2025さわやかお受験のススメ<保護者編>第八章(1)何にもないのかな 水無月
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「めぇでる教育研究所」発行
2025さわやかお受験のススメ<保護者編>
「情操教育歳時記 日本の年中行事と昔話」
豊かな心を培う賢い子どもの育て方
-第28号-
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第八章 (1) 何にもないのかな 水 無 月
暦の上では、6月から夏です。夏の読み方は、「暑(あつ)」の転化したものといわれていますが、他にも「生(な)る」「暑(ねつ)」などの転化したものという説もあるそうです。
水無月(みなづき)のいわれは、たくさんあります。
旧暦6月は、梅雨も終わり、炎天下の酷暑の季節に入り、文字通り、水もかれつきるという説と、逆に、田植えも終わり、田に水を張る月「水張り月」「水月」からきた説、また、農家のもっとも重要なイベントでもあった田植えが終わったことから「皆仕月(みなしつき)」「皆月(みなつき)」からきた説、そして、雷が多い季節から「かみなり月」の「か」と「り」をとり、「みな月」という説もあるそうです。最後の「ゴロ合わせ」ではなく「語呂合わせ」がおかしいですね。
★★大切な田植えの時です★★
6月といったら、「何といっても……」というものがありません。
毎日、雨が降り、むし暑くて、うっとうしい梅雨です。
この梅雨のいわれですが、梅の実が熟する頃に降る雨から梅雨、湿っぽくて黴(かび)が生えやすい気候から黴雨、この他に梅雨を「つゆ」と読む場合もあります。しとしとと降る雨が、木々の梢や葉にまとわりつき、露となって落ちていく様子から“つゆ”とも呼ばれたのではないかと私流に思い込み、趣のある言葉で好きなのですが、諸説があって本当のことはわからないようです。
梅雨前線が、日本列島にどっしりと腰をすえ、うんざりする毎日になります。
しかし、この時期に、しっかりと雨が降らなくては、困るものがあります。
お米です。
田植えの季節です。
菖蒲(しょうぶ)や蓬(よもぎ)、柏の葉は、端午の節句の専売特許ではありません。昔の5月は、今の6月頃にあたります。今のように、機械で苗を植えるのと違い、田植えは、お百姓さんが、苗を1本1本、手で植えていました。
ですから、時間はかかり、田んぼが広ければ、人手もたくさん必要になります。
まさに、猫の手も借りたいほどの忙しさです。
「米」という字は、「八と十と八」からできています。お米は、種から芽を出した苗を田んぼに植えて収穫し精米するまでに、人の手を八十八回わずらわすといわれるほど、手がかかるのです。
さらに、天気にも左右されます。
ご存知のように、稲は水稲(すいとう)といって水田で栽培しますから、梅雨にたくさん雨が降らなければ、田植えはできません。ちなみに、水稲より大量の水を必要としない畑で栽培する稲、陸稲(おかぼ)もありますが、水稲に比べ品質は劣り収穫量も少ないため、日陰の存在に甘んじているようです。
そして、夏に日照りが悪いと、稲はきちんと育ちません。
しかし、日が照りすぎても、田んぼの水が干上がって、稲は駄目になります。
また、稲は順調に育っても、収穫前に台風がきて、たわわに実った稲穂が強風になぎ倒され、豪雨で水に浸かってしまっては使いものになりません。自然とのかかわりは、宿命的な因果関係のごとく厳しいですから、神頼みにならざるを得ないのです。
そこで、昔の人は知恵を絞り、田植えが無事に済み、たっぷりとお水をいただき、夏にはしっかりとお日さまに顔を出してもらい、稲が立派に育って、秋には、おいしいお米がたくさんとれるようにと、神様にお祈りをしたわけです。
米作りは、やり直しのきかない真剣勝負、人生そのものといえるのではないでしょうか。
そのお祈りをするのは女性の役目で、早乙女(さおとめ)と呼ばれ、田植えをする間、悪いことが起きないように、屋根を菖蒲の葉で作った小屋に集まり、肉食を断つなどして身を清め、精進潔斎をし、一晩中、お祈りをしました。ですから、昔の5月5日は、夏負けをしないように、匂いの強い草で、魔物を追い出す日であり、田植えの準備の日でもあったのです。
ところで、浄瑠璃といえば近松門左衛門、そのすぐれた伝統芸能を観賞する機会はほとんどありませんが、残された名作を本で読むことはできます。代表作の一つ、どうしようもない放蕩無頼で、典型的な自己中の不良青年、与兵衛を描いた「女殺油地獄」の中に、「五月五日の一夜を女の家と言うぞかし」とあり、男の祭りではなく、無事に田植えを行えるよう祈願する女性の祭りであることがわかります。
その田植えですが、本当に、大変な仕事です。
泥んこの田んぼに足をつけたまま、幅1メートルほどの範囲を、10センチ間隔ほどに苗を植えていくのです、腰をかがめて。これを30分程続けると、完全に腰にきます。伸ばすと、ボリッと音がするほど、筋肉は、まいってしまいます。
毎年、天皇陛下が苗を植える「お田植え」、お姿をテレビで拝見しています。
収穫された米は、宮中祭祀に使われたり、伊勢神宮に奉納されるそうです。
「豊葦原(とよあしはら)の瑞穂(みずほ)の実る国(神意によって稲が豊かに実り、栄える国)」、これは日本国の美称として使われる言葉ですが、皇室の儀式とはいえ、無理をなさらないでほしいですね。
最近、小学生が体験授業として、田植えをやる学校が増えているようですが、米を作ることが大変な作業であることを実感できれば、「いただきます」の本当の意味、「ありがたくいただきます」と感謝の気持ちを表していることも理解できるのではないでしょうか。
さて、夏になると、稲のまわりに雑草が生えますが、これを取り除くのも一苦労です。また、腰をまげて、手で雑草を取ります。これが、かんかん照りの太陽のもとでの作業ですから、田んぼの水は、それこそ生ぬるく、草いきれで、むっとする匂いには、泣かされます。人の血を吸う蛭(ひる)もいて、環境のよい仕事場ではありません。日本の夏は高温多湿であるだけに、少しでも手を抜くと雑草が生え、稲の成長を妨げますから手入れが大変で、まるでわが子を育てるのと同じだとお百姓さんに聞いたことがあります。
子育ても手を抜いた分、親が考えもしなかった色に染まってしまうものです。
「手を抜く」といっても育児を放棄するのではなく、ちょっとした思い違いから、親子の絆にひびの入ることもあるものです。「おかしいな?」と感じた時は、親から子どもに話しかけるべきではないでしょうか。そういう時は、子ども自身も迷っているはずだからです。
話を元に戻しましょう。
そして最後の収穫。これも1株、1株、鎌(かま)で刈っていきます。繰り返しますが、お百姓さんの腰が曲がるわけです。刈った稲を、今度は、天日で乾かします。それを脱穀機で稲穂を取り、もみ殻にして、これを精米機にかけ、やっとお米になるのです。
農業の機械化というのでしょうか、田植えから脱穀まで、全部、機械でできるそうですから、これは、すごい省力化です。しかも、無人のトラクターというのも実用になっています。そういえば、最近、腰の曲がったお百姓さんを、あまり、見かけません。
★★てるてる坊主★★
この月は、しっかりと雨が降ってくれなくては困りますが、雨が降ってほしくない時もあります。
子どもの頃、遠足や運動会の前日に、てるてる坊主を作ったものでした。今でも、この風習は残っているようです。天気にしてくれた時には、目、鼻、口をつけてあげた記憶があります。
てるてる坊主
作詞 浅原 鏡村 作曲 中山 晋平
(1)てるてる坊主 てる坊主 明日天気にしておくれ
いつかの夢の空のように はれたら金の鈴あげよ
(2)てるてる坊主 てる坊主 明日天気にしておくれ
私の願いを聞いたなら 甘いお酒をたんと飲ましょ
(3)てるてる坊主 てる坊主 明日天気にしておくれ
それでも曇って泣いたなら そなたの首をチョンと切るぞ
(注 浅原鏡村は、小説家浅原六郎の別名)
幼子の「どうしても晴れてほしいなぁ!」という気持ちが伝わってきます。
「しかし、しかしです」と何も興奮することはありませんが、「てるてる坊主は、坊主ではなく娘さんです!」と聞けば、「ナヌ!?」となりませんか。発祥の地は、またしても中国でした。
てるてる坊主の起源は、中国で掃晴娘(そうせいじょ)とよばれる、ほうきを持った女性の紙人形をつるす風習からきている。娘がほうきで晴れ気を掃きよせ、晴天や幸運を招き寄せようとするまじないで、平安時代に日本へ入ってからは、なぜか坊主に代わってしまった。
(日本の年中行事百科2 夏 民具で見る日本人のくらしQ&A P14
監修 岩井 宏實 河出書房新社 刊)
お坊さんの頭は、つるつるで、何やら光り輝いていますし、明日の天気は神頼み、いや、この場合は仏頼みで、晴れのイメージにつながったのでしょうか。
ところで、今はどうかわかりませんが、一時期、小学校の音楽の教科書の中にはなく、ラジオなどで流す場合は3番をカットするケースがあったようです。
その理由は、歌詞の3番に、
「それでも曇って泣いたなら そなたの首をチョンと切るぞ」
とありますが、それは自分の願いを聞き届けさせようとする「脅迫信仰」であって、童謡らしくない残酷な表現だからだそうです。
作詞者のイメージとしては、残酷に処刑するのではなく、「晴れなかったら承知しないからね!」と、どうしても晴れてほしい切実な願い、その気持ちを表現したかったのではないでしょうか。
映画やテレビ、漫画、ゲームなどでは、もっと残酷な場面を映像で見せつけているではありませんか。詩は、イメージです。こんなことまで規制されるのは、情操教育を考えると、首を傾げたくなります。残酷な犯罪は、きちんとイメージできないから起きるのではないでしょうか。
ですから、「イメージ化できる」ことは、非常に大切な感性です。感性こそ、子どもの時から様々な経験を積み重ね、磨いていくものです。
以前にもお話しましたが、イメージ化を培う力は、読書と何事にも自力で挑戦する生活体験です。
文字を読み取り、その世界を作り上げる作業は、人格を築き上げる大切な学習です。若者の活字離れが指摘され久しくなりますが、思考力や思想を構築する力が劣るわけです。お子さんに本を読む習慣を身にけさせるには、本の読み聞かせと、ご両親の読書をする姿をしっかりと見せておくことです。
そして、何事も自力で挑戦する意欲を育てましょう。失敗を恐れる子にしてはいけません。「為せば成る」ではありませんが、試行錯誤を積み重ねることから、工夫する力も忍耐力も育まれます。
「そんなこともできないのは、駄目な子なの!」
などという保護者がいると聞きますが、「できるように頑張る子に育てるのが親の仕事」です。
幼児教育に携わってきて感じるのは、多くの場合、お母さんがあまりにも不用意に、子どもに劣等感を植え付ける言葉を投げがちです。同じ言葉をご主人に言われれば、柳眉を逆立て、猛烈に反撃するでしょうに。
ご両親のさじ加減で、お子さんの潜在能力は開発されることを肝に銘じてほしいものです。
蛇足になりますが、「為せば成る」は、本当はもっと長い文章で、その頭文字の5個をとったものです。
江戸時代の後期、米沢藩主の上杉鷹山が、家臣に教訓として「為せば成る。為さねばならぬ何事も。成らぬは人の為さぬなりけり」と詠み与えたものですが、それより以前に、武田信玄が「為せば成る、為さねばならぬ。成る業を成らぬと捨つる人の儚(はかな)さ」と、よく似た歌を詠んでおり、鷹山の言葉は、これを変えたものだといわれているそうです。(「故事ことわざ辞典」より)
ところで、これは最近、知ったことですが、4番まであった「てるてる坊主」を、何と作曲者が1番を削除し、今の形にしたとか。その1番の歌とは、
(1)てるてる坊主 てる坊主
あした天気にしておくれ
もしも曇って 泣いてたら
空をながめて みんなで泣こう
(www.tenki.jp/suppl/usagida/2015/05/14/3771.htmlより)
作詞家ではありません、作曲家の中山晋平です。
何ともやさしくて、いいと思いませんか。詳しいことをお知りになりたい方、「てるてる坊主」で検索すると、いろんな情報にヒットできます。
(次回は、「しみじみとうまいにぎり飯」他についてお話しましょう)
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