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めぇでるコラム : 2016保護者: 2015年9月

さわやかお受験のススメ<保護者編>★★第11章 お月見です   長 月(3)

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         「めぇでる教育研究所」発行
     2016さわやかお受験のススメ<保護者編>
         ~紀元じぃの子育て春秋~
     「情操教育歳時記 日本の年中行事と昔話」
       豊かな心を培う賢い子どもの育て方
             -第42号-
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第11章  お月見です   長 月(3)
  
★★菊花の約★★
突然、文学の世界に入りますが、“エニシング・ゴーズ”、何でもありの歳時
記です。
上田秋成(1743-1809)の著作「雨月物語」に、“菊花の約(ちぎり)”があ
ります。約束した帰国する日を守るために、自ら命を絶ち、霊魂となって百里
の道を帰ってきた話ですが、その約束の日が、9月9日の重陽の節句でした。
義兄弟の盟をした比左門と赤穴が、再会を約束する場面は、
  『重陽の佳節をもて帰り来る日とすべし』
菊の花を飾り、お酒の用意をして待っていますから、この日を忘れないでくだ
さいと、あります。
義兄弟の男の約束ですから、菊が似合います。桜や桃の花では、いささか華や
かすぎて霊魂になって帰れない雰囲気があります。この「菊花の約」の序が好
きでした。
 
『青々たる春の柳、家園(みちの)に種ゆることなかれ。交わりは軽薄の人と
結ぶことなかれ。
楊柳茂りやすくとも、秋の初風の吹くに耐めや。軽薄な人は交わりやすくして
亦速なり。楊柳いくたび春に染れども、軽薄の人は絶えて訪ふ日なし』
(「雨月物語」巻之一 菊花の約 上田秋成集 
日本古典文学大系 56 岩波書店 刊)
 
「柳は庭に植えるな、軽薄な人とはつきあうな、といったむかしの人がいまし
た。柳という木は、春の若葉こそ青々しく美しいものですが、秋風がふくとた
ちまち葉を落としてしまい、紅葉を楽しむひまもありません。
軽薄な人間も、気やすく近づいてきて、はじめのうちはまるで親友のようです
が、はなれていくのもはやく、いざというときのたよりにはなりません。
柳の木は、春がめぐってくると、また若葉の美しさを見せてくれますが、軽薄
な人は二度と戻ってこないでしょう。そんな人とはつきあいたくないものです。」
[少年少女古典文学館 20 雨月物語(9頁)
 佐藤 さとる 著  株式会社 講談社 刊]
 
柳1本で、これだけのことを学べます。
古典は、その民族の歴史であり、歳月とともに培われ、伝えられてきた教養で
あり文化です。お子さんが世に出る頃は、学歴ではなく品格を備えた知性や教
養が重視されていると思います。そのためにも、「古典に親しみましょう」な
ど、小賢(こざか)しいことを言うのではありません。ご両親は、ご自身の教
育観を持つことが大切で、それを礎に子ども達は育っていくからです。
 
「模倣犯」で活躍したフリーライターの前畑滋子が、再び登場する宮部みゆき
さんの「楽園」には、両親に殺されてしまう茜(あかね)という少女がでてき
ますが、小説の世界だけの話ではないと考えさせられました。
 
「わたしがちゃんとできないのは親が愛してくれないから。先生が不親切だか
ら。環境が良くないから。みんな言い訳ですよ。(中略)何でもかんでも自分が
自分がと主張するくせに、悪いことやまずいことだけ他人のせいにするなんて、
正しい日本人の考えではありません。
輸入者の思想です。昔から日本人は、まず我が襟を正すという生き方をしてき
たのです」 
((楽 園) 下巻 宮部 みゆき 著 文春文庫 刊 P296-298)
 
華道の先生に言わせるところがいいですね。
「襟を正して生きる」ではないでしょうか。汚れている襟に気が付かない親が
多くなりました。気持ちは分からなくありませんが、わが子だけかわいいでは、
後々困ったことになるのは子どもたち自身です。「KYJM(空気読めない自
己中ママ)、何でも人のせいにして責任を取らないママ」のことだそうですが、
そういった母親に育てられるとどうなるか、その答えは、いろいろな形で表れ
ているのではと思います。「自己を主張できるが、責任を取らない子」は、幼
児期の育児が過保護であったのではないでしょうか。何でも母親が尻拭いをし
ていては、困難にぶつかった時にどうすればいいかわかりませんから、逃げ出
すことになります。信頼関係など生まれるわけがないのです。同級生とさえう
まく関われない若者が増えているようですが、ポケットに手を突っ込んで、ボ
ーッとしていて友達なんかできないでしょう。
友とは、己れの存在を認めてくれ、共有できる価値観を持ち、共に生きる共生
の素晴らしことを教えてくれる、有り難い存在です。本当に、「在り難い」の
です。己れを認めてくれる教養を身につけ、品格を磨くべきで、自己中では友
はできません。どのような襟を持つか、それが育児の姿勢ではないでしょうか。
 
大阪で起きたとんでもない育児放棄事件(2010年8月)、襟を正すべき母
親が、襟を正さないとどうなるか、どんな母親であったかは知りませんが、新
聞で見た桜子ちゃんと楓ちゃんの笑顔が、哀れで、悲しくて、情けない。何も
食べ物がない冷蔵庫を開ける桜子ちゃん、その刹那を思うと……、最後につぶ
やいた言葉は、「ママ?」ではなかったか。(合掌)
(2012年3月 無期懲役の判決が出ました)
 
昨年放映された宮部さんの「ペテロの葬列」は、ご存知のように「誰か」
「名も無き毒」(トラブルメーカ、原田いずみには仰天!)に続く杉村三郎シ
リーズの第3作です。キリストの弟子であることを三度否認したペテロですが、
杉村氏は二作とも「理解されない人」になり、三作目でも理解されない人とし
て、とんでもない結末を迎え、唖然とさせられました。宮部さんの作品には、
いつもドギマギさせられながら読んでいますが、クリスマスの未明、一人の中
学生の転落死、殺人か自殺か。学校内裁判の始まり、「ソロモンの偽証」、読
ませてくれました。
 
閑話休題、「雨月物語」は、9つの話から成り立ち、前の話が後の話のテーマ
になっています。一時、ホラーブームなどで、奇怪な映画が、若者たちに受け
ていたようですが、この「雨月物語」こそ、知的怪異小説ですね。しかも、現
実に起きそうなことだけに、そら恐ろしい気持ちになります。
200年前の江戸時代の人々の恐怖感は、たいへんなものだったと想像できます。
「浅茅が宿」は、死んだ妻に再会し、翌日、それが幽霊だった話。
「吉備津の釜」は、真心を裏切られた魂が、悪鬼となって復讐する話。
「蛇性の婬」は、中国の「白蛇伝」と同じで、東映のアニメでみた記憶があり
ますが、2匹の蛇が、これでもかと追いかける恐い話です。熊猫のようなパン
ダにお目にかかったのは、この映画ではなかったかと思います。
現代人が、とかく忘れがちな人間の情愛が、科学的な冷静な目で否定しがちな
不可思議な現象、とはいっても何もわかりませんが、怪異の世界でしっかりと
生きていることが、何とも新鮮な感じがします。「物足りて、心を失う」です
か……、科学って、何なのでしょうね。
 
ところで、秋成のもう一つの代表作「春雨物語」には、紹介したい話がありま
す。それは、「捨石丸」で、読まれた方なら直ぐに、菊地寛の「恩讐の彼方」
と同じ題材だとわかります。耶馬蹊(大分県北西部にある渓谷)の岸壁を掘り
抜く話は、実話に基づくもので、その岩穴の道は「青の洞門」と呼ばれ、今も
残っています。また、むかし話にも「捨て石丸物語」として、語り伝えられて
います。耶馬蹊の命名者は、第1章で「京都五条の帯屋の娘」で紹介しました
江戸時代の儒学者、頼山陽といわれています。
 
★★江戸時代の時の数え方★★
何かないものかと探していましたら、やはり、ありました。
江戸時代の「時の数え方」です。当時は、午前零時、午後零時(正午)を「九
つ」といい、「2時間を一時(いっとき)」とし、そこから2時間ずつ、ずら
して八つ、七つ、六つ、五つ、四つという数え方をしていました。面白いこと
に、時間が進むにつれて、時の数え方は「九つ」から始まって、「八つ」「七
つ」と減っていくのですから、現代人の感覚だと戸惑います。しかし、これに
はきちんとした理由があるのです。掛け算の九九のお出ましです。
 
まず、鐘を9つ打つ時刻、午前零時、午後12時を「九つ」どきとして、次に
9の2倍の18を打つのですが、真夜中に18も鐘を打たれては、おちおち寝
ていられません。18では多すぎるので、十の位を除いて、2時間後の午前2
時に8つ打ち「八つ」として、以下、
9×3=27で、十の位を除いて午前4時に7つ打ち「七つ」、
9×4=36で、十の位を除いて午前6時に6つ打ち「六つ」、
9×5=45で、十の位を除いて午前8時に5つ打ち「五つ」、
9×6=54で、十の位を除いて午前10時に4つ打ち「四つ」、
元に戻って、午前12時が「九つ」、午後2時が「八つ」、午後4時が「七つ」、
午後6時が「六つ」、午後8時が「五つ」、午後10時が「四つ」、そして午前零時
が「九つ」と、こういう仕掛けなのです。
 
素朴な疑問ですが、なぜ10から始めなかったのでしょうか。
その理由は、陰陽思想では十を完全な数として数の頂点と考え、十は最上のた
め満ち足りると次はなくなってしまう、満月が欠けていくのと同じで、九を陽
(奇数)の最上、八を陰(偶数)の最上の数と考え神聖視していたことによる
ものです。
余談になりますが、聖徳太子の「十七条の憲法」は陰と陽の最上の数を足した
もので、陰陽思想の影響を受けてできたと言われているそうです。
 
また、時刻の決め方も世界標準時間などない頃ですから、こういったことで決
めていました。
 
江戸の時刻は、太陽の上るのを明(あけ)六ツとして、日没を暮六ツとして、
その間を六等分して昼の一刻を決める。夜は日の入りから翌朝の日の出までを
やはり六等分して夜の一刻は決められた。従って、夏は日が長いので、昼の一
刻が夜の一刻より実際には長くなった。
(御宿かわせみ 16 八丁堀の湯屋 P250 平岩弓枝 著 文春文庫 刊)
 
ところで、東京地方の民謡に、この時を表した「お江戸日本橋」があります。
「七つ」を現代の時刻7時と考えると、おかしな歌になってしまいます。
 
   お江戸日本橋 七つ立ち
   初のぼり
   行列そろえて アレワイサノサ
   コチャ 高輪`
   夜明けて 提灯(ちょうちん)消す
   コチャェ コチャェ
 
大名の参勤交代の行列を表した歌で、七つ(午前4時)に日本橋を出発し、「下
に~、下に~」の掛け声でゆっくりと進み、高輪で明け六つ(午前6時)を迎え
て提灯の火を消す、のんびりとした行列であることがわかります。正月恒例の
箱根駅伝、スタートの有楽町から高輪まで、あっという間ですから。歌詞に
「初のぼり」とありますが、江戸時代は京都へ行くのを上りといい今とは逆に
なっています。当時の都は京都で、明治に東京へ遷都されて東京が都となり、
東京へ行くのが上りになりました。
日本橋は現在のコンクリートの橋を架けてから、平成23年10月で百年にな
りましたが、橋の上を高速道路が走り、窮屈で無残な姿になっています。あの
関東大震災や東京大空襲にも耐えた橋であり、親柱には「東京市の守護神・獅
子像」と「15代将軍徳川慶喜の揮毫(きごう)した銘板」が設置されている
由緒ある橋で、もっと優しく保存してあげるべきではないでしょうか。
 
ところで、小江戸と呼ばれる川越には、江戸時代の風情を今に残す蔵造りの家
並みを見下ろすように、「時の鐘」がそびえたっています。鐘楼の高さは
15.9メートル、トタン屋根三層作りの木造で、階段はありますが上れませ
ん。毎日6時、正午、15時、18時の4回、時を告げ、平成4年(1996)
に環境庁主催の「残したい日本の風景百選」にも選ばれています。
時の鐘は、今から400年前に創建されたといわれ、現在建っているのは4代
目。明治26年に起きた川越大火災後に再建されたもので、耐震診断の結果、
「倒壊の恐れあり」と判明。完成は来年の12月、明治27年の再建当時の姿
に戻す復元工事も実施されるので、ある期間シートで覆うため姿を消すことに
なりましたが、塔の下で売っている名物の焼き団子、何とも香ばしい匂いに、
素通りできません(笑)。
 
ところで、落語に「時そば」と題した噺があります。
ちょうど九つどきに、屋台のそば屋で勘定を払う男が、細かい銭で済まないが
と、数えながらおやじさんに渡します。
「ひい、ふう、みい、よう、いつ、むう、なな、やあ」
ここまできたとき男が、いきなり、時間を聞きます。
「何どきだい?」
「へぇ、ここのつで…!」
とおやじがいうと、九文目を払わないで、
「とお、じゅういち、じゅうに、じゅうさん、じゅうし、じゅうご、じゅうろ
く、ごちそうさん!」
と、九をうまくとばして、お客さんが一文、見事にごまかします。 
これをまねた男が、今度は時を間違えて、多く払うはめになる話です。この噺
は、関西では「時うどん」になりますが、薄く透き通った関西風の味も、こた
えられません。やはり、この時の数え方も、訳ありでした。
 
「ひい、ふ、みい」は、漢字の訓読みですが、これを覚えておくと、日付の読
み方に役に立ちます。
一日を除き、「ふつか、みっか、よっか、いつか、むいか、なのか、ようか、
ここのか、とおか」となっています。十一日、十二日、十三日と音読みになり、
十四日は「じゅうよっか」と音訓読みになり、二十日は「はつか」となり、幼児
には、難しい読み方になっています。「ついたち」は、一月に紹介しました
「十二支の話」を思い出してください。毎日、カレンダーを見ながら、「今日
は、9月4日、金曜日」とやっていると、無理なく覚えらます。
 
★★防災の日★★
最後になりましたが、9月1日は防災の日です。
ご存知のように、大正12年(1923)に、関東大震災が起きた日です。
「災害は、忘れた頃にやってくる」と言いますが、3年前に東日本大震災が起
きました。当時、防災非常袋などに、飲料水や非常食、着替え、乾電池などを
用意し、万が一に備えていた方は、少なかったのではないでしょうか。用意し
た飲料水などの消費期限(Use by date)をチェックし、想定外の災難に遭わ
ないように心がけましょう。幼稚園や小学校でも避難訓練をやっていますが、
小さい子ども達は、自分で身を守るすべを知らないものです。幼稚園、小学校
にいる場合は、万全の態勢で臨んでいますから心配ありませんが、一人で外に
いる場合どうしたらよいか、しっかりと教えておきたいものです。
 
東日本大震災が起きるまでの学校選びは、「子どもの足で通える学校」でした
が、「子どもが安心して通える学校」となりつつあるようです。私立小学校が
1校しかなかった埼玉県は5校に増え、千葉県の7校の内3校は、新装改築し
教育環境の充実をはかっていますし、平成27年4月には藤沢市に日本大学藤
沢小学校が、現在6校ある茨城県では、つくばみらい市に開智小学校が開校し
ました。
就学児童が減っている中で開校する学校側の狙いは、「安心して通える地元の
学校」ではないでしょうか。「教育は国家百年の計」とも言われていますが、
地方の教育が充実するのは、長い目で見れば、わが国の教育のためにも歓迎す
べきことだからです。
 
ところで、昨年の夏、東京大学法学部出身で、国家公務員1種試験に合格した
現役のエリート官僚が書いた「原発ホワイトアウト」(若杉 冽 著 講談社
 刊)を読み、政治音痴の私には理解できない裏社会の仕組み、モンスター・
システムを知りげんなりしましたが、よくぞ発表できたものだと、その勇気に
は脱帽したものでした。
私が学生の頃、週刊誌創設ブームで、トップ屋、事件記者として活躍し、その
後「黒の試走車」「赤いダイヤ」など産業スパイ小説や経済小説で一世を風靡
した作家、梶山季之(としゆき)が、企業の暗部や闇社会との秘密を暴露しま
したが、ある週刊誌のインタビューで、「こういったことを書いていると命を
狙われるのでは」と問われ、「事実を書いている内は殺されません」と答えて
いるのを思い出しました。その後、清水一行、高杉良など社会派の作家が大勢
誕生したことからも、肯けます。大好きな作家の一人で、本棚にかなりくたび
れた文庫本が20冊ほど、大きな顔をして残っています(笑)。
読み応えがあるので粗筋は省きますが、原発の安全を脅かすのは、何も地震や
津波などの自然災害だけではなく、もっと簡単に福島以上の大災害をもたらす
ことが明らかにされています。送電する鉄塔を壊せば、原発を停止しなくては
ならず、その処置を誤ると、立ちどころにメルトダウンを起こし、大事故に至
る過程が克明に描かれています。事故の現場は新潟で、小説の最後の3行には、
心底、恐怖を感じました。
 
確かに、この二人の心が折れさえしなければ、日本の裏支配者ともいえるモン
スター・システムは、時を経ずして息を吹き返すであろう。そしてその悪魔の
システムとともに、日本には原発をメルトダウンに至らしめる1000本以上
の送電線が、無防備なまま残されているのだ。
(「原発ホワイトアウト」 P319 若杉 冽 著 講談社 刊)
 
ちなみに「ホワイトアウト」とは、激しい吹雪の中で視界を奪われ、自分の位
置がわからなくなることで、真保裕一のダムに立てこもったテロリストから人
質を救出する、雪山での手に汗握る同名の作品とは異なり、熱しやすく冷めや
すい私達日本人に、「原発問題は、ホワイトアウトになっていないか!」と問
いかけているのではと痛感しました。川内原発が再開されましたが、日本人で
あれば、無関心では過ごせない問題です。若い皆さん方に読んでもらいたいで
すね。
 
最後になりましたが、今年の二百十日(立春から数えて210日目)は、防災
の日と同じ9月1日です。この時季に、稲は花開き実を結びますが、台風が日
本列島を襲い、農作物が被害を受けるため、お百姓さんには厄日といわれ、奈
良県大和神社の「風鎮祭」、富山県の「おわら風の盆」など、各地で台風に暴
れられないように、風雨を鎮めるお祭りが行われています。一昨年は10月に
台風26号が伊豆大島に、昨年は豪雨により広島など西日本方面に甚大な被害
をもたらしました。今朝、台風15号が熊本県に上陸、噴火警戒レベル4が続
く桜島、自然災害には、何とか穏便にと願わざるを得ません。
 
かまびすしい蝉の声が、ピタッと止んでしまいました。「秋、近し」、ホッと
しています。
 
次回は、「9月に読んであげたい本」についてお話しましょう)
 

さわやかお受験のススメ<保護者編>★★第11章 お月見です   長 月(2)

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         「めぇでる教育研究所」発行
     2016さわやかお受験のススメ<保護者編>
         ~紀元じぃの子育て春秋~
     「情操教育歳時記 日本の年中行事と昔話」
       豊かな心を培う賢い子どもの育て方
             -第41号-
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第11章  お月見です   長 月(2)
  
★★秋の七草★★
春の七草は、色彩的には黄色が多く、それに食べられるものばかりでした。
正月の7日に食べる七草粥には、春の七草が入っています。
今年1年間、息災で病気にならないようにと、払いの意味で食べたものですが、
正月にご馳走を食べすぎて、弱った内蔵をいたわる意味で食べたのでしょう。
これも昔の人の生活の知恵です。
 
秋の七草は、どうでしょうか。
萩(はぎ) 薄(すすき) 葛(くず) 撫子(なでしこ) 女郎花(おみなえし)
 藤袴(ふじばかま) 桔梗(ききょう)をいいます。
見るとわかりますけれど、紫色が多くて観賞用です。
葛は、根は解熱剤として使われていますし、粉にした葛粉は食べられますが、
春の七草とは、大変な違いです。
 
万葉集八巻に、山上憶良の秋の七草を詠んだ歌があります。
この七種類の花を詠んだことから、秋の七草といわれるようになったのです。
 
秋の野に 咲きたる花を 指(おゆび)折り かき数ふれば 七草の花
芽子(はぎ)の花 尾花 葛花(くずばな) 瞿麦(なでしこ)の花
女郎花(おみなえし)また藤袴 朝貌(あさがお)が花
 
朝貌の花は、現在では桔梗のことです。
芽子といい瞿麦といい朝貌といい、昔の字は、秋の七草にしてはゴツゴツした
感じを受けませんか。
何だか花の名前の感じがしません。
今の方が、親しめます。
いや、もっと現実的な秋の七草があります。
 
昭和10年、菊池寛、高浜虚子などの文人や学者の推薦によって新聞社が選ん
だ「新秋の七草」があります。
菊、葉鶏頭(はげいとう)、秋桜(コスモス)、彼岸花、赤飯(あかまんま)、
白粉花(おしろいばな)、秋海棠(しゅうかいどう)、の七草です。
山上憶良と比べると、色彩豊かで華やかで、人手がかかっている感じがします。
平成にふさわしい「秋の七草」は、インターネットの投票によると、春の七草
でご紹介した左大臣四辻善成(平安時代)の真似をするとこうなります。
 
 ハギ キキョウ  コスモス ススキ ヒガンバナ
    リンドウ ナデシコ 秋の七草
 
しかし、本来の七草は、人の手にかかることをこばむ野草という感じが伝わっ
てきますが、いかがでしょうか。
 
話は変わりますが、秋桜(コスモス)、漢字で書くと日本産まれのようですが、
何とメキシコ産です。
コスモスは、茎も葉も細く、花もたおやかですから、責任をもって、きちんと
保護してあげなくてはと思いがちですが、本当は、強いのです。
台風でなぎ倒されても、いつのまにか窮屈な姿勢ながらも、花を咲かせます。
さすが、メキシコ産と納得しているのは、私だけでしょうか。
しかし、コスモスを「秋桜」と置き換えたのは、一体、どなた様なのでしょう、
名人芸だと思いますね。
 
★★重陽って、五節句の一つではないのですか★★
9月といえば重陽の節句、とならないのが不思議です。
3月の「ひな祭りですね」を思い出してください。
9月9日を重陽といい、陰暦9月9日の節句で、「9」は陰陽道では、陽の数
とされており、この2つの数を重ねた日で、菊の節句ともいわれていると紹介
しました。
陰陽道では、このように奇数を尊び、「9」を最高の数と考え、天の数、天子
様の数として、神聖視されていました。
それでしたら、大変な日ではありませんか。
しかし、何かお祝いをした記憶がないのです。
 
この日は菊の節句である。平安時代に菊は「翁草」「千代見草」「齢草(よわ
いぐさ)」などといわれ、重陽の節句に寒菊の酒宴が催された。「菊酒」とい
って、酒に菊の花をひたして飲むと、長生きできるといわれ、また「菊の着せ
綿」といって、前の晩に菊にかぶせて露にしめらせた綿で身体を拭くと長寿を
保つといわれた。
(年中行事を「科学」する 永田 久 著 日本経済新聞社 刊 P180-181)
 
このように菊は、古くから薬用植物として珍重されていましたが、菊の芯を集
めて作る枕を菊枕や幽人枕(ゆうじんちん)ともいって、香りが高く、頭痛を
治し、邪気を払うといわれ珍重されていたそうです。
そういえば、「菊政宗」という日本酒がありますが、命名のいわれは、これで
しょう。
適量をたしなめば、酒も良薬の一種に違いないのですが、適量をたしなむのは
至難の業で、意志の強い持ち主でなければ難しいですね(笑)。
 
「菊」は漢名(中国での名称)の「菊」を音読みしたもので、「菊」の漢字は
「散らばった米を一ヶ所に集める」の意味があり、菊の花弁を米に見立てたも
の。
また、漢名の「菊」は、「究極、最終」を意味し、1年の一番終わりに咲くこ
とから名づけられた。(www.hana300.com/kiku00.htmlより)
 
日本の国花は、桜と菊です。
桜に始まり菊で終わる、自然に恵まれた日本を象徴する花であり、国花にふさ
わしい花であることも肯けます。
 
菊は、その姿が、端整で、美しく、香りにも、何ともいえない気品があります。
古くから菊は、竹、梅、蘭と合わせて四君子(しくんし)といわれ、水墨画の
画材によく使われていました。
菊の品評会などで見る菊は、華やかなムードに包まれ 十分に、手間暇が、か
かっている感じが、匂い出ています。
菊人形も、ここまでやるかと、文句のつけようのない作品もあり、うならされ
ます。
これも、秋の風物詩として欠かせません。
 
しかし、人里離れた山あいに、ひっそりと咲く、小さな野菊、あれも、いいで
すね。
香もふくいくとして、観賞用の人工菊に、絶対に負けません。
寒さに強く、晩秋から初冬にかけて、けなげにも咲き続けています。
花は、ひっそりと咲いているからこそ、もののあわれを誘います。
女性も、ひっそりと、ひかえめがいいのですが、今風ではありません。
これをいうのには、勇気がいります。
「ますらお不在」といわれそうだからです。
「ますらお」は「丈夫・益荒男」と書き、強くて、堂々とした、立派な男子の
ことです。
 
ところで、皇室の菊の御紋章、あれは十六葉八重表菊で、後鳥羽上皇が、特に
菊を好まれたために定められたものです。
そして、欲しい人には最高の価値がある勲章、舌をかみそうですが、大勲位菊
花大綬章は、朝日と菊の花を表しています。
この勲章を、断る方がいます。
確固たる理由があるのでしょう。
そういった話を聞くたびに、なぜか、さわやかな気持ちになります。
もっとも、私自身、勲章をもらえる条件が何もなく、ひがんでいるにすぎない
のですが(笑)。
 
リーズナブルな刺身についているプラスチック製の菊、あれは単なる飾り物で
すが、上等な刺身には、食用の生菊が、さん然と輝いています。
これは高価なものですから、必ず、頂きましょう。
菊の花をむしって、小皿の醤油に散らし、刺身と一緒に食べます。
菊は、わさび、生姜、レモン、酢橘(すだち)、蓼(たで)と同様、食中毒や
食材の腐食を防ぐ自然の優れものです。
これらの菊は、観賞用とは異なり食用として栽培されたもので、さっと湯がい
て三杯酢で食べても、おひたしにしても、なかなかおつなものです。
 
ところで、刺身をのせている「刺身のつま」というのでしょうか、面白い存在
ですね。
ほとんどが大根か海藻(おごのり)ですが、あれがついていないと、何か物足
りない感じがします。しかし、ほとんどの方は、決して、好んで、食べません。
明治生まれの親父は、それこそ一本も残さず食べていましたから、私も残せま
せん。
主役の鮪や鯛の刺身を引き立たせる脇役を立派に果たしているのですが、刺身
のなくなった後の姿は、何とも哀れです。
「人間、引き際が大切だと教えているのではないでしょうか」などと、「よいし
ょ」することもありませんが、何かかばってあげたくなりませんか(笑)。
 
話を戻して、五十円硬貨の表のデザインは、何と菊です。
さらに、兵庫県の県花は、野路菊(のじぎく)です。
ご存知のことと思いますが、菊は献花に用いますから、病気の見舞いには、タ
ブーの花となっています。
 
日本の三大怪談話は、「四谷怪談」「番町皿屋敷」「牡丹燈籠」ですが、「1
枚、2枚……」と夜な夜な皿を数える幽霊の名は「お菊」だからいいのであっ
て、「おなべ」「おくま」「おとら」では様にならないという話を阿刀田高氏
の本で読んだのですが、「アッハッハ!」と笑っただけで、出典を控えませんで
した、済みません。こういった幽霊なら、寝苦しい丑三つ時(午前2時ごろ)
に出てほしいですね(笑)。
 
最後に、ことわざを一つ。
  「春蘭秋菊 ともに 廃すべからず」(両者ともに優れており捨てがたい)
蘭と菊は、四君子の二つです。 
島根県にも清水寺があることを、五木寛之氏の「百寺巡礼 第8巻」(講談社
刊)を読んで知り、素晴らしい三重塔を見ようとパソコンで検索していた時に、
島根県江津市のホームページで、この解説を読んだのですが、わかりやすいの
で紹介しましょう。
 
中国では、「梅」「蘭」「竹」「菊」の4種の草木は「四君子」と呼ばれ、古
来より人々に愛されています。「君子」とは人徳・学識・礼儀に優れた人のこ
とですが、「梅蘭竹菊」は気品の高い美しさを備え、梅は高潔、蘭は清逸、竹
は節操、菊は淡泊と「君子」に似た特徴をもっていることから、草木の中の
「四君子」に例えられています。
   筆者注 清逸(せいいつ) 清く浮世離れしていること
(島根県江津市のホームページ http://www.city.gotsu.lg.jp/6490.html)
 
 (次回は、「菊花の約」などについてお話しましょう)
 

さわやかお受験のススメ<保護者編>★★第11章 お月見です   長 月(1)

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         「めぇでる教育研究所」発行
     2016さわやかお受験のススメ<保護者編>
         ~紀元じぃの子育て春秋~
     「情操教育歳時記 日本の年中行事と昔話」
       豊かな心を培う賢い子どもの育て方
             -第40号-
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第11章 お月見です   長 月(1)
 
暦の上では、今月から秋です。
秋の読み方は、「黄熱(あかり 稲が成熟する)からとの説が一般的ですが、
秋空が「あきらか(清明)」である、収穫が「飽き満る」、草木の葉が「紅
(あか)く」なるなどの説もあるようです。
長月(ながつき)のいわれは、秋も深まり、次第に夜が長くなっていくから
「夜長月」の略が、わかりやすいですね。
これにも、いろいろな説があり、「稲刈月(いねかりづき)」の「い」と
「り」を略して「ねかづき」が「ながつき」となったものや、「稲熟月(い
ねあかりつき)」が略されたという説もあるそうです。
 
★★お月見ですね★★
9月といったら、お月見ですね。
天保暦でいうと、8月15日にあたり、今のグレゴリオ暦では、9月の15
日から20日頃が見頃です。
 
秋の澄んだ夜空に、こうこうと輝く満月を観賞する習慣は、古くから中国に
あり、それが平安時代に貴族の間に伝わり、やがて、武士や庶民にも広まっ
たものです。昔は、「中秋の名月」といい、月を眺めながら、和歌を詠み、
お酒を酌み交わし、秋の夜を過ごしました。何やら風流な趣が伝わってきそ
うですが、お百姓さんは、それどころではありません。何しろ農耕民族日本
でしたから、とにかく自然が頼みの綱です。
 
お月さまは、お百姓さんには、お日さまと同様、大変な存在でもあったので
す。
ご存知のように月は、およそ1ヵ月の間に丸くなり、また、だんだんと欠け
ていきます。新月から1週間程で半月になり、15日程で満月に、1週間後
には半月となり、再び新月に、これの繰り返しです。そこで昔の人は、満ち
欠けする月の形から、1ヵ月のおよその日にちを知ることができ、それをも
とに農作業の時期、段取りを行っていました。 
また、月の明かりで、夜遅くまで農作業ができたのです。言ってみれば、お
月さんは暦であり、時計であり、夜間の照明器具でもあったわけですから、
感謝の心は、現代では考えられないほど、深かったに違いありません。
 
さらに、旧暦の8月といえば、稲にとっては、夏の暑いお日さまを、さんさ
んと受け、しっかりと実をつける時です。しかし、台風が来ると、折角、丹
精を込めて育ててきた稲は、強風と豪雨でメチャメチャになってしまいます。
私の小学校時代(昭和20年代)の日本の景気は、米の収穫量で決まりです
から、何とか穏便にと思うのは、当然でしょう。
台風一過の秋晴れのもとで、すっかり水を被ってしまった田んぼを、ぼう然
と眺めていたお百姓さんの姿を、何回も見ましたが、子ども心にも悔しい思
いをしたものでした。ですから、お月さまに、すすきや秋の花とおだんごや
果物、芋などを供えて、自然が荒れないようにお祈りを捧げたのです。
 
なお、十五夜を見た場合には、旧暦の9月13日(現在の10月17日頃)
の十三夜も見なければならないといわれています。1回しか見ないお月見を
「片見月」といい、不吉なことが起こると嫌われていたからだそうです。十
三夜は、栗や豆を備えることから「栗名月」「豆名月」ともいい、十五夜が
中国から伝来したものに対し、十三夜は日本のオリジナルな風習です。
また、「十三夜に曇りなし」ともいわれ、晴れの夜が多く、秋の澄んだ夜空
に、こうこうと輝く月を見ることができます。丁度、10月の下旬にあたり、
秋たけなわの頃だからです。お子さんと一緒に「片見月」とならないように、
確かめてみましょう。
こういった話をするだけでも、お子さんには、楽しい思い出となるものです。
 
ご覧になったかと思いますが、7月に2回、2日と31日に満月が現われま
した。これをブルームーンと呼び、2、3年に1度の割合で起こり、次回は
2018年1月と3月にみられる天体現象です。ブルームーンの名称の由来
は、英語の慣用句に“once in a blue moon”(珍しいことやまれなことの
たとえ)があり、まれな現象を「ブルームーン」ということだからだそうで
す。
 
★★なぜ、すすきを飾るのでしょうか★★
すすきは、姿、形から見ても稲科の仲間だとわかります。
あの白い花穂が、いいですね。別名「尾花」といいますが、本当に漢字は、
説得力があります。
これは、子どもの頃に、お百姓さんから聞いた話ですが、今でもよく覚えて
います。
なぜ、お月さまにすすきを飾るのか、その理由ですが、すすきの尾花は、細
くて長く、まるでほうきのようですから、秋風に揺れながら、その穂で、し
っかりと神様を捕まえ、豊作をお願いしたいからだといっていました。
今は、郊外に出かけないと見られなくなりましたが、子どもの頃には、そう
ですね、見上げるほどの高さですから、2メートルぐらいになるのもあり、
これなら神様を絶対に逃さないと思ったものです。
 
★★なぜ、お供え物に芋があったのでしょうか★★
米で作ったおだんごや果物、それに採れたての野菜などを供えたものです。
母からよく聞いた話ですが、お日さまには天照大神(あまてらすおおみかみ 
読みについては注参照)が、お月さまには月読命(つきよみのみこと)とい
う神さまがお住みになり、お日さまを浴びていろいろな物が育つように、お
月さまの光にも不思議なエネルギーがあって、その光を浴びた物を食べると、
健康で長生きするからだといっていました。
「かぐや姫」のラストシーンで、月の光で侍が、ばたばた倒れますが、あれ
を思い出し納得していました。数々の怪獣を一撃で倒すウルトラマンのスペ
シウム光線ではありませんが、月光の威力に感嘆したものです。あの場面に
は、いつも魅せられていました、UFOの世界です。こういった空想は、時
代を超越し、夢があります。科学が、1つ1つ、その根拠を壊していますけ
れど、サンタのプレゼントと共に、幼児期の楽しい夢であり、一緒に楽しん
であげるものではないでしょうか。
 
このウルトラマンに目下、孫がはまっていて、「それはバルタン星人だろう」
と言いたら、「おじいちゃん、何で怪獣の名前を知っているの?」と尊敬さ
れてしまいました。もう40年前になりますが、長男が夢中になって遊んで
いたもので、いまだ人気が衰えないようですね。女の子には、リカちゃん人
形が人気の的で、サンタの代わりに買いに出かけたものでしたが、新作、マ
サト君が出た年は手に入れるのに苦労したことを思い出しました(笑)。
 
ところで、子どもの頃ですから、「夜露」がよくわかりませんでした。供え
てある果物や芋が、夜露に濡れて、月の明かりで光っているのです。神秘的
でした。ですから、夜露に光る果物を食べると、何やら力がつくような気が
しましたし、おいしいと思いました。感動して、母の話を信じていたもので
す。
「神秘的……」、響きのいい言葉ではありませんか。「迷信だ」といって信
じない大人は結構ですが、そういって子どもの夢を簡単に壊すようでは、空
想力や想像力も育たないのではないかと思いますね。
【注】 古事記には天照大御神、日本書紀には天照大神と明記されています。
 
 
今では、お月見に、だんごやすすきなどをお供えする家庭も少ないでしょう
が、芋を飾る話はさらに聞かないのではありませんか。ところが、私の子ど
もの頃は、芋は、欠かせなかったようでした。
でも、どうしてお月さまに芋を供えたのか、このことです。おだんごや果物
は、納得できましたが、芋はわかりませんでした。お月さまと芋は、どう考
えても結びつきません。
これも、じいさまから聞いた話ですが、米が主食になる前は、里芋や山芋が
主食でした。今は、さつま芋掘りは、秋の観光イベントに欠かせないもので
すが、その収穫が、ちょうど十五夜の頃でしたから、感謝の気持ちを表しお
供えをしたそうです。お月見は、芋などの畑作の収穫祭でもあったわけです
ね。それで、中秋の名月を「芋名月」ともいったのです。
 
川越は、さつま芋の名産地で、秋には小さな子達が、芋掘りにやってきます。
盛り付けの鮮やかな和食「芋ご膳」からソフト・クリームまで、美味しいも
のがたくさんありますが、戦後の食糧難の時代に、朝、昼、晩と三食、さつ
ま芋を食べた世代ですから、見ただけで胸焼けがし、どうしても手が出ませ
ん。などと言いながら、さつま芋から作った地ビールだけは、飲んでいます
(笑)。
妙にこだわりますが、ソフト・クリームは、正しくはsoft  ice  cream 
です。
 
★★なぜ、お月さまにうさぎが…?★★
今の小学生は、笑ってばかにしますが、私の子どもの頃は、宇宙船アポロな
どは、想像外のことでしたから、月にうさぎが住んでいると信じていました、
ある時期までは。うさぎが跳ねているように、また、杵(きね)を持ち、餅
をついているようにも見えました。
 
 うさぎ うさぎ   なに見て跳ねる
 十五夜お月さん見て 跳ねる
 
文部省唱歌です、牧歌的で、いいではありませんか。
 
ところで、私の子どもの頃のおじいさんたちは、本当に話がうまかったので
す。
いま聞くと、吹き出したくなるものばかりでしたが、夢がありました。
これもその一つなのですが、お月さまにうさぎが住んでいる証拠は、
「満月の晩に見てみ、うさぎが餅をついているように見えるのは、あれは、
うさぎの国の旗、国旗だ。お月さんはうさぎの国だと、宣告しているのだよ」
こう、いうのです。
太平洋戦争の真っ只中です。
戦争は、命を的にした領土の争奪戦ですから説得力もありました。
それで、私が、
「じゃ、おじいちゃん、地球を月のうさぎが見たら、どんな旗に見えるのか
な?」
「そりゃ、人間に決まっとるがな」
理屈でなくて、何だかおかしな話でしたが、本当のような気がするのです。
うさぎが住んでいるから「うさぎの旗」、人間が住んでいるから「人間の旗」
なのだそうです。
おじいちゃんの頭に浮かぶ人間は、絶対に日本人です。
そして、日の丸の旗を持っているに違いありません。
もしかしなくても、旗を持っているのは兵隊さんです。
こういったような、お年寄りとの楽しい会話が、懐かしく思い出されます。
昔のお年寄りは、一家の生活の一部を、きちんと担っていたのではないでし
ょうか、それも、尊敬されて、です……。
 
うさぎの住んでいる満月を見ながら、すすきやおだんごを飾り、自然に感謝
する心は、小さい時に、きちんと育んでおきたいものだと思います。これも
情操教育に欠かせない、大切な行事ではないでしょうか。
満月を、星を、しみじみと眺めたことはありますか。
お子さんと一緒に、夜空を探索してみましょう。
澄んだ秋の空には、お子さんと共有できるロマンがあふれています。
星座にまつわる伝説を知る機会になるかもしれません。
3つの星が並ぶオリオン座と宵の明星、金星しか識別できませんから、偉そ
うなことはいえませんが(笑)。
 
ところで、外国の人々も、うさぎだと見ているのでしょうか。
天の川と同じく、いろいろな見方があるもので、想像のつかないものもあり、
見る位置により、こんなに違うものかと驚かされました。
 
中国では、うさぎが薬草を作っているとも、ひきがえるやかにがすん
でいるともいわれています。ヨーロッパや北アメリカでは、女の人の
横顔やロバ、インドや南アメリカではワニ、中東ではライオン、アフリ
カではうさぎがひっかいた傷に見えるそうです。
 (心を育てる 子ども歳時記 12ヵ月  
  監修 橋本裕之 講談社 刊 P83)
 
やはり、世界中の人々も、こうこうと輝く満月に、いろいろな思いを抱いて
いたのですね。
海外へ出かけたとき、お月さまがどのように見えるか、お子さんと一緒に眺
めてみるのも、いい思い出になるかも知れません。
満天の星の主役は、北斗七星や南十字星、オリオン座などのようですが、お
月さまも加えてみてはいかがでしょうか。
手軽に出かけられませんが、南極では、逆さまに見えるそうです。
 
最後に、お月さまといえば、文部省唱歌の「月」(詩曲 作者不詳)を、懐か
しく思い出します。
 
1.出た 出た 月が  まるい まるい まんまるい  盆のような月が
2.隠れた雲に   黒い 黒い 真っ黒い   墨のような 雲に
3.また出た 月が  まるい まるい まんまるい  盆のような 月が
 
といっても、しみじみと眺めた、詩情豊かなといった高尚なものではなく、つ
まらない遊びなのですが、なぜか、思い出すのです。
この歌詞を、逆さまから歌うだけの、ばかげた話ですが、これがおかしくって……。
 
1.たで たで がきつ  いるま いるま いるまんま  なうよのんぼ がきつ
2.たれくか にもく  いろく いろく いろっくま  なうよのみす にもく
 
みんなで、なぜだか、ゲラゲラ笑いながら、品悪く歌って、面白がっていたの
です。
「いーるま いーるま いるまんま」とか「いーろく いーろく いろっくま」
と声を張り上げて。
今、歌ってみても、笑っちゃいますね、ばかばかしくて(大笑い)
何しろ、戦後の何もない時代でしたから、こんなことでも楽しかったんですね。
この歌を聞くと、いつもお腹をすかしていた、あの頃を思い出します。
 
    (次回は、「秋の七草」などについてお話しましょう)
 

さわやかお受験のススメ<保護者編>★★第10章 終戦記念日、このことです 葉月(4)

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         「めぇでる教育研究所」発行
     2016さわやかお受験のススメ<保護者編>
         ~紀元じぃの子育て春秋~
     「情操教育歳時記 日本の年中行事と昔話」
       豊かな心を培う賢い子どもの育て方
             -第39号-
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第10章  終戦記念日、このことです   葉 月(4)
 
間もなく終戦記念日。明治生まれの親父と一緒に、九段にある靖国神社へ出か
けたことが、懐かしく思い出されます。「戦友に会いに来ているんだよ。戦地
で亡くなったら、靖国で会おう」が合言葉だったそうです。60年安保闘争の
時、「アメリカの核の傘に守られていることを少しは考えろ!」と叱られ、二
等兵の経験者だけに、「書生のたわごと、机上の空論が何の役にも立つものか!」
と痛烈でした。境内にある遊就館、「一度しかない人生を、しっかりと生きろ!」
と叱責されるような気がする館(やかた)で、元気を頂いています。
 
【八月に読んであげたい本】
昭和20年3月10日、東京大空襲。たった一晩で、10万人もの尊い命が失
われました。もし、親父の転勤がなければ、この日で私の人生は終わっていた
かも知れません。東京の下町、日暮里に住んでいたからです。戦後、訪ねた親
父の話では、一面焼け野原で、知人は誰もいなかったそうです。
「東京大空襲ものがたり」、年長さんでも理解できるのではないでしょうか。
当時の世相や風習もわかりやすく解説されています。作者は早乙女勝元氏で、
既刊の「東京大空襲」は読みましたが、こういった映画があり、子どもたちに
も読める本があるとは知りませんでした。ダイジェストにするのはおこがまし
いと思い、本文を少し紹介することにしました。
 
今井正監督の「戦争と平和」。
主演は20歳になったばかりの愛らしい工藤夕貴。空襲のシーンは、思わず息
をのむ凄さです。主人公の電柱を巡って、次々に起こる悲しいできごと。私は
作者であることを忘れて涙が止まりませんでした。なお、映画の原作分「戦争
と平和」は講談社から刊行されましたが、私はこの電柱のことを子ども達に伝
えようと、同じ題材で書いたのが、この「東京大空襲ものがたり」となったの
です。
 
「電柱だけが知っている炎の夜のこと。
ゆかりと進一の家の近くに、真っ黒こげの電柱があります。
これは、咲子おばさんにとっては、たった一つだけの、大事な目印なのです。
東京大空襲の炎の夜に、おばさんは、赤ちゃんの螢子ちゃんと、ここではぐれ
てしまったのです。
二人は父さんから、その話を聞かされ……」
 
これが物語の始まりで、真っ黒こげの電柱の叫び声で終わります。
 
亡くなった人は、何も語ることができませんが、どれだけたくさんの、つらく
悲しいできごとがあったことでしょうか。焼け残りの電柱は、今も東京下町の、
あの町角に立っています。北風の吹く寒い日も、夏のカンカン照りの日も、電
柱は亡くなった人たちに変わって、「炎の夜」のできごとを、私に、そしてみ
んなに語り続けているように思われます。
でも、その声は聞こえません。ですから、ゆかりと進一は、電柱にかわって、
こう呼びかけるのです。
 誰もが、平和を守るための努力を、
 そのための、小さな勇気を、
 わすれてはいけない、と。     花房ゆかり 眞一
東京大空襲ものがたり  早乙女勝元 著 有原誠治 絵  金の星社 刊
 
絵は、アニメの好きな方にはすぐわかるおなじみのはずです。辛い体験をされ
た方々は、冥界に旅立たれているのではないでしょうか。こういった現実があ
ったことを、しっかりと子どもに伝えることも、親の仕事ではないかと思いま
す。久しぶりに図書館に出かけ見つけ、「楽をするなよ!」と叱りつけられた
気がしました。昔、娘が涙を流しながら読んでいた「ガラスのうさぎ」にも出
会いました。(反省)
 
長崎のピカ
昭和20年の8月6日に、広島に原子爆弾が落とされたの。
一発で広島中が燃え、何10万の人が死んだの。
3日後の8月9日、今度は長崎に落ちて、私の家族8人は一人ずつ順々に死ん
でいったの。
最初に死んだのは、おばあちゃん。
外出中に被爆し、真っ黒になり、はらわたを出して死んだの。
次の日に、父さんと母さん、兄ちゃんと死んでいったけれど、上の妹、ゆみ子
は、ずうっと見ていたの。
次の日の明け方、きれいな船に、父さんと母さんと、おばあちゃんと兄ちゃん
が笑って、おいで、おいでしていると、かぼそい声で言うの。
「船に乗ったらだめ!」
と叫んだけれど、「みんなで迎えに来たよ」と言って亡くなったの。
顔はボールのようにはれあがり、歯ぐきはまっ黒にただれ、紫色の斑点が身体
中に出て、口も動かないの。
でも、そう言って死んだの。
気がついたら、弟も死んでいたの。
下の末っ子の妹、すず子は、防空壕で体を寄せ合っていたら、冷たくなってい
くので、マッチをつけてみたら、もう死んでいたの。
その身体を、一晩中だいて寝ていたの。
冷たくて、皮がべろべろとはげるの。
次の日、お隣のおじさんがきて、一人ずつ焼いたの。
 私は、12歳でした。
夏休みのはなし
「海ぼうず」 松谷みよ子/吉沢 和夫 監修 日本民話の会・編
  国土社 刊 
 
12歳の無残な夏、平和な時代に生かされていることに、ただ感謝するだけで
す。
私は広島に原子爆弾が落とされた時、岡山の県境にある忠臣蔵で名高い播州赤
穂、兵庫県赤穂町に住んでいました。
真っ青に晴れ渡った暑い朝でした。突然、空が濃霧のようなものに覆われ、真
夏の太陽が肉眼で見えるほどになったのです。これが、あの悪名高きキノコ雲
が流れてきたのだとは知りませんでした。「新型爆弾が落とされたらしい!」
と、大人達が声をひそめて、ささやきあっていたことを覚えています。
5歳の夏でした。 
 
8月6日は広島原爆忌。
慰霊碑に「過ちは繰り返しませぬから」と刻みながら、原発を受け入れ、想定
外の事故とはいえ、過ちを繰り返してしまいました。しかし、もう草木も生え
ないだろうといわれた廃墟の中から、広島も、長崎も、復興しました。快適な
文化生活を望み、その結果として原発は作られたことも、自分達の住む町にな
いことに胸をなでおろし、後ろめたい気持ちで、私達は承知していたのではな
いでしょうか。ですから、日本列島に50基もの原発が設置されたわけです。
東電や福島県民の皆さん方だけが苦労するだけではなく、国民全員が、不便な
生活へ戻ることを覚悟し、真摯な気持ちで「電力について」考えるべきではな
いでしょうか。とは言え、この猛暑、クーラーなしの生活は考えられません。
「のど元過ぎれば熱さを忘れる」、情けない話ですが、人間、本当に弱いです
ね。
 
◆ホタルになった兵隊さん◆   堀田 貴美 著
前の戦争のとき、九州南端の知覧に陸軍の飛行場があり、戦争末期、そこは特
攻基地でした。
特攻機は人間爆弾で、搭乗員は、二十歳前後の若者達だったのです。
基地の近くに、おばさんと二人の娘が手伝う富屋食堂があり、隊員達に親しま
れていました。
その中に、出撃後に飛行機が故障して、帰ってきた宮川三郎軍曹がいました。
再び、出撃しましたが、二度とも機械が故障し、引き返したのです。
整備隊長に、いい飛行機をくださいと訴えました。
仲間が戦死し生き残るのは辛かったのでしょう。
同じ頃、やはり、一人生き残った滝本軍曹が配属され、宮川さんと知り合い、
富屋に一緒に顔を見せるようになりました。
昭和20年6月5日の夕方、二人は、明日出撃するため、富屋へ別れにきたの
です。
娘たちは、出撃の鉢巻きを贈り、話もつきません。
帰りがけに宮川さんが娘達に、
  「明日の晩9時に、ホタルが2匹入ってくるから、中に入れてやってね」
と言いました。
翌日は天気が悪く、富屋の人達は、案じていましたが、夜8時頃、滝本さんが
現われ宮川さんは行ったという。
2機並んで飛び立ったが、雨雲にさえぎられ、帰ろうと合図しました。
宮川さんは、「お前は引き返せ」と、別れの合図をし、雨雲の中へ飛び去った
のです。
娘達は、宮川さんの気持ちが、痛いように伝わってきました。
その時、一匹のホタルが天上にとまり、時計を見ると、9時でした。
宮川さんが言った時刻と何秒も違いません。
店にいた隊員もよってきて、滝本さん達は、ホタルを見ながら、宮川さんの思
い出を話しました。
ホタルは、話を聞いているようでした。
「宮川さん、やっぱり帰ってきたんじゃねえ。」
おばさんは、ぽつんと言いました。
日本むかしばなし 23
ジェット機とゆうれい 日本民話の会 金沢 祐光 絵  ポプラ社 刊 
 
最後の、おばさんのつぶやきが、悲しく、むなしい。多くの人達の犠牲でつか
んだ平和を、私達は、浪費していないでしょうか。特攻については「11月に
読んであげたい本」でお話しします。
 
盛夏、真夏に怪談話を一席。 
むかし話にも怪談はありますが、現代っ子は、昆虫を殺しても、「電池、取り
替えてよ、お母さん!」というそうですから、こんな話、恐がらないでしょう。    
 
◆あめかいゆうれい◆   中本 勝則 著
ある夏の暑い晩のこと。
あめ屋のじいさんのところへ、青ざめた顔をした一人の女が、あめを買いにき
たのです。
それからというもの、決まったように、夜遅く、あめを買いに来ます。
七日目の晩のことでした。
「あめをください」と差し出した手に、銭はありません。
いつもより、青ざめた顔は、悲しそうに見えるのです。
じいさんは、何もいわずに、あめをあげました。
「どこの人だろう」と後をつけると、不思議なことに、山寺の山門まで来ると
姿を消したのです。
すると、寺の中から、赤子の泣き声が聞こえるのでした。
驚いたじいさんは、和尚さんに訳を話すと、まだ新しい墓にじいさんを連れて
いったのです。
先日、赤子を身ごもったまま女の人が亡くなり、それがこの墓だというのです。
掘り出してみると、棺桶の中で、玉のような男の子が、母の胸にしがみつき、
見れば男の子は、あめをにぎっているではありませんか。
じいさんが売ったあめでした。
昔、死んだ人には、一文銭を六枚、手に握らせ墓に埋めたそうです。
死んだら渡る「三途の川」の渡し賃でした。
しかし、母親の手の中には、六文銭はなかったのです。
和尚さんは、泣いている男の子を抱き上げて、「母さまは、わしが供えた銭で、 
毎晩、お前のために、あめを買いに行ったのだ」と言って、静かに念仏を唱え
たのでした。
 海ぼうず  松谷 みよ子/吉沢 和夫 監修
 日本民話の会・編  国土社 刊 
 
妖怪やお化けの話は、たくさんあります。幼児用に、怖くない話が多いですか
ら、お子さんが興味を持ったときは読んであげましょう。無理なく、勧善懲悪
を教えるように構成されているからです。
 
ここで、大人の皆様方に、背筋がぞっとする話を紹介しましょう。
柳田国男の「遠野物語」から「おしらさま」です。
学生時代に読み、泉鏡花の世界以上に、「こんなに簡潔で、背筋の寒くなるよ
うな名作があるとは」と感動したのですが、今夢中になって読んでいる梅原猛
氏の本に、当時、感じていたことと、同じ感想が述べられていたことに驚きま
した。
 
昔ある所に貧しき百姓あり。妻はなくて美しき娘あり。又一匹の馬を養う。娘
此馬を愛して夜になれば厩舎(うまや)に行きて寝(い)ね、終(つい)に馬
と夫婦に成れり。或夜父は此事を知りて、其次の日に娘には知らせず、馬を連
れ出して桑の木につり下げて殺したり。その夜娘は馬の居らぬより父に尋ね此
事を知り、驚き悲しみて桑の木の下に行き、死したる馬の首に縋(すが)りて
泣きゐたりしを、父は之を悪(にく)みて斧を以て後より馬の首を切り落せし
に、忽(たちま)ちむすめは其首に乗りたるまま天に昇り去れり。オシラサマ
と云ふは此時より成りたる神なり。馬をつり下げたる桑の枝にて其神の像を作
る。
 
これは柳田のつくったみごとな短文であると私は思う。柳田はしばしば日本の
昔話や伝説の中に、現代の小説よりはるかに面白くて、はるかに深い話がある
と語っているが、当時、自然主義文学の平板さを嘲笑しようとしていたように
すら、私には思われる。(中略)桑の木に垂れ下がった、すでに死んだ馬の首
にすがって泣いている娘、それを見て激怒して、斧で首を切る父、そしてその
切られた首とともに昇天する娘、その二行に匹敵する緊張感を持った日本語の
文章を探すことは、難しいと私は思う。
(日本の深層 縄文・蝦夷文化を探る P99~100 集英社文庫 刊)
 
現代文に訳すと、ナンセンスでポルノ風な話になり、民話の素朴な世界は失わ
れてしまいます。短歌のように、余分なものを切り捨て、あとは読む者に解釈
を任せる民話が好きで、氏の解説から、学生時代にタイムスリップさせてもら
えました、読書の醍醐味ですね。
 
この本には、土着の縄文文化が稲作を持った弥生文化に攻め込まれ、大和朝廷
ができ、全国制覇のために蝦夷征伐が行われた経緯を、わかりやすく解説して
いますが、「アイヌと倭人(日本人)は同じ民族である」と指摘するところは
圧巻で、既成事実を論破していくゆるぎない論調にのめりこんでしまい、暑さ
を忘れさせてもらっています。
 
応援に駆けつけた郡上藩士から見た、破壊されていく会津藩をえがいた「残菊
の露 上・下」(澤田ふじ子 著 中央文庫 刊)でも、黙々と戦い、戦後、
斗南での過酷な生活に耐える姿が克明に描かれていますが、「なぜ、松平容保
は、かくも徳川家に忠誠をつくしたか」を氏は、以下のように絵解きしていま
す。
 
徳川幕府は、三代家光の時に盤石の態勢を整えたが、その基礎を作ったのは二
代将軍秀忠が下女に産ませた子で、正室の江を恐れ、ひそかに養われた経緯を
もつ保科正之。「将軍家に忠実をつくす」を天下の法に定め、会津藩にいち早
く日新館を建て、正直を尊ぶ縄文文化の道徳が強く残ることも相まって、純真
な武士道が確立され、民衆にまで深く浸透し、その教えをかたくなまでに守り、
実行したのが容保で、耐えたのが会津藩の人々。
幕末、徳川家に加担し、王城の地を守った会津藩と新撰組は、徹底的に薩長の
報復を受けたことはよく知られていますが、江戸無血開城を実現した裏には、
徳川慶喜と勝海舟が保身を図るために、官軍の憎しみの目を会津に向けさせた
のではないかとの推察は、さっさと大阪城を後にした慶喜のその後の行動を見
ても、真偽はともかくとして、肯きたくなる気迫にあふれていました。
 
「天璋院篤姫」以来、なぜか、大河ドラマの主人公に関係のある本を読むこと
になり、「八重の桜」からは、縄文文化を知ることになった「日本の深層」に
出会うなど、何やら因縁があるのではと思っています。もっとも、この文庫本
は、1994年に発売されていますから、今頃になって大騒ぎするバカ者が言
うのもなんですが、「おしん」に代表される東北人の忍耐強さの一端を理解で
きました。
 
目下、放映中の「花燃ゆ」は、せっかちな私にはまどろっこしいテンポにイラ
イラし、高杉晋作を扱った本を読み直してみました。その中の一冊、幕末、官
軍につくか幕府に従うか、迷う長岡藩家老、河井継之助を描いた「峠 (上下)」
(司馬遼太郎 著 新潮社 刊)には、晋作は“ただ者”ではなかったことが
書かれたおり、イライラの源は、この本であったと思い出し納得しました。下
巻の50~100頁には、福沢諭吉の西洋の自由と権利に基づく「独立自尊」
の精神が発酵する過程も描かれています。
 
余談ですが、諭吉が酒好きであるとは知りませんでした。
母親が幼童の福沢の月代(さかやき)を剃るとき、痛さに我慢できなくなり泣
くと、母親は、「あとで酒をたべさせるから」となだめて剃ったとか。こうい
った話に出会うと、うれしくなりますね。「酒をたべさせる」は誤植ではあり
ません。酒粕ではないでしょうか。私も幼少のみぎり、少し食べて頬を染め、
ボーッとなった記憶があるからです。この幼児体験が酒好きになったとは、単
なる言い訳です(笑)。
(次回は、「お月見です」についてお話しましょう」
 

さわやかお受験のススメ<保護者編>★★第10章 終戦記念日、このことです 葉月(3)

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         「めぇでる教育研究所」発行
     2016さわやかお受験のススメ<保護者編>
         ~紀元じぃの子育て春秋~
     「情操教育歳時記 日本の年中行事と昔話」
       豊かな心を培う賢い子どもの育て方
             -第38号-
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第10章  終戦記念日、このことです   葉 月(3)
 
★★日本に富士山はいくつぐらいあるでしょうか★★
皆さんの住む街に「○○銀座」と命名されている所はありませんか。かなり、
あるはずです。なぜ、全国、至る所に銀座があるのでしょうか。
 
銀座は、もともと、江戸幕府が銀貨の鋳造や発行をした役所のあった所で、明
治を迎えて廃止されましたが、文明開化のもと洋風建築の商店街がつくられ、
以来、東京随一の繁華街と発展し、「銀座」の名前は残ったのです。後発の新
宿や池袋に押され気味でしたが、現在では、1丁目から8丁目まで、大人の街
として東京の観光スポットに欠かせない存在となっています。その繁栄にあや
かろうと、各地の中心街の地名に用いられるようになり、そこから人のにぎわ
う場所を表す言葉ともなって、全国に銀座が生まれたのです。
 
文化遺産に登録された富士の名も、銀座と同じように全国に見られます。
いうまでもなく富士山は、山梨と静岡の両県にまたがる日本の最高峰で、標高
3776メートルの火山です。宝永4年(1707年 徳川吉宗の時代)の噴
火で宝永山ができ、以来、活動を中止していますが、いつ噴火しても不思議で
はない、歴然とした火の山です。古くから霊峰とあがめられ信仰登山が盛んで、
頂上には浅間(せんげん)神社が祭られ、富士、不二、不二山、不尽山、富岳
(ふがく)、芙蓉峰(ふようほう)、ふじやま、ふじのやま、富士の高根、と
いった名称で親しまれ、桜と共に日本のシンボルとして、世界の人々にも知ら
れています。
 
ところで、自然環境保全などのために入山料1,000円(6月1日~9月15日)
を徴収することになりましたが、あの登山ラッシュの様子を見ていると、休む
所も、トイレなどの設備も、十分とはいえず、また、安全登山を確保するのも、
問題が出そうですから、当然でしょう。
ちなみに、白神山地は任意で一人300円以上、屋久島は500円ですが、世
界の最高峰エベレストにネパール側から入山する場合、一人1万ドル
(約100万円)以上が必要だそうです。
 
富士山へ1回だけ登りました。ご来光や雲海は素晴らしい眺めで、神秘的な気
持ちになりましたが、土と岩の殺風景な登山道は、人間を寄せ付けない無言の
威圧を与え、富士山は遠くから眺めるものだと痛感したものでした。様々な方
角から眺めるのが好きなもので、あちこちに出かけましたが、千円札の「逆さ
富士」は本栖湖に映る富士で、案外知られていないのではないでしょうか、絶
景です。
 
上高地や尾瀬沼は、学生時代重装備で登ったものですが、今はサンダル履きで
も行けますから、人、人、人で味気なくなりました。民話風でなんですが、人
間があまり自然に手を加え過ぎると、山の神様の機嫌を損じることにならない
かなと心配しています。御嶽山の大惨事、最近の箱根山など、自然と仲良く暮
らす、これは古来、わが民族の知恵ではなかったのではないでしょうか。
 
富士山に関して、自慢できることが一つ。
昭和44年に初めてジェット機に乗ったのですが、当時西へ行く便は、富士山
の上を飛んでいたので、山頂のすり鉢を見ることができ、写真も撮りました。
乱気流で事故があって以来、山頂は避けているようです。
 
さて、銀座が繁栄にあやかろうと普及したものなら、富士山は、その秀麗な姿
を愛する私たちの心に、いわく言いがたいやすらぎを与えてくれることから、
「おらが故郷の富士」と自賛する富士の名称が、全国に生まれたのではないで
しょうか。 北は北海道から南は鹿児島まで、全国各地に富士の名山ありなの
です。ちなみに、日本には108の火山があり、不思議なことに、12月に紹
介しました人間の煩悩の数と同じでしたが、2011年(平成23)現在110
だそうで、一番多いのは北海道の29(北方領土に11)、二番目は何と東京都
で、三原山から最南端の日光火山に至る伊豆、小笠原諸島に21あり、三番目
は鹿児島で10あるそうですが、近畿、四国には活火山はありません。
おらが故郷の富士を紹介しておきましょう。
 
蝦夷富士(羊蹄山)標高 1,989m
   北海道には、この他に富士に似た山が16山あります。
 
津軽富士(岩木山)標高 1,625m
   津軽の人々は、岩木山こそ日本一の美しい山で、本家を「駿河富士」と
   呼ばせたい思いがあるそうです。         
  
南部富士(岩手山)標高 2,038m
   静岡県から見た富士山に似ており、片側が削げているように見えること
   から南部片富士ともいわれています。   
  
吾妻富士(吾妻山)標高 1,707m
   浄土平のシンボル、別名吾妻小富士山、本家と同様、摺り鉢状の火口に
   は水はたまっていません。初めて訪れたとき、山頂から見上げる一切経
   山は、霧がかかり、地獄のような姿を見せてくれました。
  
榛名富士(榛名山)標高 1,391m
   榛名山中央にある火口丘で榛名湖の東にそびえ、湖畔に映る姿は美しく、
   頂上にある神社は縁結び、安産の神として信仰されています。
 
信濃富士(黒姫山)標高 2,053m
   黒姫山は妙高、戸隠、飯綱、斑尾山と並ぶ信越五山の一つで、野尻湖へ
   のびた裾野には世界中から集められたコスモスが咲く黒姫高原がありま
   す。 
 
伊豆富士(大室山)標高 581m
   お碗を伏せたようなやわらかな曲線の山で、山麓には35種3000本
   の桜を栽培した「さくらの里」があり10月から翌年5月まで咲いてい
   るそうです。  
 
八丈富士(八丈島 西山)標高 854m
   ひょうたん型に似た八丈島の北川にそびえる伊豆七島の最高峰、晴れて
   いれば、ご本家を眺望できます。
  
近江富士(三上山)標高 432m 
   湖国のシンボル、俵藤太の「百足伝説退治」で知られています。   
  
都富士(比叡山)標高 848m
   天台宗総本山延暦寺のある山で、西側の宝が池公園から見ると「ふるさ
   と富士」に見えます。     
  
有馬富士(角山)標高 374m 
   北摂・三田(さんだ)八景の一つで、「有馬富士 ふもとの海は霧に似
   て 波かと聞けば 小野の松風」と花山法皇が詠んだ花山院からの展望
   が絶景。
     
伯耆富士(大山)標高 1,711m
   鳥取西部にある火山、中国地方の最高峰。中腹に大山寺があり、伯耆
   (ほうき)富士、出雲富士ともいわれています。     
  
安芸富士(広島 似島)標高 278m
   広島市の沖に浮かぶ似島で、原爆投下後、1万人もの被爆者が運びこま
   れた島。
   安芸富士は8月6日を忘れません。
  
讃岐富士(飯野山)標高 421m 
   台形型の代表である屋島、奇峰型の代表五剣山と共に香川県の山の典型。
 
小富士(愛媛 興居島)標高 282m 
   霊峰富士を思い切って縮小すると、こうなるという見本のようなミニ富
   士で、興居島「ゴゴシマ」と読みます。
  
筑紫富士(浮岳)標高 805m
   浮岳は、越前と肥前を分ける背振山地の西端にある山で、唐津焼きで有
   名な唐津側から見ると富士の形に見えます。
  
豊後富士(由布岳)標高 1,584m
   日本を代表する温泉地湯布院町にあり、西峰で360度の展望を楽しめ、
   独立峰のため風が強く、冬は霧氷の名所として知られています。
 
薩摩富士(開聞岳)標高 922m          
   三方を海に囲まれた裾野がきれいな山で日本百名山の一つ。特攻隊員が
   目に止めた最後の内地の山。
 
ホームページで検索すると、標高2000メートルから300メートルに満たない
ミニ富士まで、四季折々の富士の山を見ることができます。いずれも見慣れた
コニーデ、円錐状の山で、あるものだなと感心してしまいます。
 
ところで、話は脇にそれますが、私の友人に少し斜に構えてものを見る面白い
奴(やつ)がいて、富士の形は、国家権力を表すヒエラルキーだから、富士山
を愛するなど「おめでたい奴よ」といったことがありました。
ヒエラルキーとは、ピラミッド型の階層的な組織のことですが、明治政府が国
民に、日本は将軍に代わり、頂上に天皇をいただく国であることを印象づける
ための国策として、富士山をプロパガンダ(思想などの宣伝)として利用した
のだそうです。その証拠に、銭湯の壁面には、必ず富士山と松と桜に青い海が
描かれおり、入る人は否応なしに見ることになりますから、「国家権力に従順
な人間をこしらえるための陰謀だったのよ」というのです。
        
5月のしょうぶ湯のところでも紹介しましたように、昔は内風呂のある家は少
なく、銭湯を利用していましたが、浴槽の上にあるかなり広い壁面には風景画
が描かれてあり、それが、どこのお風呂屋さんでもお目にかかるお馴染みの装
い、頂に雪をかぶった富士の山であり、青い海であり、緑の松の木となってい
ました。
 
4月に紹介しました桜が、軍国主義に利用されたことを考えれば、奴の考えも
的を射ているかなとも思いますが、平和な時代に生きる私には、桜も富士山も
平和のシンボルとみていいのではというと、「だから、てめぇちは駄目な奴だ
というのよ!」と『我輩は猫である』に出てくる「クロ」の台詞をそっくり真
似て、切って捨てられたものです。1960年、安保条約改定で、世情は騒然とし
ていました。
「作品はいただけねえが、クロはいい奴なのよ」
と妙に肩入れしていた奴の姿が、富士山を考えていると懐かしく浮かんできた
のです、あの毒舌と共に。奴は、難しい局面に出会うと、
     来て見れば 聞くより低し 富士の山
           釈迦や孔子も かくやあるらん  村田清風
と、うそぶいたものでした。
村田清風は、司馬遼太郎の作品にしばしば登場しますが、幕末、長州藩の破産
同然の財政を立て直した人です。
  
こういった考えで人を見る奴にかかると、文豪、夏目漱石も形なしですが、で
も、「虞美人草」の藤尾(我の強い美人)を批判しようものなら、二度と口を
利かなくなるほど思い込みが激しかったのです。
学生時代の話ですから、もう50数年前にもなりますが、人間の記憶は、摩訶
不思議な仕組みになっているようですね。すっかり忘れていたことが、突然、
よみがえってくるのですから。でも、奴のいうことが本当の話であったら、何
とも国家権力は、巧妙な手段をこうじるものだと舌を巻きますね。
 
神社の境内を散策するときや、富士の高嶺を仰いだときに感じる気持ち、あれ
が大和心なのではないかなどと、うっかりいおうものなら、
「ケッ、年はきちんと取りたいものよ!」
と笑われたに違いありません。何事にも自分の意見を一つ言わなければ気の済
まない一言居士でしたから……。
 
奴は、日本のライオネル・ハンプトンといわれたビブラフォン奏者、スイング
ジャズの素晴らしさを教えてくれた私の尊敬する大先生、平岡精二氏の作った
「あいつ」や「つめ」が大好きでしたが、二人とも冥界に旅立ってしまいまし
た。
「あとに残された者は、いつまでも思い出を背負っていくものなんだな」
などと感傷的な言葉を並べようものなら、
「キザは、およしよ!」
と容赦なくやられるだろうな、奴のことだから……。   
奴の好きだった「つめ」、こういう歌詞でした。かなりのロマンチストであっ
たことも間違いありませんね。
 
※ライオネル・ハンプトン アメリカのスイングジャズ時代の名ビブラフォン
奏者で、「スターダスト」はいつ聴いても飽きることのない不朽の名演奏。
 
つめ   作詞 作曲 平岡精二
(1)二人暮らしたアパートを  一人ひとりで出て行くの
   すんだことなの今はもう  とてもきれいな夢なのよ
   あなたでなくてできはしない 素敵な夢を持つことよ
   もうよしなさい悪いくせ 爪を噛むのはよくないわ
 
(2) 若かったのねお互いに あの頃のこと嘘みたい
   もうしばらくはこの道も 歩きたくないなんとなく
   私のことは大丈夫よ そんな顔してどうしたの 
   直しなさいね悪いくせ 爪を噛むのはよくないわ
 
精ちゃん(生意気にもこう呼んでいたのです!)の失恋の歌だと聞いていまし
た。お相手は俳優の根上淳さんと結婚したペギー葉山さん。恥ずかしがり屋の
精ちゃんが、つめを噛む姿を想像しがちですが、本当は、ペギーさんの癖だっ
たそうです。
ペギーさんは大ヒットした「南国土佐を後にして」で、全国に知られるように
なりましたが、本当は江利ちえみさん(高倉健の元奥さん)、雪村いずみさん
と共に本格的なジャズを歌える、数少ないジャズシンガーだったのです。
 
以前、ペギーさんのもう一つのビッグヒット曲である「学生時代」について、
面白い記事を見つけましたので紹介しましょう。
 
「学生時代」は、青山学院時代に、当時の高等部の2年生であった平岡さんが、
男子部校舎の窓から見ていたペギーさんの姿を見て作詩、作曲したもの。「蔦
の絡まるチャペル」で始まるこの歌は、1964年12月に発売され、ロシア民謡風
のメロディが受け、高度経済成長期を支えたサラリーマンや学生らに歌声喫茶
で歌われ、ミリオンセラーとなった曲。
学院出身者には第二の校歌として親しまれており、その歌碑が11月に迎える学
院創立135周年を前に記念碑として建立された。場所は、ペギーさんが結婚式
を挙げた蔦の絡まったチャペルの前。平岡さんは、題名を「大学時代」と決めて
いたが、「大学に行っていない人もいるのだから」とペギーさんが説得し、
「最後は精ちゃんが折れたの」といった逸話が残っている。
 〔平成21年3月17日(火) 東京新聞 夕刊より〕
 
青山学院初等部の学校説明会へ参加した時には、必ず訪ねています。歌詞と自
筆の譜面も刻み込まれた、質素な歌碑です。50年ほど前の話ですが、精ちゃ
んの演奏を聴くために、ジャズ喫茶に通っていた高校生時代が懐かしく思い出
され、感無量でした。
「歌声喫茶」はロシア民謡などを、アコーディオンの伴奏で、みんなで歌えた
場所であり、「ジャズ喫茶」は、当時の一流ジャズメンの演奏を、一杯100
円のコーヒーで聴けたライブハウスで、70歳前後の方々には、青春時代のよ
き思い出の一つになっているのではないでしょうか。しかし、若い皆さん方に
は、何のことやらわからないかもしれませんが、年寄りの昔話と読み流してく
ださい。
ちなみに、学院の校歌である「青山学院」の作曲も精ちゃんです。ジャズプレ
ーヤーが、母校の校歌を作曲しているのも珍しいのではないでしょうか。
 
また、立教大学にも歌碑があるのですか、ご存知でしょうか。
鈴木章治(戦後のスイングジャズを支えた名クラリネット奏者)とピーナッツ・
ハッコー(アメリカのクラリネット奏者)が競演して大ヒットした「鈴懸けの
径」の歌碑です。6月の立教小学校の説明会の帰りに見てきましたが、4号館
前の鈴懸けの並木路に、ひっそりとたたずんでいました。もっとも大ヒットを
したのは昭和30年代ですし、作曲されたのは昭和17年だそうですから、無
理のないことかもしれません(笑)。
(次回は、「8月に読んであげたい本」についてお話しましょう)
 

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