2025さわやかお受験のススメ<保護者編>第13章 七五三でしょうな 霜 月(2)
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「めぇでる教育研究所」発行
2025さわやかお受験のススメ<保護者編>
「情操教育歳時記 日本の年中行事と昔話」
豊かな心を培う賢い子どもの育て方
-第48号-
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第13章 七五三ですね 霜月(2)
9月17日(火)の十五夜の満月をご覧になった方、10月15日(火)の十三夜も見ておきたいものです。「両方見ないと縁起が悪い」と言われていたそうですが、これは江戸時代の遊里、吉原の客寄せのキャッチフレーズで、「両日ともいらっしゃい!」が狙いだったとか。考えたものですね(笑)。
「箱根、仙石原のすすきが色づき始めました」とテレビで放映されていましたが、絶景です。お子さんに、満月とすすき、日本の秋の風物詩を肌で感じさせたいものです。
★★むかし話と伝説の違い★★
孫引きで気が引けるのですが、「昔話と伝説」について、わかりやすい解説がありますので、紹介しましょう。
昔話と伝説には区分がある。
「昔、昔、あるところにお爺さんとお婆さんがいました」と始まるのは昔話のほうである。いつ、どこで、だれが……を特定していない。いつでも、どこでも、だれでもかまわない。
そこへ行くと伝説のほうは、「伊吹山と浅井岳は古くから高さを競い合っていたが、あるとき浅井岳が一夜にして背を高くした。伊吹山の神タダミヒコはおおいに怒って浅井岳の神アサイヒメの首を斬った。首は琵琶湖に落ちて島となり、これが竹生島である」といったぐあいに、まことしやかである。いつ、どこで、だれが、といった事情がそれなりにはっきりとしている。とりわけ土地との結びつきが深い。どこで起きたことなのか具体的に記されている。
柳田國男 (1875-1962)の言葉を借りれば、
「伝説と昔話とはどう違うか。それに答えるならば、昔話は動物のごとく、伝説は植物のようなものであります。昔話は方々をとび歩くから、どこに行っても同じ姿を見かけることができますが、伝説はある一つの土地に根を生やしていて、そうして常に成長してゆくのであります。雀や頬白(ほおじろ)はみな同じ顔をしていますが、梅や椿は一本一本に枝ぶりが変わっているので見覚えがあります」(「日本の伝説」はしがき)
とあって、このたとえ話はわかりやすい。
伝説は土地との関わりにおいていろいろな枝葉をつけ、人々の願望を反映して成長していく。昔話はどこにでも移っていく。同じような話があちこちにある。
多少姿がちがっても「同じものだな」と見当がつく。
(集英社文庫 「ものがたり風土記」P23 阿刀田 高 著 集英社 刊)
「さすが、柳田國男先生」などとおこがましい限りですが、「昔話は動物のごとく、伝説は植物のようなものであります」の一言ですね。
【十一月に読んであげたい本 (1)】
七五三は、親が子どもの健やかな成長を祈る日です。しかし、かけ過ぎる愛情は、子どもの成長を妨げがちです。七五三は、親の子どもに対する愛情チェックの節目ではないかと思います。子を思う親の素朴な愛情を描いた昔話は、心があたたまります。
蛇というと、嫌われものの代名詞のようで、昔話でも悪役が多いのですが、この話は違います。もともと蛇は、水の霊、水の神さまのお使いと信じられていました。この話は、自然の恐ろしさと、お母さんの子を思う姿を伝えた話ですが、嫌われがちな蛇だからこそ、説得力があります。親子の愛情、特に母親の見返りを求めない無償のほほ笑み的な子を思う心は、理屈を越えた素晴らしいものです。
◆へびのよめさま◆ 丸山 邦子 著
むかし、あるところに、一人のお百姓さんが住んでいました。
ある時、子どもたちがいじめていた蛇を助けてあげると、その晩、美しい女性が、一晩泊めてほしいと訪ねてきました。次の日、お百姓さんが仕事を終えて帰ってくると、その美しい女性が食事の支度をしていたのです。そうこうしている内に夫婦になり、子どもができ、お産の時は見てはいけないと言われましたが、心配のあまりのぞいたのです。すると、部屋の中には大きな蛇がいて、とぐろの上に赤ん坊を乗せ、なめていたのです。
やがて、赤ん坊を抱いて出て来て、
「私は、助けてもらった蛇で恩返しに嫁になりましたが、姿を見られては、とどまることは出来ません」と言い、赤ん坊が泣いたら、しゃぶらせてほしいと美しい玉を渡すと、沼に姿を消したのです。赤ん坊は、玉をしゃぶり、健やかに育ちました。
ところが、話を聞いた殿様は玉が欲しくなり、家来に言いつけて、取り上げてしまったのです。腹を空かせた赤ん坊は、泣きやみません。途方に暮れたお百姓さんは、沼の淵で、ことの次第を話しました。すると、大きな蛇が、口に玉をくわえて現れたのです。一つの目から血が流れ、もう一つの目は、ふさがっていました。美しい玉は、蛇の片目だったのです。取られたのなら仕方ないと、もう片方の目玉をくれたのでした。
しかし、この玉も殿様に奪われてしまうのです。
お百姓さんが、このことを告げると、蛇は怒り、
「子どもを連れて山へ逃げてください!」
と言ったので、お百姓さんは、子どもを背負って駆け出しました。頂上に着いたとき、沼の水が盛り上がり、城に向かって流れ出したのです。恐ろしい力で向かってくる水の力に、城は、ひとたまりもありません。みんな流されたその後は、湖になってしまったのでした。
九月のはなし きのこのばけもの 松谷 みよ子/吉沢 和夫 監修 日本民話の会・編 国土社 刊
日常生活を快適に過ごすために、やってはいけないことを定め、それを破ると破局を招く発想は、「古事記」の上巻に、豊玉姫(トヨタマヒメ)の出産をのぞいたことで離別する神話があります。姫の正体はふかでしたが、その他にも、機を織る仕事場をのぞいてしまった「鶴の恩返し」や、魚や貝が恩返しをする話などでよく知られています。「見ないでください」といわれると見たくなるのは、「怖いもの見たさ」と同様、人間の悪しき性(さが)のようですね。
これとよく似た話があります。
両目を失った蛇から、「私は盲目となってしまい、わが子の姿を見ることができなくなりました。三井寺の鐘を毎日撞(つ)いて、子どもの無事を知らせてください。年の暮れには、1年過ぎたことがわかるように、多くの鐘を撞いてください。お返しに人々に幸運を授けましょう」という滋賀県の伝説「三井寺の晩鐘」です。以来、三井寺では、除夜の鐘に際し、多くの燈明を献じ、目玉餅を供え、108に限らず、できるだけ多くの人に、できるだけ多く鐘を撞いてもらう特別の儀式が行われています。(www.shiga-miidera.or.jpより)
ところで、最近、落語を聞く機会がほとんどなくなりましたが、「寿限無(じゅげむ)」という噺があります。子どもがけんかをして、寿限無にぶたれた子が、こぶを寿限無の親に見せるのですが、名前があまりにも長いために、文句をいっているうちに、こぶがへこんでしまった噺です。名前の長さは、この話に出てくる名前の五倍ほどあり、それをきちんと覚えている噺家さんは、すごい記憶力だなと、感心させられます。
YouTubeで若き日の故立川談志師匠の「寿限無」を聞くことができます。
気持ちはわかるのですが、親の愛情が行き過ぎると、妙な具合になる話です。
名前は、一生の付き合いですから、あまりこったものでは、本人が大変です。
◆長い名まえ◆ 浜田 廣介 著
むかし、ある村外れに、「やぶん中」と呼ばれる家がありましたが、どうしたわけか、子どもが無事に育たず、3、4歳になると、あの世に行ってしまうのです。ある年に、男の子が生まれ、心配したおじいさんは、長生きできるように、長い名前をつけることにし、和尚さんにお願いしたのです。
つけた名前は、「一丁ぎりの丁ぎりの、丁丁ぎりの丁ぎりの、あの山こえて谷こえて、ちゃんばちゃく助、なんみょう長助」でした。これで、長生きできると、おじいさんは安心して帰るのです。
ある日のこと、長助は川へ菖蒲をとりにいき、丸太の橋を渡ったときに、足を滑らせ落ちてしまったのでした。友達は、おじいさんに知らせました。
「やぶん中のおじちゃん、大変だぁ。おじいちゃんちの、一丁ぎりの丁ぎりの、丁丁ぎりの丁ぎりの、あの山こえて谷こえて、ちゃんばちゃく助、なんみょう長助ちゃんが、落っこちたぁ、落っこちちゃったぁ、川ん中へ!」
声を聞いて、出てきたおじいちゃんは、
「おおい、子どもしゅう。一丁ぎりの丁ぎりの、丁丁ぎりの丁ぎりの、あの山こえて谷こえて、ちゃんばちゃく助、なんみょう長助が、どうしたって。どうしたぁ?」
「川ん中へ落っこちたぁ!」
「そいつは、たいへん」
おじいさんは飛び出していき、近所の人も駆けつけ、間一髪のところで助かったのでした。
世界民話の旅 9 日本の民話 浜田 廣介 著 さ・え・ら書房 刊
「長い名前で助かった」と思いたいのが人情ですね。原作では、井戸に落ちて死んでしまうことになっているそうです。再話で命を救ったのは、作者、浜田廣介の愛情ではないでしょうか。
(次回は、「11月に読んであげたい本(2)と最終回にあたり」についてお話ししましょう)
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