より)
 
立春 旧冬と新春の境目、まだ、寒さの厳しい頃です。
雨水(うすい) 雨水がぬるみ、草木が芽を出し始めます。
啓蟄(けいちつ) 冬眠している虫たちも、穴からはい出してきます。
春分 昼夜が等しく分かれ、昼間が長くなり、夜が短くなってきます。
清明(せいめい) 桜花爛漫、春の盛となり、天地万物に清新の気があふれる
         時期。
穀雨(こくう) 春雨は、田畑をうるおし、穀物の成長するときです。 
            
立夏 春は去り、爽快な夏の気配を感じる頃です。
小満(しょうまん) 日増しに暑くなり、草木が繁り天地に満ち始める時です。
芒種(ぼうしゅ) 芒(のぎ・稲や麦などについているとげ)のある穀物を植
         える時。
夏至 日の長きに至る、昼がもっとも長くなる日。梅雨のさかりで、田植えの
   時期。
小暑(しょうしょ) 日増しに暑さが加わり、この日から暑中見舞いを出し始
          めます。
大暑(たいしょ) 暑さがもっとも厳しくなる頃。
 
立秋 暦の上だけの秋、まだ、真夏の頃。この日から残暑見舞いとなります。
処暑(しょしょ) 暑さが止み、秋風が吹く頃。「処」は「とどまる」の意。  
白露(はくろ) 秋も本格的となり、野草に甘い露の宿る頃。
秋分 昼夜が等しく分かれ、春分とは逆に、昼が短く夜が長くなります。
寒露(かんろ) 野草に冷たい露が宿る頃。
霜降(そうこう) 秋の気配も去り、朝霜のおりる頃。
 
立冬 冬の気配がうかがえる頃。
小雪(しょうせつ) 寒さもさほどでもなく、雪も少ない頃。
大雪(だいせつ) 北風が強くなり、寒さも厳しく、雪が降り始めます。
冬至 日の短きに至り、夜が長くなる日です。
小寒(しょうかん) 寒気が加わり、雪が積もる頃。
          この日を「寒の入り」とし、寒中見舞いを出し始めます。
大寒(だいかん) 冬将軍がもっとも威勢のよい時期ですが、寒さの中にも
         「春とおからず」の希望がふくらむ頃。
 
しかし、漢字って、いいですね。
「雨水」「処暑」など見ているだけで、何やら、日本を訪れる季節の兆しが、
思い浮かびませんか。                
今から2000年前の頃、中国の周王朝により華北の気象状況にあわせて作ら
れたそうです。何と2000年前のことです、感動しませんか。感動しますが、
何だか実感がありません。大暑といえば、実感としては、8月7日の立秋の頃
ではないでしょうか。日本でいうと、岩手県の季節と合っているそうです。東
京でも、ピンとこないのですから、九州地方のみなさんは、どうでしょう。
この原因は、今は、グレゴリオ暦を使っているからです。二十四節気は、先程
もいいましたように、むかし使われていた太陰太陽暦によって決められていま
すから、1ヵ月位の差が出るのです。
 
かつてある新聞に、気象協会では、新「二十四節気」を作ると出ていました。
その訳は、「寒いのに立春、暑いのに立秋─。中国伝来の二十四節気は、季節
の移り変わりに彩を添える言葉だが、ちょっと違和感を感じませんか」(原文
のまま)(中略)同協会は「現代の日本の季節感になじみ、親しみを感じる言
葉を選びたい」のだそうです。どんな言葉が作られるかわかりませんが、1月、
2月より、睦月、如月の方が、季節感を味わえる世代には、想像もつきません。
 
昔から親しまれていた町名を、無味乾燥な番地に変えてしまったことを思い出
しますね。もっとも、温もりのない、冷ややかなコンクリート・ジャングルに
は、ふさわしいかもしれませんが……。
“コンクリート・ジャングル”、英語のようですが、ナイター、サラリーマン、
パトカーと同様、和製英語です。驚いたことに、といっても私だけでしょうが、
「オーダーメイド」「デコレーション・ケーキ」も和製英語で、正しくは
“custom made”、“fancy cake”だそうです。パソコンで「和製英語」を検索
すると、正しい英語を知ることができます。ちなみに、パソコンも和製英語で、
正しくは“personal computer”です。
 
昨年まで、「新二十四節気」について紹介しませんでしたが、「季節のことば
36選」で検索したところヒットしました。ウッカリしていましたが、平成2
5年春に発表されていました。(陳謝)
 
 季節のことば36選                二十四節気
  1月 初詣 寒稽古 雪おろし           小寒 大寒
  2月 節分 バレンタイン 春一番         立春 雨水
  3月 ひな祭り なごり雪 朧月夜         啓蟄 春分
  4月 入学式 花吹雪 春眠            清明 穀雨
  5月 風薫る 鯉のぼり 卯の花          立夏 小満
  6月 あじさい 梅雨 蛍舞う           芒種 夏至
  7月 蝉しぐれ ひまわり 入道雲 夏休み     小暑 大暑
  8月 原爆忌(広島、長崎) 流れ星 朝顔     立秋 処暑
  9月 いわし雲 虫の音 お月見          白露 秋分
 10月 紅葉前線 秋祭り 冬支度          甘露 霜降
 11月 木枯らし1号 七五三 時雨            立冬 小雪
 12月 冬将軍 クリスマス 除夜の鐘         大雪 冬至
              (「一般財団法人 日本気象協会編」より)
 
参考までに、二十四節気も掲載しておきましたが、いかがでしょうか。
七夕が行われる7月7日、小暑といわれていますが、選ばれていませんでした
ね。星の祭りである七夕も、幼稚園や保育園、小学校の夏のイベントになり、
ご家庭で楽しむ年中行事ではなくなったようです。(残念!)
 
ところで、「人のうわさも七十五日」といわれていますが、その語源が二十四
節気と関わりがあるのですから、面白いですね。七十五日を四十五日、四十九
日、七十九日というのは誤りです。
 
 「日本には二十四節気という季節の区切り方があります。365日を24等
 分するので、一節気はおよそ15日。昔から五節気経てばまったく違う季節
 になるといわれていましたから、15×5=75日となります。75日も経
 てばまったく新しい季節になるのだから、それまでのことは忘れようという
 意味なのでしょう」
  (「つい他人に自慢したくなる無敵の雑学」
             なるほど倶楽部 編 角川書店 刊 P18)
 
ちなみに英語では、“A wonder lasts but nine days”(「驚きも九日しか続
かない」故事ことわざ辞典より)だそうですが、日本と違い、個人主義が定着
している国では、噂の消えるのも短いということでしょうか(笑)。
 
平成28年5月27日が、「核兵器絶滅を実現するための歴史的な日」になっ
てほしいと心から願っています。オバマ大統領が平和記念公園を訪れた日だか
らです。詳しくは、8月にお話ししますが、オバマ大統領の演説で素直にうな
ずけたのは、
「朝一番の子ども達の笑顔。愛する人と食卓を囲む、安らぎのひととき。両親
からの抱擁。そのかけがえのない瞬間が、71年前のこの場所にもあったのだ
と思い知らされます」
でした。亡くなられたおよそ14万人の一人ひとりに痛恨の思いを寄せた、核
兵器絶滅を願う大統領の、決意を新たにした力強い宣言だと信じたい。しかし、
隣の国では……。(合掌)
 
蛇足になりますが、第31回「サラリーマン川柳」大賞に、「スポーツジム 
車で行って チャリをこぐ」が選ばれました。私の近くにも似たような方がい
ます(笑)。年代別ベスト3、60代以上の1位は大賞と同じ、2位は「減る
記憶 それでも増える パスワード」、3位は「“ちがうだろう! 妻が言う
なら そうだろう”」、素直にうなずいてしまいました(笑)。財布にカード
とパスワード一覧表を入れた方がいましたが、落としたらアウトでしょう。で
もこれは笑えません!
   (次回は「6月に読んであげたい本」についてお話しましょう)
 

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